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本編
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理都子は布団の中で目を覚ました。
いかにも量販店に売っているような薄い紺色のカバーは拓哉の布団に違いない。
寝ている場所はいつも通りリビングだったが、今までは頑なに布団を貸してくれなかった拓哉が、なぜか昨夜に限って貸してくれたらしい。
起き上がると、着た記憶のないルームウェアが着せられていた。下着は身につけていない。昨夜の記憶を辿っていけば、風呂に入った辺りで途切れているーーいや、そもそも、この家に上がり込み、拓哉の手の内に弄ばれてからの記憶自体がふわふわしていて頼りない。
ただ、快楽に飲まれたことだけは明らかだった。
そしてそれを与えてくれたのが拓哉だったこともまた、間違いなかった。
理都子はカーテンの隙間から漏れる明かりを見ながらぼんやりする。既に日は昇りきっているらしい。
何時なのだろうと部屋を見渡すが、無駄なものを置かない拓哉の家に時計はない。ほとんどディスプレイの前で過ごす拓哉にとって、時計など必要ないからだ。
理都子は玄関先に自分の鞄を見つけた。
ピンクベージュのトートバッグ。A4サイズは難無く入る大きめサイズで、持ち手の端には、ふわふわした毛玉のキーホルダーが附属している。ハートモチーフの金色のロゴ。内布は花柄やハート柄になっている、大学時代から好きなブランドだ。
その中にスマホも入っているはずだが、手を伸ばしても届く距離ではない。
少し動けば手に届くのだが、昨日の情事のせいか気分的なものか、身体がだるくてそこまで移動する気が起きない。
無駄に手を伸ばして、フローリングを軽く引っかいてみる。
届かなーい、と心の中でぼやけば、あくびが込み上げた。
「ふぁ」
大口を開けたとき、拓哉の仕事部屋から音がする。あくびが落ち着いた頃合いで開いたドアからは、あちこちに髪を跳ねさせた拓哉が眼鏡もせずに出てきた。
「……今何時?」
「さー」
拓哉は言って、あくびを一つ。手にしているスマホを見て「10時すぎ」と言うと、キッチンでざばざば顔を洗った。
「鞄、取って」
「自分で取れ」
「動くのだるい」
「はぁ?」
拓哉心底面倒くさそうに理都子を見やると、ため息をついて鞄に近づいた。
が、こともあろうか、足でずりずりと理都子の手が届くところまで運んでくる。
鞄に近づく拓哉を見て、「ありがとう」と口にしかけていた理都子は、口を閉ざすと半眼になって拓哉を睨みつけた。
「……いくらなんでもそれはなくない?」
「俺だってだるいんだっつーの」
拓哉は言って、コップに水を入れ口に運ぶ。
ぐび、ぐび、と喉仏が上下するのが見えて、ああ拓哉も男なんだなと理都子は今さらなことを思った。
「お前もいる?」
「え?」
「水」
拓哉はコップを軽くゆすぎ、水を入れ直した。理都子は戸惑いながら身体を起こす。
「……いる」
「はい」
拓哉に手渡された水を両手で持って、ちびちび口に運ぶ。
珍しいこともあるものだ。いつもなら、聞くことすらしないのに。
「……そんなに無茶させたつもりはないけど」
水を飲む理都子を見下ろしながら、拓哉が呟く。それを見上げて、理都子は気づいた。
昨夜の情事ーーいや、ただの行為というべきかーーがあったからこそ、拓哉なりに気遣かってくれているらしい。
理都子は笑った。
「もっと激しいのも経験あるから大丈夫」
理都子の言葉に、拓哉は「あ、そう」と微妙な表情で返した。詳細を聞く気はないらしいと察して、理都子もそれ以上を口にはしない。
水を飲み干すと、拓哉にコップを差し出した。拓哉は黙って受け取り、洗ってかごの中に置く。
拓哉の家にしゃれた食器入れなどないので、すべての食器は洗いかごの上に戻って来る。
「拓哉ってさ。なんで私のこと嫌ってるくせに、拒否しないの?」
理都子は不意に、常々思っていたことを口にした。
拓哉と共有するこの空間が、いつもと違う空気をまとっていたからだろう。
「嫌ってる? 俺が? お前を?」
拓哉は意外そうな顔で理都子を見た。
「呆れてはいるけど嫌ってはいないぞ。……まあ、憐れんではいるけど」
「なにそれ」
理都子は笑う。拓哉も珍しく、つられたように笑った。
「失恋しても素直に悲しめない馬鹿さとか」
「失恋? 私がいつ……」
「気づいてないのか?」
鼻で笑った理都子を、拓哉はシンクに腰を預けながら見下ろした。
「お前、好きだったんだろ。大学時代の友達……詩乃さん、っつったか」
理都子は自分の表情が凍りつくのを感じた。
いったい、この幼なじみはーー何を言っているのだろう。
「なに……言ってんの?」
馬鹿にして笑い飛ばすつもりが、変に乾いた声になった。
喉の奥に何かがへばりついている。同時に、動悸も感じた。
「詩乃は女だよ? なに……馬鹿はあんたじゃ……」
「関係あんの?」
眼鏡を外したままの拓哉の目が、冷たく理都子を見下ろしている。
その目はどこか、詩乃に似ていた。
やや吊り目がちで、切れ長で、黒々としている。
「……女とか男とか、関係あんの? 誰かに惹かれるのに」
拓哉が腕を組む。その指の長さと骨々しさにまた、詩乃を思い出す。
理都子の脳は、拓哉の言葉を拒んでいる。
もしも自分が機械なら、エラーメッセージでも出ているだろうーー
そんなことを感じながら、どうにか強張った顔で笑顔を作る。
「詩乃には……欲情しないよ」
理都子は女と寝たことなどない。
キスはまあ、ゲームの一環でやったことがあるが、ただそれだけだ。なんとも思わなかった。
詩乃と同室で一晩を過ごしたこともあるが、そのときだって触れたいとは思わなかったーー
本当に?
自分で自分に問いかける。耳にかかったボブヘアを、丸い指でかき上げる。
地毛を染めた黒髪。ストレートパーマをかけたくせっ毛。
一方の詩乃の髪は、そんな手間をかけずとも、黒々と艶やかに彼女の背中を覆っているーー
少なくともその髪には、触れてみたいと思ったものだった。何度も。
ーー何度も。
「ほんと馬鹿だな。欲情するだけが恋愛じゃないだろ。頭と下半身切り離して考えろよ」
混乱した理都子の思考に配慮することもなく、拓哉が呆れた声で言い放つ。
「性別とか恋愛とか、スパッと割り切れる話じゃないだろ。グラデーションっつーか……まー、この世にはお前が想像もしないような、いろんな性癖があるんだ。お前が女に恋愛感情を抱いて、男とのセックスを楽しんでても、別に俺はおかしいとは思わない」
その言葉は理都子の耳に届いているが、脳が理解しきれていない。
頭は、半ば思考を停止していた。
理都子は息苦しかった。頭の中がぐるぐると、誰かの指で掻き回されているようだ。
白い、細い指。
拓哉の?
ーー違う、詩乃のーー
不意に、理都子の手に生々しく蘇った。
二ヶ月前、合コンの夜。駅から宴会会場に向かう道すがら、寒いと甘えてじゃれつき、絡めた詩乃の冷たい手。
自分の丸いそれとは違う、すらりと華奢な指先。
詩乃は一瞬困ったような顔をしたが、仕方ないなというように苦笑した。
もうーーリツってば。
落ち着いた、囁くような詩乃の声音。
そのとき感じたくすぐったさは、風向きが変わった今、ざらついた感情を理都子の胸に運んできた。
理都子は胸を押さえた。
「それとも、ほんとに気づいてなかったのか?」
「……帰る」
拓哉の言葉に答えず、理都子はかろうじて言った。
「帰る。もう、今日は、帰る」
これ以上、聞きたくなかった。聞いてはいけない。
自分の身体を抱きしめるようにしながら、理都子はふらふらと立ち上がる。適当に服を着替え、拓哉の居場所をそのつま先だけで確認しながら、よろよろと家を出る。
拓哉は何かを察したように、何も言わなかった。ただ黙って、研究対象のように理都子を見ている。
その視線だけを横から感じていた。
いつものように、冷めた視線ーー。
いかにも量販店に売っているような薄い紺色のカバーは拓哉の布団に違いない。
寝ている場所はいつも通りリビングだったが、今までは頑なに布団を貸してくれなかった拓哉が、なぜか昨夜に限って貸してくれたらしい。
起き上がると、着た記憶のないルームウェアが着せられていた。下着は身につけていない。昨夜の記憶を辿っていけば、風呂に入った辺りで途切れているーーいや、そもそも、この家に上がり込み、拓哉の手の内に弄ばれてからの記憶自体がふわふわしていて頼りない。
ただ、快楽に飲まれたことだけは明らかだった。
そしてそれを与えてくれたのが拓哉だったこともまた、間違いなかった。
理都子はカーテンの隙間から漏れる明かりを見ながらぼんやりする。既に日は昇りきっているらしい。
何時なのだろうと部屋を見渡すが、無駄なものを置かない拓哉の家に時計はない。ほとんどディスプレイの前で過ごす拓哉にとって、時計など必要ないからだ。
理都子は玄関先に自分の鞄を見つけた。
ピンクベージュのトートバッグ。A4サイズは難無く入る大きめサイズで、持ち手の端には、ふわふわした毛玉のキーホルダーが附属している。ハートモチーフの金色のロゴ。内布は花柄やハート柄になっている、大学時代から好きなブランドだ。
その中にスマホも入っているはずだが、手を伸ばしても届く距離ではない。
少し動けば手に届くのだが、昨日の情事のせいか気分的なものか、身体がだるくてそこまで移動する気が起きない。
無駄に手を伸ばして、フローリングを軽く引っかいてみる。
届かなーい、と心の中でぼやけば、あくびが込み上げた。
「ふぁ」
大口を開けたとき、拓哉の仕事部屋から音がする。あくびが落ち着いた頃合いで開いたドアからは、あちこちに髪を跳ねさせた拓哉が眼鏡もせずに出てきた。
「……今何時?」
「さー」
拓哉は言って、あくびを一つ。手にしているスマホを見て「10時すぎ」と言うと、キッチンでざばざば顔を洗った。
「鞄、取って」
「自分で取れ」
「動くのだるい」
「はぁ?」
拓哉心底面倒くさそうに理都子を見やると、ため息をついて鞄に近づいた。
が、こともあろうか、足でずりずりと理都子の手が届くところまで運んでくる。
鞄に近づく拓哉を見て、「ありがとう」と口にしかけていた理都子は、口を閉ざすと半眼になって拓哉を睨みつけた。
「……いくらなんでもそれはなくない?」
「俺だってだるいんだっつーの」
拓哉は言って、コップに水を入れ口に運ぶ。
ぐび、ぐび、と喉仏が上下するのが見えて、ああ拓哉も男なんだなと理都子は今さらなことを思った。
「お前もいる?」
「え?」
「水」
拓哉はコップを軽くゆすぎ、水を入れ直した。理都子は戸惑いながら身体を起こす。
「……いる」
「はい」
拓哉に手渡された水を両手で持って、ちびちび口に運ぶ。
珍しいこともあるものだ。いつもなら、聞くことすらしないのに。
「……そんなに無茶させたつもりはないけど」
水を飲む理都子を見下ろしながら、拓哉が呟く。それを見上げて、理都子は気づいた。
昨夜の情事ーーいや、ただの行為というべきかーーがあったからこそ、拓哉なりに気遣かってくれているらしい。
理都子は笑った。
「もっと激しいのも経験あるから大丈夫」
理都子の言葉に、拓哉は「あ、そう」と微妙な表情で返した。詳細を聞く気はないらしいと察して、理都子もそれ以上を口にはしない。
水を飲み干すと、拓哉にコップを差し出した。拓哉は黙って受け取り、洗ってかごの中に置く。
拓哉の家にしゃれた食器入れなどないので、すべての食器は洗いかごの上に戻って来る。
「拓哉ってさ。なんで私のこと嫌ってるくせに、拒否しないの?」
理都子は不意に、常々思っていたことを口にした。
拓哉と共有するこの空間が、いつもと違う空気をまとっていたからだろう。
「嫌ってる? 俺が? お前を?」
拓哉は意外そうな顔で理都子を見た。
「呆れてはいるけど嫌ってはいないぞ。……まあ、憐れんではいるけど」
「なにそれ」
理都子は笑う。拓哉も珍しく、つられたように笑った。
「失恋しても素直に悲しめない馬鹿さとか」
「失恋? 私がいつ……」
「気づいてないのか?」
鼻で笑った理都子を、拓哉はシンクに腰を預けながら見下ろした。
「お前、好きだったんだろ。大学時代の友達……詩乃さん、っつったか」
理都子は自分の表情が凍りつくのを感じた。
いったい、この幼なじみはーー何を言っているのだろう。
「なに……言ってんの?」
馬鹿にして笑い飛ばすつもりが、変に乾いた声になった。
喉の奥に何かがへばりついている。同時に、動悸も感じた。
「詩乃は女だよ? なに……馬鹿はあんたじゃ……」
「関係あんの?」
眼鏡を外したままの拓哉の目が、冷たく理都子を見下ろしている。
その目はどこか、詩乃に似ていた。
やや吊り目がちで、切れ長で、黒々としている。
「……女とか男とか、関係あんの? 誰かに惹かれるのに」
拓哉が腕を組む。その指の長さと骨々しさにまた、詩乃を思い出す。
理都子の脳は、拓哉の言葉を拒んでいる。
もしも自分が機械なら、エラーメッセージでも出ているだろうーー
そんなことを感じながら、どうにか強張った顔で笑顔を作る。
「詩乃には……欲情しないよ」
理都子は女と寝たことなどない。
キスはまあ、ゲームの一環でやったことがあるが、ただそれだけだ。なんとも思わなかった。
詩乃と同室で一晩を過ごしたこともあるが、そのときだって触れたいとは思わなかったーー
本当に?
自分で自分に問いかける。耳にかかったボブヘアを、丸い指でかき上げる。
地毛を染めた黒髪。ストレートパーマをかけたくせっ毛。
一方の詩乃の髪は、そんな手間をかけずとも、黒々と艶やかに彼女の背中を覆っているーー
少なくともその髪には、触れてみたいと思ったものだった。何度も。
ーー何度も。
「ほんと馬鹿だな。欲情するだけが恋愛じゃないだろ。頭と下半身切り離して考えろよ」
混乱した理都子の思考に配慮することもなく、拓哉が呆れた声で言い放つ。
「性別とか恋愛とか、スパッと割り切れる話じゃないだろ。グラデーションっつーか……まー、この世にはお前が想像もしないような、いろんな性癖があるんだ。お前が女に恋愛感情を抱いて、男とのセックスを楽しんでても、別に俺はおかしいとは思わない」
その言葉は理都子の耳に届いているが、脳が理解しきれていない。
頭は、半ば思考を停止していた。
理都子は息苦しかった。頭の中がぐるぐると、誰かの指で掻き回されているようだ。
白い、細い指。
拓哉の?
ーー違う、詩乃のーー
不意に、理都子の手に生々しく蘇った。
二ヶ月前、合コンの夜。駅から宴会会場に向かう道すがら、寒いと甘えてじゃれつき、絡めた詩乃の冷たい手。
自分の丸いそれとは違う、すらりと華奢な指先。
詩乃は一瞬困ったような顔をしたが、仕方ないなというように苦笑した。
もうーーリツってば。
落ち着いた、囁くような詩乃の声音。
そのとき感じたくすぐったさは、風向きが変わった今、ざらついた感情を理都子の胸に運んできた。
理都子は胸を押さえた。
「それとも、ほんとに気づいてなかったのか?」
「……帰る」
拓哉の言葉に答えず、理都子はかろうじて言った。
「帰る。もう、今日は、帰る」
これ以上、聞きたくなかった。聞いてはいけない。
自分の身体を抱きしめるようにしながら、理都子はふらふらと立ち上がる。適当に服を着替え、拓哉の居場所をそのつま先だけで確認しながら、よろよろと家を出る。
拓哉は何かを察したように、何も言わなかった。ただ黙って、研究対象のように理都子を見ている。
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いつものように、冷めた視線ーー。
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