39 / 85
第二章 本日は前田ワールドにご来場くださり、誠にありがとうございます。
39 ロスタイムの横顔は発見に満ちている。
しおりを挟む
前田のいるフロアに降り立つと、廊下を歩いていく。手にしたレジの袋がガサガサと音を立てて揺れる。ふと思った。前田との言い合いにムキになっているときに、元カレを思い出したことはない。まあムキになっているから当然だが、寂しさを感じたこともない。
いつも、言い合いをしてーーいや、一方的に腹を立てて、一人になると、変な気分になる。どうして私はあいつにそこまで腹を立てるんだろうと。でもあいつの態度や台詞を思い出す度にやっぱりモヤモヤして、渋面になってしまうのだ。
前田のデスクが見えた。もう他の人は帰ったか、ちょうど席を外しているらしい。部屋の中に一人で、パソコンに向き合っている。手を止め、一息つく前田の姿に、差し入れにはちょうどいいタイミングだったかもしれないと思いながら近づいた。
「前田」
私の声に、前田が驚いて飛び上がった。ガタンとキャスターつきの椅子が音を立てる。私は噴き出す。
「いや、驚き過ぎでしょ」
前田が驚いたおかげで、私は気持ちに余裕ができた。もう帰ったらしい隣のデスクの椅子を引き、座る。
「……何」
一瞬浮かべた驚きの表情を取り繕うように、前田は不機嫌そうな面持ちを取り戻した。その表情の変化が、不思議に嬉しい。
「はい。差し入れ」
私は少女のように足をぶらぶらさせながら、コンビニ袋を差し出す。前田はまたわずかに目を見開いてから、おずおずと手を差し出して受けとった。
野生動物を餌付けするような気分。
私は笑う。
そう、普通なら私はいつでもご機嫌なのだ。サリーはいつでも笑ってるよね。そう人に言われるくらいに。
「ずいぶん、ご機嫌じゃない」
前田は言いながら袋の中をちらりと見た。
「ご飯、まだでしょ?アイスのお礼」
「……どうも」
前田は言って、サンドイッチを取り出す。さすがに空腹だったと見えて、お手拭きで手を拭くのもそこそこに封を開ける。白い三角形が口に運ばれ、だんだん小さくなっていく。
サンドイッチに挟まっていたポテトサラダが前田の指についた。と見る間に、前田はその指をぺろりと舐めあげる。
その舌先が見えた瞬間、ぞわり、と私の身体中を悪寒が駆け巡った。
拒否反応ではない。そうであったらどれだけよかったか。
私の身体の反応は、むしろ何かを期待するようなそれだった。
ーーえ?何これ。どういうこと?
前田の細く長い指が動き、次のサンドイッチをつまみ上げる。しなやかでありながら女性とは違う力強さを持った指。
その指から目が離せず、鼓動がドキドキと煩く胸を叩く。ドキドキドキドキ、それが太鼓のように身体中に響き、混乱が思考を抱き込む。とにかく自分の身体の状態をとらえることしかできない。彼の一挙一動から目が離せない。奪われる。目だけではない、思考だけではないーー奪われるのは、
「吉田さん?」
ちらり、と前田は物憂げな目を上げた。睫毛の長いその目にぎくりとする。
「な、な、な、何?」
裏返った声に、動揺しまくりなのは隠しようもない。ああもう何だよ前田の癖に。前田の癖に前田の癖に前田の、
「ふっ」
私の顔を見た前田が、笑った。
ーー笑った笑った笑った笑っーー
ぶわ、と全身の毛穴が開くような興奮に、私は目線をさ迷わせた。
前田が手を拭き、私の方へ差し伸べる。その時間がスローモーションのように見え、目を見開いたまま身動きが取れない。
「顔、真っ赤だよ」
頬に触れるか触れないかのところで手を止めた前田は、囁くように言った。その声は、わずかにかすれて聞こえーーそういえば、彼の声は若干ハスキーだったと今さら気づく。警報のように鳴りつづける鼓動は静まることもなく鳴りつづけている。ドキドキどころかバクバクと音が変わったように感じつつ、
「う、るさい」
手を振り払って、かろうじて口をついた強がりは、あっさりと一笑された。
前田の挙動の一つ一つに、色気を感じてたじろぐ。目が離せない。泣きそうなほどの切なさに、心中で自分を叱咤した。
ーー前田の癖にっ。
ばん、と机に手をつき、上体を持ち上げる。
きょとん、とした前田の顔に、覆いかぶさるように顔を近づけてーー
唇を掠め取った。
触れるか触れないかのキスに、前田は唖然として目を見開いている。その顔を見てわずかに優越感を感じながら、私は鞄を手にした。
「また来週っ」
ーー逃げるが勝ちっ。
スカートを翻して走り去る私を、前田はぽかんとしたまま見ていた。
いつも、言い合いをしてーーいや、一方的に腹を立てて、一人になると、変な気分になる。どうして私はあいつにそこまで腹を立てるんだろうと。でもあいつの態度や台詞を思い出す度にやっぱりモヤモヤして、渋面になってしまうのだ。
前田のデスクが見えた。もう他の人は帰ったか、ちょうど席を外しているらしい。部屋の中に一人で、パソコンに向き合っている。手を止め、一息つく前田の姿に、差し入れにはちょうどいいタイミングだったかもしれないと思いながら近づいた。
「前田」
私の声に、前田が驚いて飛び上がった。ガタンとキャスターつきの椅子が音を立てる。私は噴き出す。
「いや、驚き過ぎでしょ」
前田が驚いたおかげで、私は気持ちに余裕ができた。もう帰ったらしい隣のデスクの椅子を引き、座る。
「……何」
一瞬浮かべた驚きの表情を取り繕うように、前田は不機嫌そうな面持ちを取り戻した。その表情の変化が、不思議に嬉しい。
「はい。差し入れ」
私は少女のように足をぶらぶらさせながら、コンビニ袋を差し出す。前田はまたわずかに目を見開いてから、おずおずと手を差し出して受けとった。
野生動物を餌付けするような気分。
私は笑う。
そう、普通なら私はいつでもご機嫌なのだ。サリーはいつでも笑ってるよね。そう人に言われるくらいに。
「ずいぶん、ご機嫌じゃない」
前田は言いながら袋の中をちらりと見た。
「ご飯、まだでしょ?アイスのお礼」
「……どうも」
前田は言って、サンドイッチを取り出す。さすがに空腹だったと見えて、お手拭きで手を拭くのもそこそこに封を開ける。白い三角形が口に運ばれ、だんだん小さくなっていく。
サンドイッチに挟まっていたポテトサラダが前田の指についた。と見る間に、前田はその指をぺろりと舐めあげる。
その舌先が見えた瞬間、ぞわり、と私の身体中を悪寒が駆け巡った。
拒否反応ではない。そうであったらどれだけよかったか。
私の身体の反応は、むしろ何かを期待するようなそれだった。
ーーえ?何これ。どういうこと?
前田の細く長い指が動き、次のサンドイッチをつまみ上げる。しなやかでありながら女性とは違う力強さを持った指。
その指から目が離せず、鼓動がドキドキと煩く胸を叩く。ドキドキドキドキ、それが太鼓のように身体中に響き、混乱が思考を抱き込む。とにかく自分の身体の状態をとらえることしかできない。彼の一挙一動から目が離せない。奪われる。目だけではない、思考だけではないーー奪われるのは、
「吉田さん?」
ちらり、と前田は物憂げな目を上げた。睫毛の長いその目にぎくりとする。
「な、な、な、何?」
裏返った声に、動揺しまくりなのは隠しようもない。ああもう何だよ前田の癖に。前田の癖に前田の癖に前田の、
「ふっ」
私の顔を見た前田が、笑った。
ーー笑った笑った笑った笑っーー
ぶわ、と全身の毛穴が開くような興奮に、私は目線をさ迷わせた。
前田が手を拭き、私の方へ差し伸べる。その時間がスローモーションのように見え、目を見開いたまま身動きが取れない。
「顔、真っ赤だよ」
頬に触れるか触れないかのところで手を止めた前田は、囁くように言った。その声は、わずかにかすれて聞こえーーそういえば、彼の声は若干ハスキーだったと今さら気づく。警報のように鳴りつづける鼓動は静まることもなく鳴りつづけている。ドキドキどころかバクバクと音が変わったように感じつつ、
「う、るさい」
手を振り払って、かろうじて口をついた強がりは、あっさりと一笑された。
前田の挙動の一つ一つに、色気を感じてたじろぐ。目が離せない。泣きそうなほどの切なさに、心中で自分を叱咤した。
ーー前田の癖にっ。
ばん、と机に手をつき、上体を持ち上げる。
きょとん、とした前田の顔に、覆いかぶさるように顔を近づけてーー
唇を掠め取った。
触れるか触れないかのキスに、前田は唖然として目を見開いている。その顔を見てわずかに優越感を感じながら、私は鞄を手にした。
「また来週っ」
ーー逃げるが勝ちっ。
スカートを翻して走り去る私を、前田はぽかんとしたまま見ていた。
0
お気に入りに追加
120
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる