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第2章 王子様は低空飛行
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「高校、卒業して……そのあと、初めてつき合った人がね」
それが康広くんだと特定されないように、極力端的に話を繋げる。
「忙しいから連絡できなくなるって言って……そのまま、知らない内に、他の人とつき合ってて」
そうだ、言葉にしてしまえば、ただそれだけのこと。
「び、っくりして、別れて……半分やけくそで、私のこと、好きって言ってくれてたお客さんと……つき合って」
本当は客とつき合うつもりなんてなかった。常連客で、私が就職したときから私のことを気に入り、洗髪を指名してくれる人だった。タイプではなかったけれど、店長も先輩も「フリーならつき合ってみれば」と肯定的だった。
少しでも、誰かに埋めてもらえるならと期待した。
けれど、好きでもない男との行為は苦痛以外の何物でもなかった。しかも束縛の厳しいタイプだった。私の仕事が終わる頃に店に来て、私を送ると言ってホテルに連れ込み、疲れているのも構わず抱いた。車を持っていたから終電なんて関係なくて、帰宅すると倒れるように眠って、疲れの取れない身体で始発電車に乗るーーそんな毎日を過ごして、気が狂いそうになった。いや、半ば狂った。それで、夢だった美容師の仕事を辞めた。
支えてくれたのは花音だった。「ちょうど男運が悪かったのよ。少し休むといいよ」そう言って、ほどほどの距離感で、私の様子を伺ってくれた。
好きな男に抱かれた記憶も、好きでもない男に抱かれた記憶も、忘れたくて他の男を求めた。何人抱かれたかなんて覚えていない。失業手当と、薄給ながらも使うあてもなく溜まっていたお金で好きに過ごした。ホテルに泊まっても、だいたいの男はホテル代を出してくれた。安売りするつもりではなかったから、そこはきっちり払ってもらった。
汚れ切った自分をあざ笑いながら、ふらふらと街をさまよった。足を運んだ百貨店に、大好きなコスメブランドのカウンターを見つけた。給料をもらう当てもない私には出せない金額のコスメを眺めながら、キラキラしたカウンターを眩しく見つめていた。
「何か、お探しですか?」
店員さんが笑顔で声をかけてきた。黒いワイシャツ。黒いスラックス。黒い靴。黒いポシェットに化粧道具をつめこんだその人は、意外なことに男性だった。
「--自分を」
思わず答えてから、馬鹿さに笑った。コスメカウンターに来て、自分を探していますーーなんて、困った客だろう。そう思ったけど、店員さんは微笑んだだけだった。
「どうぞ、お座りください」
「え」
優しく化粧台へと促されて、私は慌てた。
「あの。ほんとに、私。何も、買うつもりもなくて」
男受けだけを考えた、分かり易いメイクだけをしている自分が恥ずかしかった。大きく胸元が開いたシャツや、脚をむき出しにしたミニスカート。品性のない恰好が、途端に恥ずかしくなった。
「いいんですよ、今日は暇だから」
店員さんは笑った。さあ、とまた促されて、化粧台の前に座った。
嫌いではなかった自分の顔は、そのとき、とにかく冴えなかった。迷子のような、気まずそうな顔を見て、私は思わず笑った。店員さんも笑った。
「自分の顔、正面から見るの久しぶり?」
「……そうかも、しれない」
メイクをするときは、ほとんど目だけとか、頬だけとかしか写さない。しばらく、そういう鏡しか使っていなかった。そう気づいた。
「そっか。今笑った顔が君の素顔だね」
店員さんは私に確認をしてから、コットンで優しくメイクを落としてくれた。そして下地から一つ一つ丁寧に、私にメイクを施してくれた。
「どんな人に憧れる?」
「カッコいい人」
「カッコいいって、どんな」
「……このブランドの、キャッチコピーみたいな」
店員さんは笑う。
「”ひとりで立つ人は美しい”」
「うん、それ」
柱に飾られたブランドのポスターに写るのは、男性だけれど女性にも見える中性的なモデルだ。吹き荒れる風を身体で受け止め、まっすぐに前を向いている。媚びない目。高いヒールを履いてもまっすぐに立つ脚。
「なれるよ、きっと君なら」
店員さんは微笑んだ。
「嘘。無理だよ」
おべっかに、私は笑う。
「迷子の時期があるからこそ、見つけることができるはずだよ」
閉じた私の目に、アイラインが引かれる。強く。優しく。しなやかに。
「--綺麗だよ。悩んでいる今の君も」
鏡の前に映っているのは、私の知らない私だった。
それが康広くんだと特定されないように、極力端的に話を繋げる。
「忙しいから連絡できなくなるって言って……そのまま、知らない内に、他の人とつき合ってて」
そうだ、言葉にしてしまえば、ただそれだけのこと。
「び、っくりして、別れて……半分やけくそで、私のこと、好きって言ってくれてたお客さんと……つき合って」
本当は客とつき合うつもりなんてなかった。常連客で、私が就職したときから私のことを気に入り、洗髪を指名してくれる人だった。タイプではなかったけれど、店長も先輩も「フリーならつき合ってみれば」と肯定的だった。
少しでも、誰かに埋めてもらえるならと期待した。
けれど、好きでもない男との行為は苦痛以外の何物でもなかった。しかも束縛の厳しいタイプだった。私の仕事が終わる頃に店に来て、私を送ると言ってホテルに連れ込み、疲れているのも構わず抱いた。車を持っていたから終電なんて関係なくて、帰宅すると倒れるように眠って、疲れの取れない身体で始発電車に乗るーーそんな毎日を過ごして、気が狂いそうになった。いや、半ば狂った。それで、夢だった美容師の仕事を辞めた。
支えてくれたのは花音だった。「ちょうど男運が悪かったのよ。少し休むといいよ」そう言って、ほどほどの距離感で、私の様子を伺ってくれた。
好きな男に抱かれた記憶も、好きでもない男に抱かれた記憶も、忘れたくて他の男を求めた。何人抱かれたかなんて覚えていない。失業手当と、薄給ながらも使うあてもなく溜まっていたお金で好きに過ごした。ホテルに泊まっても、だいたいの男はホテル代を出してくれた。安売りするつもりではなかったから、そこはきっちり払ってもらった。
汚れ切った自分をあざ笑いながら、ふらふらと街をさまよった。足を運んだ百貨店に、大好きなコスメブランドのカウンターを見つけた。給料をもらう当てもない私には出せない金額のコスメを眺めながら、キラキラしたカウンターを眩しく見つめていた。
「何か、お探しですか?」
店員さんが笑顔で声をかけてきた。黒いワイシャツ。黒いスラックス。黒い靴。黒いポシェットに化粧道具をつめこんだその人は、意外なことに男性だった。
「--自分を」
思わず答えてから、馬鹿さに笑った。コスメカウンターに来て、自分を探していますーーなんて、困った客だろう。そう思ったけど、店員さんは微笑んだだけだった。
「どうぞ、お座りください」
「え」
優しく化粧台へと促されて、私は慌てた。
「あの。ほんとに、私。何も、買うつもりもなくて」
男受けだけを考えた、分かり易いメイクだけをしている自分が恥ずかしかった。大きく胸元が開いたシャツや、脚をむき出しにしたミニスカート。品性のない恰好が、途端に恥ずかしくなった。
「いいんですよ、今日は暇だから」
店員さんは笑った。さあ、とまた促されて、化粧台の前に座った。
嫌いではなかった自分の顔は、そのとき、とにかく冴えなかった。迷子のような、気まずそうな顔を見て、私は思わず笑った。店員さんも笑った。
「自分の顔、正面から見るの久しぶり?」
「……そうかも、しれない」
メイクをするときは、ほとんど目だけとか、頬だけとかしか写さない。しばらく、そういう鏡しか使っていなかった。そう気づいた。
「そっか。今笑った顔が君の素顔だね」
店員さんは私に確認をしてから、コットンで優しくメイクを落としてくれた。そして下地から一つ一つ丁寧に、私にメイクを施してくれた。
「どんな人に憧れる?」
「カッコいい人」
「カッコいいって、どんな」
「……このブランドの、キャッチコピーみたいな」
店員さんは笑う。
「”ひとりで立つ人は美しい”」
「うん、それ」
柱に飾られたブランドのポスターに写るのは、男性だけれど女性にも見える中性的なモデルだ。吹き荒れる風を身体で受け止め、まっすぐに前を向いている。媚びない目。高いヒールを履いてもまっすぐに立つ脚。
「なれるよ、きっと君なら」
店員さんは微笑んだ。
「嘘。無理だよ」
おべっかに、私は笑う。
「迷子の時期があるからこそ、見つけることができるはずだよ」
閉じた私の目に、アイラインが引かれる。強く。優しく。しなやかに。
「--綺麗だよ。悩んでいる今の君も」
鏡の前に映っているのは、私の知らない私だった。
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