62 / 114
第八章 天の川の渡り方(ヒメ/阿久津交互)
02 逡巡
しおりを挟む
「来月、大学の友達の結婚式があって、静岡に行くんです」
十月のある朝、澤田は不意に言った。
「ふぅん」
「この前阿久津さんも会った、津田ちゃん……も来ます」
俺はちらりと澤田を見下ろす。澤田もちらりと俺を見上げて、なんとも気弱な笑みを浮かべた。
ここ最近見せるようになった、少し複雑な表情。
彼女の本心の想いとは違う感情を示す表情を見て取り、俺はまた目線を線路の方へ戻す。
「あ、そ」
「……はい」
澤田は俯く。
数秒の沈黙を破ったのは、電車がホームに滑り込んでくる音だった。
大量の人が降り、乗って、また走り始める。
ホームは人でごった返した。
俺は雑踏のざわめきに紛れて、ちらりと澤田の小柄な頭を見下ろす。
澤田はどこかぼんやりしながら、人の流れを見ていた。
「澤田」
口をついて出た呼びかけに、俺は少し渋面になったが、澤田ははっとして顔を上げた。
無表情にぼんやりしていた顔に笑顔を浮かべ、俺を見上げる。
「何ですか?」
頬は紅潮し、目は輝いた。
俺はその視線を受け止め切れず、また前を向いて頭を掻く。
「……最近、らしくねぇぞ」
言ってから、心中で舌打ちした。訳、わかんねぇ。俺がこいつの何を知ってるっていうんだ。
「らしくない?」
こてん、澤田は首を傾げる。こういうときの彼女は、前と同じだ。ごちゃごちゃ考えていないのが分かる。それを見て、つい苦笑じみた笑みが口の端に浮かんだ。
「くよくよすんな。お前は考えずに動くタイプだろ」
澤田は数度、まばたきをした。
そして、小さく唇を尖らせる。
「……私だって、悩んだり、人を気遣ったり……します。できます」
言って、ふいっと顔を背けた。
その目の先を追うように、だいぶ人ごみのはけたホームを見渡す。
「できます、な」
俺は呟いて、一歩前へ踏み出した。澤田がはっと俺を見る。
「じゃあな」
いつもと変わらず言ったのに、澤田は泣きそうな顔になった。
俺は戸惑い、進めかけた足を止める。
「……なんだよ」
言いながら、チラリと電光掲示板の横にある時計を見た。あと一分で、日頃マーシーたちが乗っている電車が来る。
澤田は俺のその一瞬の視線を見咎めるように、きゅっと唇を引き結んだかと思うと、決心したように口を開いた。
「どういう関係なんですか?」
「は?」
「阿久津さんと、マサトさんたち。ただの同期じゃないみたい」
俺は驚きつつ、澤田の何やら強い決意を秘めた目を見返す。
「ただの同期……か」
苦笑を浮かべると、澤田の目が揺らいだ。
「あ、あの。すみません。ええと」
「まあ、同期の中じゃ縁が深い方かもな」
澤田は俺が答えると思っていなかったらしい。戸惑ったような目を俺に向けた。
俺は静かに、もう少しで電車が来るであろう方を眺めている。
「あの二人とは採用前に会った」
十八年前。今、二十五の澤田は、まだ小学生くらいか。
思って歳の差を感じ、笑う。
「俺は仲を取り持ったってとこだな」
恐らく同期夫婦の乗っているであろう電車が見えた。俺を見上げている澤田を見下ろす。
「全部聞きたいか?」
ガタゴトと音を立て、電車がホームに滑り込んだ。電車の風が髪や服を煽る中、澤田がこくりと頷く。
俺は微笑んだ。
電車のドアが開き、人が降りて来る。
「俺は橘が好きだった。馬鹿みたいだろ。十年、ずっと好きだった女を、マーシーに譲ったんだ」
言って、笑う。
思っていた以上に、言葉はすんなり口から出てきた。
橘への想いは、もう過去になった。
ようやく、過去になった。
残っているのは名残だけ。ついあいつのことを思い出し、見かけでもしたら気にかかる、癖のような習慣だけ。
でもそれも、いずれ消えるだろう。
それは寂しいことではなかった。俺と橘の関係は消えてなくなるわけじゃない。その先に、違う関係がある。
そのことをようやく受け止められた。今まで無意識に拒みつづけていたこと。
「ま、譲ったっつーか、あいつにしか興味なかったんだけどな。あの女は」
マーシーと目が合った。整った顔に微笑を浮かべ、俺に手を挙げる。俺も手を挙げ返した。小柄な橘女史が、夫を見上げている。きっと人ごみで俺のことが見えないのだろう。
俺は浮かんだ笑顔をそのままに、ポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあな」
言って一歩踏み出しかけ、何も言わないままの澤田を振り返る。
「そうだ、澤田。朝、もう会う必要なくなったら言えよ。ひとりで待たされるのはごめんだからな」
澤田は困惑した表情で、文句を言うかのように口を開きかけたが、何もいわずに頷いた。
前までの彼女なら、むっとしたところだろうにーーそんな日は来ません、とでも言って。
俺は改札に向かった同期夫婦を追う。
頷く澤田を思い出しながら、苦笑を浮かべた。
でも、それならそれでいい。
早い方がいい。
今まで人に懐かれたことのない俺が澤田に抱く感情は、恋愛のそれではないものの、間違いなく何らかの情がある。
離れるなら、早い方がいい。
互いのために。
十月のある朝、澤田は不意に言った。
「ふぅん」
「この前阿久津さんも会った、津田ちゃん……も来ます」
俺はちらりと澤田を見下ろす。澤田もちらりと俺を見上げて、なんとも気弱な笑みを浮かべた。
ここ最近見せるようになった、少し複雑な表情。
彼女の本心の想いとは違う感情を示す表情を見て取り、俺はまた目線を線路の方へ戻す。
「あ、そ」
「……はい」
澤田は俯く。
数秒の沈黙を破ったのは、電車がホームに滑り込んでくる音だった。
大量の人が降り、乗って、また走り始める。
ホームは人でごった返した。
俺は雑踏のざわめきに紛れて、ちらりと澤田の小柄な頭を見下ろす。
澤田はどこかぼんやりしながら、人の流れを見ていた。
「澤田」
口をついて出た呼びかけに、俺は少し渋面になったが、澤田ははっとして顔を上げた。
無表情にぼんやりしていた顔に笑顔を浮かべ、俺を見上げる。
「何ですか?」
頬は紅潮し、目は輝いた。
俺はその視線を受け止め切れず、また前を向いて頭を掻く。
「……最近、らしくねぇぞ」
言ってから、心中で舌打ちした。訳、わかんねぇ。俺がこいつの何を知ってるっていうんだ。
「らしくない?」
こてん、澤田は首を傾げる。こういうときの彼女は、前と同じだ。ごちゃごちゃ考えていないのが分かる。それを見て、つい苦笑じみた笑みが口の端に浮かんだ。
「くよくよすんな。お前は考えずに動くタイプだろ」
澤田は数度、まばたきをした。
そして、小さく唇を尖らせる。
「……私だって、悩んだり、人を気遣ったり……します。できます」
言って、ふいっと顔を背けた。
その目の先を追うように、だいぶ人ごみのはけたホームを見渡す。
「できます、な」
俺は呟いて、一歩前へ踏み出した。澤田がはっと俺を見る。
「じゃあな」
いつもと変わらず言ったのに、澤田は泣きそうな顔になった。
俺は戸惑い、進めかけた足を止める。
「……なんだよ」
言いながら、チラリと電光掲示板の横にある時計を見た。あと一分で、日頃マーシーたちが乗っている電車が来る。
澤田は俺のその一瞬の視線を見咎めるように、きゅっと唇を引き結んだかと思うと、決心したように口を開いた。
「どういう関係なんですか?」
「は?」
「阿久津さんと、マサトさんたち。ただの同期じゃないみたい」
俺は驚きつつ、澤田の何やら強い決意を秘めた目を見返す。
「ただの同期……か」
苦笑を浮かべると、澤田の目が揺らいだ。
「あ、あの。すみません。ええと」
「まあ、同期の中じゃ縁が深い方かもな」
澤田は俺が答えると思っていなかったらしい。戸惑ったような目を俺に向けた。
俺は静かに、もう少しで電車が来るであろう方を眺めている。
「あの二人とは採用前に会った」
十八年前。今、二十五の澤田は、まだ小学生くらいか。
思って歳の差を感じ、笑う。
「俺は仲を取り持ったってとこだな」
恐らく同期夫婦の乗っているであろう電車が見えた。俺を見上げている澤田を見下ろす。
「全部聞きたいか?」
ガタゴトと音を立て、電車がホームに滑り込んだ。電車の風が髪や服を煽る中、澤田がこくりと頷く。
俺は微笑んだ。
電車のドアが開き、人が降りて来る。
「俺は橘が好きだった。馬鹿みたいだろ。十年、ずっと好きだった女を、マーシーに譲ったんだ」
言って、笑う。
思っていた以上に、言葉はすんなり口から出てきた。
橘への想いは、もう過去になった。
ようやく、過去になった。
残っているのは名残だけ。ついあいつのことを思い出し、見かけでもしたら気にかかる、癖のような習慣だけ。
でもそれも、いずれ消えるだろう。
それは寂しいことではなかった。俺と橘の関係は消えてなくなるわけじゃない。その先に、違う関係がある。
そのことをようやく受け止められた。今まで無意識に拒みつづけていたこと。
「ま、譲ったっつーか、あいつにしか興味なかったんだけどな。あの女は」
マーシーと目が合った。整った顔に微笑を浮かべ、俺に手を挙げる。俺も手を挙げ返した。小柄な橘女史が、夫を見上げている。きっと人ごみで俺のことが見えないのだろう。
俺は浮かんだ笑顔をそのままに、ポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあな」
言って一歩踏み出しかけ、何も言わないままの澤田を振り返る。
「そうだ、澤田。朝、もう会う必要なくなったら言えよ。ひとりで待たされるのはごめんだからな」
澤田は困惑した表情で、文句を言うかのように口を開きかけたが、何もいわずに頷いた。
前までの彼女なら、むっとしたところだろうにーーそんな日は来ません、とでも言って。
俺は改札に向かった同期夫婦を追う。
頷く澤田を思い出しながら、苦笑を浮かべた。
でも、それならそれでいい。
早い方がいい。
今まで人に懐かれたことのない俺が澤田に抱く感情は、恋愛のそれではないものの、間違いなく何らかの情がある。
離れるなら、早い方がいい。
互いのために。
0
お気に入りに追加
120
あなたにおすすめの小説
ズボラ上司の甘い罠
松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。
仕事はできる人なのに、あまりにももったいない!
かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。
やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか?
上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。
五月病の処方箋
松丹子
恋愛
狩野玲子29歳は五月が大嫌い。その理由を知った会社の後輩、石田椿希27歳に迫られて…
「玲子さん。五月病の特効薬、知ってます?」
キリッと系ツンデレOLとイケメン後輩のお話です。
少しでも、お楽しみいただけたら幸いです。
*Rシーンは予告なく入りますのでご注意ください。
神崎くんは残念なイケメン
松丹子
恋愛
インカレサークルで出会った神崎隼人くんは、文武両道容姿端麗なイケメン。
けど、なーんか残念なんだよね……って、え?そう思ってるの、私だけ?
なんで?だってほら、ちょっと変わってるじゃんーー
キリッと系女子と不器用な男子とその周辺のお話。
【現在ぼちぼち見直し作業中ですので、途中で改行ルール等が変わりますがご了承ください】
*明記はしていませんが、未成年の飲酒を示唆するシーンがちょいちょいあります。不快に思われる方はご遠慮ください。
*番外編 えみりんの子育て奮闘記、不定期更新予定。がんばるママさんを応援したい。
*「小説家になろう」様にも公開中。
関連作品(主役)
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(隼人の兄、神崎政人)
『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(サリー)
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
母になる、その途中で
ゆう
恋愛
『母になる、その途中で』
大学卒業を控えた21歳の如月あゆみは、かつての恩師・星宮すばると再会する。すばるがシングルファーザーで、二人の子ども(れん・りお)を育てていることを知ったあゆみは、家族としての役割に戸惑いながらも、次第に彼らとの絆を深めていく。しかし、子どもを愛せるのか、母親としての自分を受け入れられるのか、悩む日々が続く。
完璧な母親像に縛られることなく、ありのままの自分で家族と向き合うあゆみの成長と葛藤を描いた物語。家庭の温かさや絆、自己成長の大切さを通じて、家族の意味を見つけていく彼女の姿に共感すること間違いなしです。
不安と迷いを抱えながらも、自分を信じて前に進むあゆみの姿が描かれた、感動的で温かいストーリー。あなたもきっと、あゆみの成長に胸を打たれることでしょう。
【この物語の魅力】
成長する主人公が描く心温まる家族の物語
母親としての葛藤と自己矛盾を描いたリアルな感情
家族としての絆を深めながら進んでいく愛と挑戦
心温まるストーリーをぜひお楽しみください。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
異世界の赤髪騎士殿、私をじゃじゃ馬と呼ばないで
牡丹
恋愛
歳より若く見える主婦が主人公。
日本庭園で濃霧の中を進むと見知らぬ王城の中庭だった。
いきなり不審者だと騎士に殺されそうに。
迷い込んだ異世界の文化や常識の違いに戸惑ってばかり。
元の世界に帰れない。孤独に押しつぶされそうになって、1人寂しく泣いています。
主人公は元の世界へ帰れるのかな?
この話の続きは独立させています。
「異世界の赤髪騎士殿は、じゃじゃ馬な妻を追いかける」
読んでいただければ嬉しいです。
このお話は題名や主人公の名前などアレンジして「小説家になろう」にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる