ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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「ねぇ、小松さん。シュートは打たないと入らないよ」
 高校生の春菜にそう言ったのは、憧れていた先輩だった。
 何をやりたいかもわからないまま、友達に引っ張り込まれてハンドボール部に入部した春菜は、一学年上のその先輩に一目で恋に落ちた。
 身長は春菜とさして変わらない。しかし、小柄さを武器に小回りを利かせ、敵を翻弄するプレイヤーだった。
 一年のときから試合に出ていたという先輩は、夏休みに入る頃から、ちょいちょい春菜をからかうようになった。
「わ、分かってますけど……」
 春菜はシュートが打てない。ためらっている間にカットされたり、行く手を遮られて身動きが取れなくなってしまうのだ。
「思い切って打ってみなよ。それで相手に取られても、誰も文句言わないって」
 どちらかというと中性的な顔立ちの先輩は、そう言って笑った。
 それも分かっているつもりなのだが。
「一歩踏み出す勇気、あればレギュラーにもなれるかもよ」
 先輩は言って笑うと、ボールを片手に掴んで見せた。
「なーんてね。ちょっとかっこいいこと言ってみた」
 先輩は笑って、色素の薄い瞳を細めた。
 その笑顔に見ほれながら、まつ毛が長くて羨ましいなぁと、春菜は的外れなことを思っていた。

 春菜は二年生になる前にハンド部をやめた。
 人からの――チームからの期待を背に負うことに耐えられない自分に気づいたからだ。
 憧れていた先輩からは、公式試合のたびに応援に来いと声をかけられたが、どうしても行けなかった。
 先輩に憧れていた女子が多いのは知っていたし、自分から逃げたその場所に、平気な顔で足を向けることなどできなかったからだ。
「先輩、ハルのこと好きだったんじゃないの?」
 廊下ですれ違う度にからわれているのを見ていた皐月はそう言っていたが、春菜はその言葉をあえて無視した。無視して忘れたつもりになっていた。
(それを、今さら思い出すなんて)
 ご都合主義もいいところだ。普段はなかなか覚めない目が、懐かしく切ない夢で完全に覚めてしまった。
(起きたから、モーニングコールはいらないって、課長に連絡しておこう)
 春菜は思ってスマホを手に取った。
 手に取りながら、ふと思う。そういえばこの約束自体、放置しておくべきではない。毎朝、丸腰の心をわしづかみにしてくるような優しい声を聞いていたら、離れられるものも離れられなくなるだろう。
(今日だけじゃなくてーー明日も明後日も)
 先に起きて、こうして連絡すればいい。そしていずれは、約束などなかったことになる。
 いつだって、春菜はずるいのだ。やめるという決断を、自分ですることなどできない。彼氏にも毎回フラれる側である。が、何だかんだと理由をつけて会う回数を減らしていくのは春菜の方だ。
 小野田にメッセージを送って、春菜は嘆息した。
 嘆息してから、不意に切なさと情けなさが込み上げてきて、スマホを額に押し付けて目を閉じた。
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