ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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 デスクに戻ってみると、もう20時になるところだ。パソコンをシャットダウンし、五十嵐に宛ててそろそろ行くと連絡すると、鞄とコートを手に取った。同じく帰り支度を整えながら、小野田が春菜に声をかけた。
「会場は会社の近く?」
「いちょう通りの八十って居酒屋です。知ってます?」
「ああ、知ってる知ってる」
 いちょう通りは大通りから一本入ったところにあり、車がすれ違うときには苦労するような通りだ。会社近くの通りは多くが名前がついていて、お店を言うときには一つの目印になる。
「でも、途中ちょっと危なくない?」
「え、大丈夫ですよ」
 ぎりぎりまで人通りの多い道を通れば、小路に入ってもそんなに怖い感じはしない。
「うーん」
 小野田は苦笑した。
「聞いちゃったからには、気になるね。僕ももう帰るだけだから、一緒に店の前まで行くよ」
 冬のことでもあり、外はもうしっかり夜だ。この近辺は昼には無機質なオフィス街だが、日が落ちると途端に夜の顔になる。テラテラと光る素材のスーツのお兄さんたちに、イブニングドレスを身に纏ったお姉さんたち。最初に見たときには、こんな世界が本当にあるのかと思わず興味津々で見てしまったものだ。
「大丈夫ですよー。大人ですから」
「大人の女性だったら、素直にエスコートされなさい」
 ボリュームの乏しい胸を張ると、代わりに頭ポンが返ってきた。大人の女性。自分には一生なれなそうな姿だと思いながら、照れ隠しに唇を尖らせて見せた。
 会社の最寄り駅へは、少し遠回りになるが逆側に歩く訳ではない。逆に断るのも悪いと言葉に甘えることにした。
 春菜が素直に頷いたのを見て、小野田は微笑んで部屋の鍵を締めた。鍵は警備室に集約する決まりである。一階の裏口近くの警備室に寄り、鍵を渡して記名すると、二人揃って裏口から外に出た。19時以降はセキュリティの観点から表門が閉まってしまうので、裏口から出入りする。
 外に出ると一気に冷気に包まれ、咄嗟にマフラーに口元を埋める。
「さむーい」
「温かいとこに居たからね」
 小野田はそんな春菜を見て微笑んだ。
(いつもそうやって、余裕ありげに笑う)
 春菜は何となく悔しくなった。翻弄されてばかりの自分が情けない。
「課長は寒くないんですか?」
「寒いよ。身体はね」
 コートのポケットに手を突っ込んで笑う。春菜はマフラーの下からくぐもった声で聞いた。
「身体は?」
「うん」
 小野田が春菜の顔を覗き込みながら微笑む。
「心は満たされてるから」
 街灯が小野田の目を照らし出す。二人の吐息が呼吸に合わせて白くかすかにたなびいた。春菜は暗い中で近づいた小野田の端正な顔に思わず見とれ、じいっと見つめ返した。小野田の目尻がわずかに染まる。
「小松さん」
 小野田の手が、春菜の頬に伸びて来ようとし、
「あっ」
 我に返った春菜の声に、動きを止めた。
「早く行かなきゃ。ご飯が私を待ってるんです」
 真面目な顔でキリリと敬礼すると、小野田は黙ったまま苦笑し、春菜の前を歩き出した。
 春菜は何事もなかったかのような顔でその背を追いながら、腰の横でぎゅうと強く拳を握りしめた。小野田には決して気付かれたくなかった。拳を握って何を堪えているのかも、その拳の震えが止められないことにも。
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