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第二章 本日は前田ワールドにご来場くださり、誠にありがとうございます。

39 ロスタイムの横顔は発見に満ちている。

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 前田のいるフロアに降り立つと、廊下を歩いていく。手にしたレジの袋がガサガサと音を立てて揺れる。ふと思った。前田との言い合いにムキになっているときに、元カレを思い出したことはない。まあムキになっているから当然だが、寂しさを感じたこともない。
 いつも、言い合いをしてーーいや、一方的に腹を立てて、一人になると、変な気分になる。どうして私はあいつにそこまで腹を立てるんだろうと。でもあいつの態度や台詞を思い出す度にやっぱりモヤモヤして、渋面になってしまうのだ。
 前田のデスクが見えた。もう他の人は帰ったか、ちょうど席を外しているらしい。部屋の中に一人で、パソコンに向き合っている。手を止め、一息つく前田の姿に、差し入れにはちょうどいいタイミングだったかもしれないと思いながら近づいた。
「前田」
 私の声に、前田が驚いて飛び上がった。ガタンとキャスターつきの椅子が音を立てる。私は噴き出す。
「いや、驚き過ぎでしょ」
 前田が驚いたおかげで、私は気持ちに余裕ができた。もう帰ったらしい隣のデスクの椅子を引き、座る。
「……何」
 一瞬浮かべた驚きの表情を取り繕うように、前田は不機嫌そうな面持ちを取り戻した。その表情の変化が、不思議に嬉しい。
「はい。差し入れ」
 私は少女のように足をぶらぶらさせながら、コンビニ袋を差し出す。前田はまたわずかに目を見開いてから、おずおずと手を差し出して受けとった。
 野生動物を餌付けするような気分。
 私は笑う。
 そう、普通なら私はいつでもご機嫌なのだ。サリーはいつでも笑ってるよね。そう人に言われるくらいに。
「ずいぶん、ご機嫌じゃない」
 前田は言いながら袋の中をちらりと見た。
「ご飯、まだでしょ?アイスのお礼」
「……どうも」
 前田は言って、サンドイッチを取り出す。さすがに空腹だったと見えて、お手拭きで手を拭くのもそこそこに封を開ける。白い三角形が口に運ばれ、だんだん小さくなっていく。
 サンドイッチに挟まっていたポテトサラダが前田の指についた。と見る間に、前田はその指をぺろりと舐めあげる。
 その舌先が見えた瞬間、ぞわり、と私の身体中を悪寒が駆け巡った。
 拒否反応ではない。そうであったらどれだけよかったか。
 私の身体の反応は、むしろ何かを期待するようなそれだった。
 ーーえ?何これ。どういうこと?
 前田の細く長い指が動き、次のサンドイッチをつまみ上げる。しなやかでありながら女性とは違う力強さを持った指。
 その指から目が離せず、鼓動がドキドキと煩く胸を叩く。ドキドキドキドキ、それが太鼓のように身体中に響き、混乱が思考を抱き込む。とにかく自分の身体の状態をとらえることしかできない。彼の一挙一動から目が離せない。奪われる。目だけではない、思考だけではないーー奪われるのは、
「吉田さん?」
 ちらり、と前田は物憂げな目を上げた。睫毛の長いその目にぎくりとする。
「な、な、な、何?」
 裏返った声に、動揺しまくりなのは隠しようもない。ああもう何だよ前田の癖に。前田の癖に前田の癖に前田の、
「ふっ」
 私の顔を見た前田が、笑った。
 ーー笑った笑った笑った笑っーー
 ぶわ、と全身の毛穴が開くような興奮に、私は目線をさ迷わせた。
 前田が手を拭き、私の方へ差し伸べる。その時間がスローモーションのように見え、目を見開いたまま身動きが取れない。
「顔、真っ赤だよ」
 頬に触れるか触れないかのところで手を止めた前田は、囁くように言った。その声は、わずかにかすれて聞こえーーそういえば、彼の声は若干ハスキーだったと今さら気づく。警報のように鳴りつづける鼓動は静まることもなく鳴りつづけている。ドキドキどころかバクバクと音が変わったように感じつつ、
「う、るさい」
 手を振り払って、かろうじて口をついた強がりは、あっさりと一笑された。
 前田の挙動の一つ一つに、色気を感じてたじろぐ。目が離せない。泣きそうなほどの切なさに、心中で自分を叱咤した。
 ーー前田の癖にっ。
 ばん、と机に手をつき、上体を持ち上げる。
 きょとん、とした前田の顔に、覆いかぶさるように顔を近づけてーー
 唇を掠め取った。
 触れるか触れないかのキスに、前田は唖然として目を見開いている。その顔を見てわずかに優越感を感じながら、私は鞄を手にした。
「また来週っ」
 ーー逃げるが勝ちっ。
 スカートを翻して走り去る私を、前田はぽかんとしたまま見ていた。
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