ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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「おお。おめでとう、小野田」
 玄関先で出迎えるなり、ぱちぱちと無感動に手を叩くのは春日だ。その横に立つ田畑の微笑みが生温い。
「うん、ありがとう」
 満面の笑みの小野田は、相変わらずマスクで半面を隠したままだ。
「はーなーしーてーくーだーさーいっ」
 赤面を隠すのも鎮静する努力も諦めて、春菜はぐいぐいと小野田に捕まれた手を解こうとするが、小野田はそれを許さない。何度か解いたと見せかけて掴み直され、気付けば恋人繋ぎになっていたその手は、がっちりと組まれていた。
「田畑さぁん」
 恥は承知で涙目で訴えると、田畑はうふふと目を細め、
「よっぽど嬉しいのねぇ。一時も離したくないんでしょう」
「だって、離したら小松さん逃げそうなんだもん」
「だもん、じゃないです。このままじゃブーツもコートも脱げませんっ」
「僕が脱がせてあげるよ」
 耳元で低めに呟いたのはわざとか。春菜の顔が沸騰しそうな熱を持つ。
 小野田はけらけらと笑った。
「かちょぉー!」
「僕の名前はなーんだ」
 長身を折って春菜の顔を覗き込み、小野田が問う。春菜は咄嗟に目をさ迷わせた。
「小野田さん」
「惜しい。もう一息」
「……秋政、さん」
 小野田はこれ以上ないというくらい嬉しそうに微笑んだ。マスクで口元が隠れているのがもったいないほどだが、そこに無精髭があってはここまでときめくこともないだろうとわずかなジレンマを感じる。
「よく出来ました」
 小野田はいつものように、春菜の頭にやんわりと手を置いた。大きな手の温もりが伝わる。
「僕はどう呼ぼうかな。ーー春ちゃん?」
 春菜の目が動揺に揺らいだ。みんなに呼ばれ慣れているそれが、まったく違う感情を引き起こすことに驚く。
 小野田は満足げにまた微笑んで、春菜の頭を軽くぽんぽんと叩くと、呆れ返っている春日に向き合った。
「そろそろお邪魔してもいいかな。これお土産~」
「わあ、ありがとうございます~」
「よかった。いつまで見せつけられるのかと思ってたよ」
 やれやれと嘆息しながら家に入ろうとする春日に、小野田は追撃するように言った。
「春ちゃんの可愛い顔、春日にじろじろ見られるのも嫌だし」
「か、かちょ」
「あーはいはい。ご馳走さん。なんならもう帰ってもいいぞ」
「ちょっと。私は色々聞きたいことあるんだから、そんな勝手に終わらせないで」
 田畑のフォローはむしろ嫌な予感しかしない。
「春ちゃん」
 完全に引け腰の春菜に、小野田はにこりと微笑む。
「次に課長、って呼んだら、ペナルティね」
「どぇっ」
 先ほどつい上げた声を聞き咎めたと分かり、春菜の顔が青ざめる。
「だって、仕事思い出しちゃってテンション下がるでしょう。ルールとマナーに厳しい春ちゃんなら、ちゃんと守ってくれるよね」
 小野田の笑顔に、春菜は頷くことしかできなかった。
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