上 下
39 / 114
第六章 夏の終わりの夜の夢(阿久津視点)

05 そこにもう、君はいない

しおりを挟む
【指令。妻を家まで送って来るように。うち泊まってもいいぞ】
 届いたメッセージに、俺は苦笑した。
 こいつほんと。いい性格してるわ。
 似合わぬ乱暴さを感じるお節介は、俺の気質を考慮してのことだろう。
「どうかした?」
 ワインを二人で1本空けたが、橘は酔った様子もない。それでも本人は、「妊娠、授乳でしばらく飲んでなかったから、弱くなったみたい」と笑っているが。
「過保護なダンナから」
「え?」
 俺がかざしたスマホを見て、橘は困ったように笑った。
「何これ。初めてよ、こんなの」
「だろうな」
 俺は答えて、スマホをタップする。
「いいよ、気にしないで。私一人で帰れるし」
 俺が了解、とメッセージを返すのと、橘が言うのがほぼ同時。
「もう返事した」
「えー!」
 いいのに、もう。と橘は唇を尖らせる。俺は笑った。
「今回だけだよ」
 どうせ、これで最後だ。
 最後くらい、女扱いさせてもらう。
 こみ上げた何かを、一気に酒で流し込む。
 喉を通り、胃の奥へ。
 出て来るなよ、とその何かをたしなめる。
 知らなくていい。この女は、気づかないままでいい。
 気づかないままでいてほしい。
 俺自身のためにも。
「さて、行くか」
「うん、行こっか」
 橘は笑った。昔から変わらない軽やかさで、当然のように伝票を手にする。
 二人でレジ前に立つと、ざっくり半々の金を出す。残りをどっちが受け取るかでやり取りし、橘の家までの交通費と言われて今回は俺が受けとった。
 何年前かと同じようなやり取りだ。そう思ったのは俺だけではなかったらしい。駅までの道を機嫌よく歩きながら、橘は懐かしそうに笑った。
「懐かしいね。よくこうやって帰ったね。時々、肩まで組んじゃったりして」
「組んでみる?」
 もちろん冗談のつもりだ。橘は微笑んで首を振った。
「やめとく。もう大人だもん」
「大人だし、三児の母だしな」
「そうそう」
 夏も終わりに近づいたとはいえ、まだ空気は蒸し暑く、ねっとりと肌にまといつく。
 その中を、俺と橘は当たり障りのない距離を開けて歩いていく。
 時々懐かしい話をし、時々、最近のことを話しながら。
 三時間近く飲んだ後でも、俺と橘の会話は尽きない。これも昔から変わらなかった。
 気が合うからだと思いたいときもあったし、橘のコミュニケーション能力が高いからだと思ったときもあった。
 こいつといても疲れない。変な気を使わなくて済む。俺の愛想と橘の機嫌は完全に別で、俺が無愛想でも橘は笑ったし、俺の愛想が良くても橘は怒った。
 俺にとってはそれが気楽だったのだが、考えてみればそれはただ、俺に関心がなかっただけかもしれない。
 俺と橘は取り留めのない話をして笑いながら、マーシーの待つ家へと向かった。

 家は住宅地にある一軒家だ。家の前まで歩きながらも、橘は何度か、ここまででいい、と言った。それでも、俺は聞く耳を持たず歩いた。何度か招かれたその家までの道は、俺ももう案内されずとも分かっている。
「ほんとにちゃんと送らなくても。家の前まで送ってもらったよ、って私が言えばいいだけじゃない」
 苦笑しながら橘は言ったが、俺は黙って答えない。
「阿久津、なんか今日、変だよ」
 不意に、ぽつりと橘が言った。俺はちらりと横目で橘を見た。不安そうな、気遣わしげな目が、俺の表情を伺っている。
「変、か」
 俺は笑った。
「そうかもな」
 橘は肩を竦める。
「もしかして、あの……私、余計なことした?」
「余計なこと?」
「ほら、あの子。ヒメちゃん」
 すっかり忘れていた名前を聞いて、俺は足を止めた。
 俯いた橘の頭を見つめながら、忘れていた自分にも驚く。
「あの子、一所懸命だったし、ちゃんと阿久津のこと見てると思ったんだけど……うちの人にも端略的すぎるって怒られたけど、やっぱりよくなかったのかなって」
 橘は話しているうちに、だんだんと不安が増して来たらしい。ぱっと顔をあげて俺を見る目は、すこし涙ぐんで見えた。
「考えてみたら、阿久津、いっつも飲み会に私と政人呼んでくれてたじゃない。仲介役っていうかなんていうか、切れそうな縁をうまく取り持ってくれてたのって、阿久津だったんだなって思って。もしかしたら私も、阿久津のそういうの、取り持てるんだったらって思ったのも、なくもなかったっていうか」
 日頃テキパキと要領を得た話をする女が、ぶつ切りな話し方になっている。そのことに新鮮さを覚えながら、俺は黙って橘を見つめた。
「でも、それって私の勝手で、阿久津にとっては大きなお世話だったかもしれないし。そんな押し付けがましいの、良くなかったなって反省して……」
「いいよ」
 言葉を遮るように、俺は低く言った。橘の困惑した表情を見て、ああ、と気づく。無表情になっていた。怒っていると思われたかもしれない。
 初めてかもしれない。
 橘が初めて、俺の無表情を不機嫌だと勘違いした。
 俺の気持ちを思いやって。
 皮肉過ぎて、自嘲気味な笑顔が浮かびそうになる。
 が、俺は意識的に、愛想のいい笑顔を浮かべた。
「澤田のことは、関係ない」
 いや、全然関係ない訳ではないが、きっかけに過ぎない。
 そもそも、今の俺は不機嫌な訳でも、疲れてる訳でもない。
 本当ならもっと早く向き合うべきだったことに向き合わずにいたツケが、今回ってきただけだ。
 言うなれば、悪いのは先延ばしにしていた俺。
 この想いに向き合い、葬る機会を、澤田が提供したに過ぎない。
 澤田と、目の前で複雑な表情を浮かべる女の夫が。
 俺はすぐ先に見える目的地を見た。
 家の明かりは消えているように見えたが、リビングの明かりだけはついていた。まだマーシーが起きているのかもしれない。
「待ってるぞ。マーシー」
「あ……うん」
 橘は頷いた。俺は歩き出す。橘も一歩遅れてついて来る。
 家の前で立ち止まった俺の横を通って、橘は玄関前まで歩き、振り向いた。
「ありがとう。送ってくれて」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
 橘が鞄から鍵を取り出し、ドアを開ける。
 それを横目に見ながら、俺はまた駅へと引き返す。
 一瞬、玄関先の室内灯が暗闇を照らし出し、橘が入って行った気配がした。
 ぱたん、とドアが閉まる音がする。次いで、がちゃり、と鍵が締まる音。
 俺はそこで立ち止まり、振り向いた。
 もう、そこに橘はいない。
 おやすみ、と言った橘の声を思い出す。が、その表情は暗闇に紛れてよく覚えていない。
 笑っていたろうか。気遣わしげなままだったろうか。
 顔をちゃんと見ておけばよかった。
 後悔しながら、俺はまた歩き出した。
 おやすみ、と答えながら、俺はどんな顔をしていただろう。すがりつくような目をしていなかったと願いたい。

 夏の終わりの夜風は、相変わらず肌にまとわりつく。
 おやすみ。さよなら。
 俺は歩きながら、息を吐く。吐いて吐いて吐き尽くして、息が止まったところで、呟いた。

 橘。
 好き、だった。

 思い切り息を吸う。口だけで笑って空を見る。冬と違ってすっきりしない夏の夜空に、それでもいくつか星がまたたいている。

 ありがとう。

 橘の声が、脳内にリフレインした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

純潔の寵姫と傀儡の騎士

四葉 翠花
恋愛
侯爵家の養女であるステファニアは、国王の寵愛を一身に受ける第一寵姫でありながら、未だ男を知らない乙女のままだった。 世継ぎの王子を授かれば正妃になれると、他の寵姫たちや養家の思惑が絡み合う中、不能の国王にかわってステファニアの寝台に送り込まれたのは、かつて想いを寄せた初恋の相手だった。

[R18] 18禁ゲームの世界に御招待! 王子とヤらなきゃゲームが進まない。そんなのお断りします。

ピエール
恋愛
R18 がっつりエロです。ご注意下さい えーー!! 転生したら、いきなり推しと リアルセッ○スの真っ最中!!! ここって、もしかしたら??? 18禁PCゲーム ラブキャッスル[愛と欲望の宮廷]の世界 私って悪役令嬢のカトリーヌに転生しちゃってるの??? カトリーヌって•••、あの、淫乱の••• マズイ、非常にマズイ、貞操の危機だ!!! 私、確か、彼氏とドライブ中に事故に遭い•••• 異世界転生って事は、絶対彼氏も転生しているはず! だって[ラノベ]ではそれがお約束! 彼を探して、一緒に こんな世界から逃げ出してやる! カトリーヌの身体に、男達のイヤラシイ魔の手が伸びる。 果たして、主人公は、数々のエロイベントを乗り切る事が出来るのか? ゲームはエンディングを迎える事が出来るのか? そして、彼氏の行方は••• 攻略対象別 オムニバスエロです。 完結しておりますので最後までお楽しみいただけます。 (攻略対象に変態もいます。ご注意下さい)   

【完結】お義父様と義弟の溺愛が凄すぎる件

百合蝶
恋愛
お母様の再婚でロバーニ・サクチュアリ伯爵の義娘になったアリサ(8歳)。 そこには2歳年下のアレク(6歳)がいた。 いつもツンツンしていて、愛想が悪いが(実話・・・アリサをーーー。) それに引き替え、ロバーニ義父様はとても、いや異常にアリサに構いたがる! いいんだけど触りすぎ。 お母様も呆れからの憎しみも・・・ 溺愛義父様とツンツンアレクに愛されるアリサ。 デビュタントからアリサを気になる、アイザック殿下が現れーーーーー。 アリサはの気持ちは・・・。

慰み者の姫は新皇帝に溺愛される

苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。 皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。 ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。 早速、二人の初夜が始まった。

【R18】国王陛下に婚活を命じられたら、宰相閣下の様子がおかしくなった

ほづみ
恋愛
国王から「平和になったので婚活しておいで」と言われた月の女神シアに仕える女神官ロイシュネリア。彼女の持つ未来を視る力は、処女喪失とともに失われる。先視の力をほかの人間に利用されることを恐れた国王からの命令だった。好きな人がいるけどその人には好かれていないし、命令だからしかたがないね、と婚活を始めるロイシュネリアと、彼女のことをひそかに想っていた宰相リフェウスとのあれこれ。両片思いがこじらせています。 あいかわらずゆるふわです。雰囲気重視。 細かいことは気にしないでください! 他サイトにも掲載しています。 注意 ヒロインが腕を切る描写が出てきます。苦手な方はご自衛をお願いします。

【本編完結・R18】旦那様、子作りいたしましょう~悪評高きバツイチ侯爵は仔猫系令嬢に翻弄される~

とらやよい
恋愛
悪評高き侯爵の再婚相手に大抜擢されたのは多産家系の子爵令嬢エメリだった。 侯爵家の跡取りを産むため、子を産む道具として嫁いだエメリ。 お互い興味のない相手との政略結婚だったが……元来、生真面目な二人は子作りという目標に向け奮闘することに。 子作りという目標達成の為、二人は事件に立ち向かい距離は縮まったように思えたが…次第に互いの本心が見えずに苦しみ、すれ違うように……。 まだ恋を知らないエメリと外見と内面のギャップが激しい不器用で可愛い男ジョアキンの恋の物語。 ❀第16回恋愛小説大賞に参加中です。 ***補足説明*** R-18作品です。苦手な方はご注意ください。 R-18を含む話には※を付けてあります。

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

【R18】国王陛下はずっとご執心です〜我慢して何も得られないのなら、どんな手を使ってでも愛する人を手に入れよう〜

まさかの
恋愛
濃厚な甘々えっちシーンばかりですので閲覧注意してください! 題名の☆マークがえっちシーンありです。 王位を内乱勝ち取った国王ジルダールは護衛騎士のクラリスのことを愛していた。 しかし彼女はその気持ちに気付きながらも、自分にはその資格が無いとジルダールの愛を拒み続ける。 肌を重ねても去ってしまう彼女の居ない日々を過ごしていたが、実の兄のクーデターによって命の危険に晒される。 彼はやっと理解した。 我慢した先に何もないことを。 ジルダールは彼女の愛を手に入れるために我慢しないことにした。 小説家になろう、アルファポリスで投稿しています。

処理中です...