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第三章 アラサー女子よ、大志を抱け!

68 最後の一戦ーーもとい、一線。

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「ーー前田」
「何?」
「キスが初めてってことはーーその、そういうのも初めて?」
「……そうだけど」
 私の肩を撫でていた指を止めて、前田は私の顔をじっと見た。
「やめとく?」
 その余裕は一体。
「俺も正直、どうしたらいいかわかんないからーー痛くしちゃったら嫌だし」
 私は黙って目をさ迷わせた。二人の間を沈黙が包む。
 正直に言うべきか、否か。ーー
 何を隠そう、私自身も未経験なのである。
 一番長くつき合ったのは夏に別れた彼だけど、学習塾の講師をしながら司法試験の合格を目指している人で、生活リズムが違ったのでチャンスが少なかった。それに加えて、ツルペタな身体がコンプレックスだったこともあるし、私自身、いい加減な気持ちで経験しておこうと思える気質でもない。
 そんなわけで、ただでさえ少ないチャンスは活かされる機会を失して、意図せず今まで処女を守って来ていた訳である。
 ここまで来て怖じけづいた私が前田の方を見やると、やっぱり大して変わらない表情のままじっと見返してくる。待てをされた犬みたいだと、それを見て思った。
 そろりと前田の脇腹に手を通し、背中に回す。
「ーーこれだけ、とかじゃ駄目かな」
 恐る恐る、前田が私の肩に手を添え、そろりそろりと背まで這わせた。
 そのためらいがちな動きに、ぞくりとする。ーーそしてそんな自分が恥ずかしくなった。
「駄目じゃないんだけどさ」
 前田の声が間近から降ってきた。よくよく声を聞きたくて、思わず目を閉じる。
「そのーー俺も一応、男だから」
 私の背に回された手は、固まったようにそのまま動かない。
「生理現象はあるわけで」
 言いづらそうに言うので、私は思わず噴き出した。
「……ヨシカズ」
 私は前田を見上げる。私の目をとらえた前田の目は、戸惑ったように揺れた。口元に浮かぶ笑みを自然に任せて、私は前田の白い頬を撫でる。
「里沙」
「……うん」
 前田は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。その微笑みに、私の奥の方がきゅんと疼く。
 互いの唇が自然と近づき、重なった。
 触れるだけでためらいがちに離れていく前田の温もりが切なくてーーもっと欲しくなる。
「やだ」
「え?」
「……もっと」
 私は衿元を掴むように引き寄せて、また唇を合わせた。
 私がついばむようなキスを繰り返していると、ためらいがちに私に応えていた前田は、私の背中に回していた手に少しずつ力を込めていく。
 ーーもっと。
「ふ」
 息が漏れた瞬間を見計らったかのように、前田の舌が唇を割って侵入してきた。
 ーーが、どう動いてよいのか分からないらしい。
「ふふ」
 私は笑った。前田が気恥ずかしそうに眉を寄せる。
 ディープキスだけだったら経験はあるのだ。ちょっと優位に立った気持ちで前田の舌に自分のそれを絡め、わずかに距離をつくって唇を舐めあげてまた深く口づける。
 リップ音だけが静かな部屋の中に満ちて、段々とエロティックな気持ちになってくる。キスだけなのに深部がとろけてくるーーその先を期待するように。
「抱きしめるだけじゃなかったの」
「そうだね、おかしいな」
 慌てる前田に私は笑う。
「じゃ、おしまい」
 言った瞬間、前田の喉がぐ、っと鳴った。
「ーーじゃあ帰る」
「朝までいてくれるんじゃないの?」
「だってーー」
 前田の目がさ迷った。その周りが赤くて、妙に色っぽい。
「ここで、どう処理しろっての」
 そこでようやく、前田が引け腰になっていることに気づく。ーーそしてそのズボンの下で硬くなっている男性の象徴にも。
「あ。ごめん」
「いや、いいけどーー俺もごめん」
 ぱっと離れると、前田は居心地悪そうにした。
「……やっぱり駄目だよ、ここには泊まれない」
 前田は言いながら身繕いを始めた。本当に出ていくつもりらしいと察して心がざわめく。
 やだ。やだ。置いて行かないで。
 せっかく感じた温もりを離したくなくて、私はあせる。
「で、でも」
「でもじゃないよ」
 前田は私と目を合わせないまま言った。その口調は有無を言わせないと言わんばかりで、私はむっとした。
 ーーだったら言わなければいい。
 私は立ち上がった前田の背中に抱き着いた。ぎゅうと力いっぱい締めつける。
「よし、ださん、苦しい」
「知ってる」
 私は空手の有段者だ。そんじょそこらの女と一緒にされては困るーーきっと私と比較するほど女性経験はないのだろうけれど。
「行かないで」
「だから」
「行かせない」
 ガッチリ捕まれて動けないことに気づいたのだろうか。前田は深々とため息をついた。かと思うと、勢いよく振り返る。
「ーーだったら」
 その目はほとんどやけくその色を帯びていて、私をまっすぐに見つめてくる。
「抱かせてよ」
 ストレートな物言いに背筋を悪寒が駆けていく。ぞくぞくとーー期待に満ちた甘い痺れが。
「いいよ」
 私の答えはかすれた。前田がまた顔を近づける。私はそのキスを受けた。
 ーー学習能力の高いこと。
 口内を犯す舌先に、私は思わず苦笑しそうになる。さっきはあんなに不器用だったのに。
「吉田さんーー里沙」
 耳元で名前を呼ばれて、ぞくりとまた期待が全身を駆け巡った。
「ーー好きだよ」
 微笑。眼鏡の奥の目が甘くとろけている。それに思わず見入ってしまって、私は眼鏡をそろりと外した。外す間前田は目を閉じていたが、取り終わるとまたゆっくりと目を開く。
 その目が私をとらえて揺らいだ。
「どうしたの?」
「いやーーなんか」
 眼鏡がないと落ち着かない、と前田は私の手中のそれを見る。
「だって、眼鏡があるとキスしにくい」
 私は唇を尖らせた。前田が困った顔をする。
「駄目だよその顔」
「何が?」
「もっとキスしたくなる」
 言うなり前田は私の唇を奪った。私はふふと笑って眼鏡を手近な机の上に置く。
 いくらでもすればいい。とろとろにとろけてしまうまで。互いの唇が感覚をなくすまでーー
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