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第八章 天の川の渡り方(ヒメ/阿久津交互)

02 逡巡

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「来月、大学の友達の結婚式があって、静岡に行くんです」
 十月のある朝、澤田は不意に言った。
「ふぅん」
「この前阿久津さんも会った、津田ちゃん……も来ます」
 俺はちらりと澤田を見下ろす。澤田もちらりと俺を見上げて、なんとも気弱な笑みを浮かべた。
 ここ最近見せるようになった、少し複雑な表情。
 彼女の本心の想いとは違う感情を示す表情を見て取り、俺はまた目線を線路の方へ戻す。
「あ、そ」
「……はい」
 澤田は俯く。
 数秒の沈黙を破ったのは、電車がホームに滑り込んでくる音だった。
 大量の人が降り、乗って、また走り始める。
 ホームは人でごった返した。
 俺は雑踏のざわめきに紛れて、ちらりと澤田の小柄な頭を見下ろす。
 澤田はどこかぼんやりしながら、人の流れを見ていた。
「澤田」
 口をついて出た呼びかけに、俺は少し渋面になったが、澤田ははっとして顔を上げた。
 無表情にぼんやりしていた顔に笑顔を浮かべ、俺を見上げる。
「何ですか?」
 頬は紅潮し、目は輝いた。
 俺はその視線を受け止め切れず、また前を向いて頭を掻く。
「……最近、らしくねぇぞ」
 言ってから、心中で舌打ちした。訳、わかんねぇ。俺がこいつの何を知ってるっていうんだ。
「らしくない?」
 こてん、澤田は首を傾げる。こういうときの彼女は、前と同じだ。ごちゃごちゃ考えていないのが分かる。それを見て、つい苦笑じみた笑みが口の端に浮かんだ。
「くよくよすんな。お前は考えずに動くタイプだろ」
 澤田は数度、まばたきをした。
 そして、小さく唇を尖らせる。
「……私だって、悩んだり、人を気遣ったり……します。できます」
 言って、ふいっと顔を背けた。
 その目の先を追うように、だいぶ人ごみのはけたホームを見渡す。
「できます、な」
 俺は呟いて、一歩前へ踏み出した。澤田がはっと俺を見る。
「じゃあな」
 いつもと変わらず言ったのに、澤田は泣きそうな顔になった。
 俺は戸惑い、進めかけた足を止める。
「……なんだよ」
 言いながら、チラリと電光掲示板の横にある時計を見た。あと一分で、日頃マーシーたちが乗っている電車が来る。
 澤田は俺のその一瞬の視線を見咎めるように、きゅっと唇を引き結んだかと思うと、決心したように口を開いた。
「どういう関係なんですか?」
「は?」
「阿久津さんと、マサトさんたち。ただの同期じゃないみたい」
 俺は驚きつつ、澤田の何やら強い決意を秘めた目を見返す。
「ただの同期……か」
 苦笑を浮かべると、澤田の目が揺らいだ。
「あ、あの。すみません。ええと」
「まあ、同期の中じゃ縁が深い方かもな」
 澤田は俺が答えると思っていなかったらしい。戸惑ったような目を俺に向けた。
 俺は静かに、もう少しで電車が来るであろう方を眺めている。
「あの二人とは採用前に会った」
 十八年前。今、二十五の澤田は、まだ小学生くらいか。
 思って歳の差を感じ、笑う。
「俺は仲を取り持ったってとこだな」
 恐らく同期夫婦の乗っているであろう電車が見えた。俺を見上げている澤田を見下ろす。
「全部聞きたいか?」
 ガタゴトと音を立て、電車がホームに滑り込んだ。電車の風が髪や服を煽る中、澤田がこくりと頷く。
 俺は微笑んだ。
 電車のドアが開き、人が降りて来る。
「俺は橘が好きだった。馬鹿みたいだろ。十年、ずっと好きだった女を、マーシーに譲ったんだ」
 言って、笑う。
 思っていた以上に、言葉はすんなり口から出てきた。
 橘への想いは、もう過去になった。
 ようやく、過去になった。
 残っているのは名残だけ。ついあいつのことを思い出し、見かけでもしたら気にかかる、癖のような習慣だけ。
 でもそれも、いずれ消えるだろう。
 それは寂しいことではなかった。俺と橘の関係は消えてなくなるわけじゃない。その先に、違う関係がある。
 そのことをようやく受け止められた。今まで無意識に拒みつづけていたこと。
「ま、譲ったっつーか、あいつにしか興味なかったんだけどな。あの女は」
 マーシーと目が合った。整った顔に微笑を浮かべ、俺に手を挙げる。俺も手を挙げ返した。小柄な橘女史が、夫を見上げている。きっと人ごみで俺のことが見えないのだろう。
 俺は浮かんだ笑顔をそのままに、ポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあな」
 言って一歩踏み出しかけ、何も言わないままの澤田を振り返る。
「そうだ、澤田。朝、もう会う必要なくなったら言えよ。ひとりで待たされるのはごめんだからな」
 澤田は困惑した表情で、文句を言うかのように口を開きかけたが、何もいわずに頷いた。
 前までの彼女なら、むっとしたところだろうにーーそんな日は来ません、とでも言って。
 俺は改札に向かった同期夫婦を追う。
 頷く澤田を思い出しながら、苦笑を浮かべた。
 でも、それならそれでいい。
 早い方がいい。
 今まで人に懐かれたことのない俺が澤田に抱く感情は、恋愛のそれではないものの、間違いなく何らかの情がある。
 離れるなら、早い方がいい。
 互いのために。
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