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第2章 王子様は低空飛行
05
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駅の雑踏の端に避け、スマホを耳に当てる私の横に、曽根が黙って立っている。
困惑した顔で見下ろされ、私は「行かないで」と目で訴えた。
手持ち無沙汰な曽根は、腕組みをして壁に寄りかかる。私はその横で、愛想笑いを浮かべながら電話の向こうの美晴ちゃんと話している。
『あの、えっと……どこから話せばいいのかな……』
美晴ちゃんの声は、上気した気配を隠そうともしない。いや、いつでもご機嫌な子だった気もする。いつでもにこにこして、あんまり怒ったり泣いたりしない子だった。
『まず、その。私、前も言った通り、愛里先輩のこと、すごく……尊敬してて、憧れで。こないだ久々に会って、前よりももっと素敵になってて、やっぱり素敵だなって、これからもおつき合いしてもらえると嬉しいなって、そう思って……』
「うん、ありがとう」
淡々と、私は返す。美晴ちゃんは頷いて、また息を吸った。
『だから……ちゃんと、勘違いされないように、言っといた方がいいなって、ずっと思ってたんです』
勘違い?
何のこと?
『私、今……小川、康広先輩と、つき合ってて』
ぐらん、と視界が揺れる。目をつぶる。
知ってたよ。知ってるよ。気づかないわけないじゃない。
いら立ちがふつふつと、腹の底を煮立たせる。
「……うん、仲よさそうだったもんね」
『えへへ、そうですか』
照れ臭そうな声。幸せそうな声。腹が立つ。いら立つ。ヒロインを気取っていたときの私もこんな風だったんだろうか。満面の笑みを浮かべて。自分の幸せしか見えていなくて。
「それで?」
おかしなことを口走ってしまうより先に、美晴ちゃんの話を聞くことにする。彼女がどんなことを言おうが、私が話すよりもよほど気が楽だ。
『それで……昨日、プロポーズされたんです』
私はとっさに、隣に立つ曽根の袖をつかんだ。周囲をぼんやり眺めていた曽根が、驚いた顔で私を支える。背中に変な汗をかいているのを感じた。
「……おめでとう」
『ありがとうございます!』
美晴ちゃんの声が、感激で震えている。
『あの、在学中、愛里先輩、康くんのこと好きだって言ってたから……ほんとは、私も気になってたんですけど、先輩を押しのけるわけにもいかなくて、諦めてて……社会人になって、部活の様子見に行ったら、また再会して……』
ご飯とか、行くようになって。二人でいるのが自然な感じになって。なんだか康くんといると、すごくしっくり来るんです。康くんもそう思ってくれて……
『つき合って2年目の記念日だったんです、昨日。まさかそんな、プロポーズしてくれるなんて思ってなくて……びっくりしたけど嬉しくて。愛里先輩に、つき合ってるってことは伝えておこうと思ったんですけど、なかなか連絡できなくてすみません。でも、結婚するなら、友達も式に呼びたいし、愛里先輩も来て欲しいなってーー』
私はあいづちを打ちながら、ぐらんぐらん揺れそうになる身体を支えようと努める。こんなみっともない心情を、美晴ちゃんに悟られたくはなかった。康広くんにも、悟られたくなかった。まるでまだ、未練のある女みたいだ。吐き気がする。飲みすぎただろうか。さっきまでは楽しいお酒だったのに。
どうしていちいち、ぶち壊してくるの。
喉元まで出かけた言葉を、空気と一緒に飲み込む。ぎゅぶ、と喉の奥で変な音がした。握りしめた曽根の袖が、くしゃくしゃになっているのが見える。
ごめん、曽根。スーツ、しわ。
握りしめていた手を緩めて、しわを伸ばすように袖を撫でる。撫でながら、あいづちを打ち続ける。
美晴ちゃんはまだ楽し気に話している。何を言っているのかも、私に何を伝えたいのかも、もう実際にはよくわかっていないのに、脳っていうのはえらいもんだ。適当なところで、適当なあいづちを打っている。この声は、私から出ているのか。こんなに頭の中が、ぐるんぐるんしているのに、それでもちゃんと応答しているなんてーー
「大丈夫か?」
耳元で、曽根の囁く声がした。
雑踏とも美晴ちゃんの声とも完全に切り離されたところで、曽根の声が聞こえた。
身を屈めたスーツから、曽根の匂いがした。
さわやかなハーブの香り。
私は何も言えずに、笑う。
気弱でみっともない笑顔になった、と思った。
曽根が眉を寄せ、私のスマホを取り上げる。
話し続けている美晴ちゃんの声がした。
「--もしもし」
『えっ、あれ、え? 愛里先輩?』
「今泉?」
曽根が美晴ちゃんの名前を呼ぶ。ぎゅぅと胸が締め付けられる。曽根の手を、両手でつかむ。行かないで。曽根は、私と一緒にいて。美晴ちゃんのところになんて、行かないで。
視界がぐらぐらしている。涙が目に浮かんでくる。頭が混乱状態で、どこをどうしていいやら分からない。急に手を握った私に驚いたのか、曽根は一瞬身体をこわばらせたけれど、美晴ちゃんに淡々と説明していた。
「悪い、今泉。西野、ちょっと飲みすぎて気分悪いみたいで。また今度にしてくれる」
『え、え? なんで、どうして……その声、曽根先輩ですよね? 二人でいたんですか? えっ? えっ??』
「勤め先が一緒なんだよ。とにかく今日はもう悪いけど」
『あ、はい、はい、すみません。あの、愛里先輩によろしくお伝えください。すみません。おやすみなさい』
「ああ。おやすみ」
耐えられず、曽根の胸に抱き着く。通話終了のボタンを押した曽根が、完全に硬直していた。
「お、おい。西野?」
「--っ、--っ」
息を吸って、吐く。吐いて、吸う。曽根の汗と香水の匂いがする。曽根の背中に手を回して、ぎゅうと力いっぱい抱きしめる。曽根が困惑している。身体が震えて、止まらない。こみ上げた嗚咽が、涙によるものなのか、吐き気によるものなのか、分からない。
「西野ーー落ち着け」
「ふ、ふっ、えぐっ……」
最悪だ。また、曽根が勘違いしたかもしれない。私が康広くんのことをいまだに諦め切れてないって、思ったかもしれない。
違うんだ。違うの。今好きなのは、私が、今、好きなのは、間違いなくーー
「……送るから。行くぞ」
混乱した頭で、嗚咽の合間に、言葉がうまく出てこない。私はかろうじて頷いて、差し出された曽根の手を握り、電車に乗り込んだ。
困惑した顔で見下ろされ、私は「行かないで」と目で訴えた。
手持ち無沙汰な曽根は、腕組みをして壁に寄りかかる。私はその横で、愛想笑いを浮かべながら電話の向こうの美晴ちゃんと話している。
『あの、えっと……どこから話せばいいのかな……』
美晴ちゃんの声は、上気した気配を隠そうともしない。いや、いつでもご機嫌な子だった気もする。いつでもにこにこして、あんまり怒ったり泣いたりしない子だった。
『まず、その。私、前も言った通り、愛里先輩のこと、すごく……尊敬してて、憧れで。こないだ久々に会って、前よりももっと素敵になってて、やっぱり素敵だなって、これからもおつき合いしてもらえると嬉しいなって、そう思って……』
「うん、ありがとう」
淡々と、私は返す。美晴ちゃんは頷いて、また息を吸った。
『だから……ちゃんと、勘違いされないように、言っといた方がいいなって、ずっと思ってたんです』
勘違い?
何のこと?
『私、今……小川、康広先輩と、つき合ってて』
ぐらん、と視界が揺れる。目をつぶる。
知ってたよ。知ってるよ。気づかないわけないじゃない。
いら立ちがふつふつと、腹の底を煮立たせる。
「……うん、仲よさそうだったもんね」
『えへへ、そうですか』
照れ臭そうな声。幸せそうな声。腹が立つ。いら立つ。ヒロインを気取っていたときの私もこんな風だったんだろうか。満面の笑みを浮かべて。自分の幸せしか見えていなくて。
「それで?」
おかしなことを口走ってしまうより先に、美晴ちゃんの話を聞くことにする。彼女がどんなことを言おうが、私が話すよりもよほど気が楽だ。
『それで……昨日、プロポーズされたんです』
私はとっさに、隣に立つ曽根の袖をつかんだ。周囲をぼんやり眺めていた曽根が、驚いた顔で私を支える。背中に変な汗をかいているのを感じた。
「……おめでとう」
『ありがとうございます!』
美晴ちゃんの声が、感激で震えている。
『あの、在学中、愛里先輩、康くんのこと好きだって言ってたから……ほんとは、私も気になってたんですけど、先輩を押しのけるわけにもいかなくて、諦めてて……社会人になって、部活の様子見に行ったら、また再会して……』
ご飯とか、行くようになって。二人でいるのが自然な感じになって。なんだか康くんといると、すごくしっくり来るんです。康くんもそう思ってくれて……
『つき合って2年目の記念日だったんです、昨日。まさかそんな、プロポーズしてくれるなんて思ってなくて……びっくりしたけど嬉しくて。愛里先輩に、つき合ってるってことは伝えておこうと思ったんですけど、なかなか連絡できなくてすみません。でも、結婚するなら、友達も式に呼びたいし、愛里先輩も来て欲しいなってーー』
私はあいづちを打ちながら、ぐらんぐらん揺れそうになる身体を支えようと努める。こんなみっともない心情を、美晴ちゃんに悟られたくはなかった。康広くんにも、悟られたくなかった。まるでまだ、未練のある女みたいだ。吐き気がする。飲みすぎただろうか。さっきまでは楽しいお酒だったのに。
どうしていちいち、ぶち壊してくるの。
喉元まで出かけた言葉を、空気と一緒に飲み込む。ぎゅぶ、と喉の奥で変な音がした。握りしめた曽根の袖が、くしゃくしゃになっているのが見える。
ごめん、曽根。スーツ、しわ。
握りしめていた手を緩めて、しわを伸ばすように袖を撫でる。撫でながら、あいづちを打ち続ける。
美晴ちゃんはまだ楽し気に話している。何を言っているのかも、私に何を伝えたいのかも、もう実際にはよくわかっていないのに、脳っていうのはえらいもんだ。適当なところで、適当なあいづちを打っている。この声は、私から出ているのか。こんなに頭の中が、ぐるんぐるんしているのに、それでもちゃんと応答しているなんてーー
「大丈夫か?」
耳元で、曽根の囁く声がした。
雑踏とも美晴ちゃんの声とも完全に切り離されたところで、曽根の声が聞こえた。
身を屈めたスーツから、曽根の匂いがした。
さわやかなハーブの香り。
私は何も言えずに、笑う。
気弱でみっともない笑顔になった、と思った。
曽根が眉を寄せ、私のスマホを取り上げる。
話し続けている美晴ちゃんの声がした。
「--もしもし」
『えっ、あれ、え? 愛里先輩?』
「今泉?」
曽根が美晴ちゃんの名前を呼ぶ。ぎゅぅと胸が締め付けられる。曽根の手を、両手でつかむ。行かないで。曽根は、私と一緒にいて。美晴ちゃんのところになんて、行かないで。
視界がぐらぐらしている。涙が目に浮かんでくる。頭が混乱状態で、どこをどうしていいやら分からない。急に手を握った私に驚いたのか、曽根は一瞬身体をこわばらせたけれど、美晴ちゃんに淡々と説明していた。
「悪い、今泉。西野、ちょっと飲みすぎて気分悪いみたいで。また今度にしてくれる」
『え、え? なんで、どうして……その声、曽根先輩ですよね? 二人でいたんですか? えっ? えっ??』
「勤め先が一緒なんだよ。とにかく今日はもう悪いけど」
『あ、はい、はい、すみません。あの、愛里先輩によろしくお伝えください。すみません。おやすみなさい』
「ああ。おやすみ」
耐えられず、曽根の胸に抱き着く。通話終了のボタンを押した曽根が、完全に硬直していた。
「お、おい。西野?」
「--っ、--っ」
息を吸って、吐く。吐いて、吸う。曽根の汗と香水の匂いがする。曽根の背中に手を回して、ぎゅうと力いっぱい抱きしめる。曽根が困惑している。身体が震えて、止まらない。こみ上げた嗚咽が、涙によるものなのか、吐き気によるものなのか、分からない。
「西野ーー落ち着け」
「ふ、ふっ、えぐっ……」
最悪だ。また、曽根が勘違いしたかもしれない。私が康広くんのことをいまだに諦め切れてないって、思ったかもしれない。
違うんだ。違うの。今好きなのは、私が、今、好きなのは、間違いなくーー
「……送るから。行くぞ」
混乱した頭で、嗚咽の合間に、言葉がうまく出てこない。私はかろうじて頷いて、差し出された曽根の手を握り、電車に乗り込んだ。
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