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本編
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理都子は電車に揺られて帰宅した。メイクをしそびれたことも、そもそも顔を洗いそびれたことも、電車に乗ってから気づいた。
胸に抱えたトートバッグを、強く抱きしめていた。
まるで、家出をした少女のように
不思議な心細さは、高校時代の自分を思い出させた。
理都子は眉を寄せて目を閉じる。
意図的に忘れようとしている過去が、理都子の胸の中にむくむくと膨れ上がって、陰を落とそうとする。
気弱な理都子。
お人よしな理都子。
「あの……大丈夫ですか? ご気分悪ければ、ここ、座ってください」
柱横に立っていた理都子は、そう声をかけられて振り向いた。そこには心配そうな顔で椅子を指し示す女性がいる。真面目そうな、黒いスーツ姿の女性だった。
理都子の職場は休館日だが、ちまたは平日なのだと思い出す。
理都子はどうにか笑って手を振った。
「大丈夫です。次で降りるので」
そのとき、車内アナウンスが駅への到着を告げた。理都子は女性に会釈して、電車を降りる。
そのとき、ふわり、と風が下からスカートを持ち上げた。
春の訪れを告げるような生ぬるい風が、スカートと共に脚に纏わりつく。
歩きにくさを感じながら、理都子は改札口へと歩いた
駅の外に出ると、風はますます理都子の歩みを惑わせた。右から吹いたと思えば左。左から吹いたと思えば下。
子犬が足元にじゃれつくように、あっちへこっちへと理都子を翻弄する。
立ち並ぶ駅ビルが、そうした風のいたずらと共謀しているようだった。
ひゅぅと鳴る音を聞きながら、理都子はもたもたと脚を進める。
髪がぐしゃぐしゃに乱れて、頬に、額にと張り付いた。視界を確保しようと片手でそれを押さえながら進んでいくうち、ぽつり、と何かが頭に当たる。
はっとしたときにはもう、ばらついた雨が落ちてきていた。
晴れ間が見えていたので気を抜いていたが、見上げれば確かに薄黒い雲がそこにある。
お天気雨ならすぐに止むだろうと算段をつけて、理都子は早足で自宅へと急いだ。が、あいにく、自宅へ着くまでの間雨が止むことはなく、大粒の雨に変わってきて、最後には走るはめになった。
濡れないように抱えていたバッグの中から鍵を出し、ドアを開けて中に入る。どさ、と音を立てて玄関先に鞄を放ると、乱れた呼吸の合間に「最悪」と呟いた。
黒いボブヘアはべったりと顔と首筋にへばりつき、肩と膝もびしょ濡れだ。
何より、濡れたストッキングが肌に張り付いて気持ち悪い。
理都子はその場で服を脱ぎ、全裸になって中へ入った。
さして給料の高くない仕事でもあり、理都子の家は玄関から見渡せるほどの広さの1LKだ。洗濯機に服をほうり込むと、その横の浴室へ入る。給湯器をオンにすると、熱めに設定したシャワーの蛇口を一気に捻った。
水がバスタブを叩く音がする。理都子は手で温度を確認してから、その強めの水圧の下へと身体を滑り込ませる。
シャワーの水が理都子の柔らかい肌をたたく。細い指先でノックされるみたいだ。
目を閉じてシャワーを頭上に翳した。
ざぁあああああ、と落ちる湯が、足元に水流を作る。理都子はシャワーから放たれる温もりに包まれながら、ようやく一息ついた。
拓哉の家を出てから空中をさ迷っているようだった足元が、湯の温もりでようやく地面の確かさを感じる。
栓の代わりに足で浴槽の穴をふさぐと、シャワーから降り注ぐ湯はみるみるうちに溜まり、理都子の足首までを沈めた。
冷えた足指の先が温まり、ひとごこち着く。
拓哉に惑わされた日常を取り戻すべく、愛用しているシャンプーのボトルに手を伸ばした。
こげ茶色のボトルに入った液体の残量は、もうごくわずかだった。手にそれを押し出しながら、買いに行かなくちゃとぼんやり考える。
シャワーから一度頭を離し、シャンプーをつけた手で、マッサージするように頭を揉み込む。すぐに白い泡がたち、優しいアロマの香りが広がる。
オレンジスイートをベースにした爽やかな甘さを鼻腔に吸い込み、湯で流す。
「買い物行かなきゃ……」
詩乃が勤める会社のシャンプーは、チェーン展開していて比較的色々なところで手に入る。が、行き慣れた店に行った方が結局手早く買えるはずだ。
理都子の行きつけは、詩乃が勤める支店にある。
髪に、身体についたぬめりがすべて流れ落ちたのを確認すると、理都子はシャワーを止めた。浴室に立ち上る香りがいつもと変わらないことに安堵する。
「そうだ、買い物だ」
理都子は呟いて、浴室の外にかかっているタオルを手に取った。上から順番に拭いて行きながら、すっきりした頭で思う。
別に、拓哉が変なことを言ったところで動揺する必要なんてなかったんだ。
思ったこともないような話だったから、びっくりしただけ。
きっと、拓哉がいろいろ、いつもと違ったから、混乱が混乱を呼んだだけ。
ただそれだけーーそれだけの話だ。
「詩乃が好き? ーーまさか」
理都子は頭を拭きながら笑った。
さすがは漫画家だ。発想力がちょっと一般人と違う。
そう思うとぐっと気が楽になった。考えてみれば、彼が描いていた絵は女の子同士のラブシーンだった。つい、いろんなものをそういう風に捉えてしまってもおかしくないのかもしれない。一種の職業病というやつ。
「ふふふ、拓哉ってば」
理都子は笑う。そう思えば思うほど、真剣な表情だった拓哉が滑稽に思えてたまらなかった。
胸に抱えたトートバッグを、強く抱きしめていた。
まるで、家出をした少女のように
不思議な心細さは、高校時代の自分を思い出させた。
理都子は眉を寄せて目を閉じる。
意図的に忘れようとしている過去が、理都子の胸の中にむくむくと膨れ上がって、陰を落とそうとする。
気弱な理都子。
お人よしな理都子。
「あの……大丈夫ですか? ご気分悪ければ、ここ、座ってください」
柱横に立っていた理都子は、そう声をかけられて振り向いた。そこには心配そうな顔で椅子を指し示す女性がいる。真面目そうな、黒いスーツ姿の女性だった。
理都子の職場は休館日だが、ちまたは平日なのだと思い出す。
理都子はどうにか笑って手を振った。
「大丈夫です。次で降りるので」
そのとき、車内アナウンスが駅への到着を告げた。理都子は女性に会釈して、電車を降りる。
そのとき、ふわり、と風が下からスカートを持ち上げた。
春の訪れを告げるような生ぬるい風が、スカートと共に脚に纏わりつく。
歩きにくさを感じながら、理都子は改札口へと歩いた
駅の外に出ると、風はますます理都子の歩みを惑わせた。右から吹いたと思えば左。左から吹いたと思えば下。
子犬が足元にじゃれつくように、あっちへこっちへと理都子を翻弄する。
立ち並ぶ駅ビルが、そうした風のいたずらと共謀しているようだった。
ひゅぅと鳴る音を聞きながら、理都子はもたもたと脚を進める。
髪がぐしゃぐしゃに乱れて、頬に、額にと張り付いた。視界を確保しようと片手でそれを押さえながら進んでいくうち、ぽつり、と何かが頭に当たる。
はっとしたときにはもう、ばらついた雨が落ちてきていた。
晴れ間が見えていたので気を抜いていたが、見上げれば確かに薄黒い雲がそこにある。
お天気雨ならすぐに止むだろうと算段をつけて、理都子は早足で自宅へと急いだ。が、あいにく、自宅へ着くまでの間雨が止むことはなく、大粒の雨に変わってきて、最後には走るはめになった。
濡れないように抱えていたバッグの中から鍵を出し、ドアを開けて中に入る。どさ、と音を立てて玄関先に鞄を放ると、乱れた呼吸の合間に「最悪」と呟いた。
黒いボブヘアはべったりと顔と首筋にへばりつき、肩と膝もびしょ濡れだ。
何より、濡れたストッキングが肌に張り付いて気持ち悪い。
理都子はその場で服を脱ぎ、全裸になって中へ入った。
さして給料の高くない仕事でもあり、理都子の家は玄関から見渡せるほどの広さの1LKだ。洗濯機に服をほうり込むと、その横の浴室へ入る。給湯器をオンにすると、熱めに設定したシャワーの蛇口を一気に捻った。
水がバスタブを叩く音がする。理都子は手で温度を確認してから、その強めの水圧の下へと身体を滑り込ませる。
シャワーの水が理都子の柔らかい肌をたたく。細い指先でノックされるみたいだ。
目を閉じてシャワーを頭上に翳した。
ざぁあああああ、と落ちる湯が、足元に水流を作る。理都子はシャワーから放たれる温もりに包まれながら、ようやく一息ついた。
拓哉の家を出てから空中をさ迷っているようだった足元が、湯の温もりでようやく地面の確かさを感じる。
栓の代わりに足で浴槽の穴をふさぐと、シャワーから降り注ぐ湯はみるみるうちに溜まり、理都子の足首までを沈めた。
冷えた足指の先が温まり、ひとごこち着く。
拓哉に惑わされた日常を取り戻すべく、愛用しているシャンプーのボトルに手を伸ばした。
こげ茶色のボトルに入った液体の残量は、もうごくわずかだった。手にそれを押し出しながら、買いに行かなくちゃとぼんやり考える。
シャワーから一度頭を離し、シャンプーをつけた手で、マッサージするように頭を揉み込む。すぐに白い泡がたち、優しいアロマの香りが広がる。
オレンジスイートをベースにした爽やかな甘さを鼻腔に吸い込み、湯で流す。
「買い物行かなきゃ……」
詩乃が勤める会社のシャンプーは、チェーン展開していて比較的色々なところで手に入る。が、行き慣れた店に行った方が結局手早く買えるはずだ。
理都子の行きつけは、詩乃が勤める支店にある。
髪に、身体についたぬめりがすべて流れ落ちたのを確認すると、理都子はシャワーを止めた。浴室に立ち上る香りがいつもと変わらないことに安堵する。
「そうだ、買い物だ」
理都子は呟いて、浴室の外にかかっているタオルを手に取った。上から順番に拭いて行きながら、すっきりした頭で思う。
別に、拓哉が変なことを言ったところで動揺する必要なんてなかったんだ。
思ったこともないような話だったから、びっくりしただけ。
きっと、拓哉がいろいろ、いつもと違ったから、混乱が混乱を呼んだだけ。
ただそれだけーーそれだけの話だ。
「詩乃が好き? ーーまさか」
理都子は頭を拭きながら笑った。
さすがは漫画家だ。発想力がちょっと一般人と違う。
そう思うとぐっと気が楽になった。考えてみれば、彼が描いていた絵は女の子同士のラブシーンだった。つい、いろんなものをそういう風に捉えてしまってもおかしくないのかもしれない。一種の職業病というやつ。
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