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「課長。営業部の方がご用だそうですが」
春菜は上司、課長の小野田秋政にそう声をかけた。
「ああ、ありがとう」
小野田は立ち上がる。
春菜は窓口に来た営業部の美人社員が、その途端ガッカリしたのが分かった。
小野田は、女好みの低い美声の持ち主。電話でのやり取りには心ときめかせる社員も多い。
立った姿はスタイルのいい高身長だが、なんとも惜しむらくは、ズボラさが前面に出たその身なりだ。
寝癖で跳ね放題の柔らかな髪、牛乳瓶の底のような古めかしいべっ甲フレームの眼鏡、2、3日剃らずにいる無精髭。アイロンをかけたのか心配になるようなシャツにネクタイを緩く結び、スーツも量販店で買ったとありありと分かるようなものだった。
(もっと、ちゃんとすればいいのに。もったいない)
春菜はいつもそう思いながら、上司に言うことができずにいた。多分、他の多くの部下も。
小野田はビジネスマンとしては優秀な男で、マネジメント能力も高い。部下の仕事の進捗管理は抜目なく、信頼も厚い。
だからこそ、もったいないというのを通り越して、狙ってるのか?と思うくらいだった。
小野田は淡々と美人社員に対応し、同じように淡々ともとの席へ戻った来た。独身だったはずだが、美人に興味はないらしい。
春菜はやれやれと思いながら、お手洗いにと席を立った。
「あ、佐藤さん。ありがとうございます」
春菜はお手洗いに行く道すがら、給湯室で保温ポットにお湯を汲むパートの佐藤瑞穂に気づき、声をかけた。
佐藤は40歳前の女性で、二人の子持ち。週に3回、雑務を担当している。
会社には各フロアに給湯室があるが、それぞれが毎回お茶を入れるために行くのは時間のロスなので、こうしてポットに移して部屋に置いておくのだ。
「いえいえ、どういたしまして」
ポットに湯を入れ終えて、佐藤は蓋を閉じる。
「さっきの美人さん、ガッカリしてたわね」
「あ、やっぱり思いました?」
春菜は近づきながら小声で応じた。
「課長も、もう少し身なりに気をつければいいのに。もったいないですよね」
「そうよね。きっとずいぶん素敵になると思うけど」
春菜は苦笑いした。
「どれくらい素敵になるかはわかりませんけど、とりあえず彼女くらいはできるんじゃないですか?」
言い終わるかどうかの頃、佐藤が急に目を丸くして春菜の後ろを見たので、春菜は首を傾げて振り向いた。
「……小野田課長」
目の前に立つのは、まごうことなく噂の主。
目が合うなり、気まずそうに頭に手を添えた小野田だったが、
「ええと。聞いてないよ、身なりがどうだなんて」
バッチリ聞いてるじゃないですか。
春菜は心中の言葉を飲み込みつつ、引きつった笑顔を浮かべた。
「すみません。冗談です。聞かなかったことにしてください」
小野田は冗談の通じる男だ。そう言って切り抜けようとしたが、ではこれで、と手洗いに足を向けた春菜の肩を、小野田がぽんと叩いた。
「小松さん」
「……何でしょう」
「俺がイメチェンしたら、小松さんも嬉しい?」
春菜は問われて考えた。
小野田が身なりを整えたら。
とりあえず、他の部署の知り合いに、上司の風貌を馬鹿にされることはなくなるだろう。
あとは、電話口で期待して来た女性社員が、ガッカリする、とまでにはならないかもしれない。小野田はそんなに残念な風貌ではないと思われるからだ。
ーー結論、
「そうですね。嬉しいと思います」
半ば他人事のように答えた。
春菜たちの勤めるエデュケイト・コーポレーションは、主に小中学生の通信教育を行っている。最近は子供と一緒に学び直しをしたいという大人をターゲットにした事業も展開している。
約10年前からは紙媒体だけでなく、コンピュータ端末を利用した事業展開も始めたが、春菜たちのいるIT推進課長の小野田は採用当初から携わり、この事業を軌道に乗せるため尽力した社員の一人だ。
SEとして採用されたわけではないのだが、その頃からIT関係の部署に居続けているため、時々社内SEだと勘違いしている人もいるらしい。
(そのお陰でほとんど外に出なくて済むから、あの格好なのよね。きっと)
会うのは基本的に社内の人間のみ。であれば、身なりが多少どうなっていても問題ない。
小野田のズボラな身なりがいつからのものなのか、後輩である春菜は知らないが、おおかたそんなところだろうと推察している。
(傷つけたかしら)
用を済ませ、手を洗いながら一人悶々と考える。
(……でも、私が嬉しいか、って、一体どう関係するんだろう)
予想外の小野田の反応を思い出しながら、春菜は鏡に写った自分と共に首を傾げた。
春菜は上司、課長の小野田秋政にそう声をかけた。
「ああ、ありがとう」
小野田は立ち上がる。
春菜は窓口に来た営業部の美人社員が、その途端ガッカリしたのが分かった。
小野田は、女好みの低い美声の持ち主。電話でのやり取りには心ときめかせる社員も多い。
立った姿はスタイルのいい高身長だが、なんとも惜しむらくは、ズボラさが前面に出たその身なりだ。
寝癖で跳ね放題の柔らかな髪、牛乳瓶の底のような古めかしいべっ甲フレームの眼鏡、2、3日剃らずにいる無精髭。アイロンをかけたのか心配になるようなシャツにネクタイを緩く結び、スーツも量販店で買ったとありありと分かるようなものだった。
(もっと、ちゃんとすればいいのに。もったいない)
春菜はいつもそう思いながら、上司に言うことができずにいた。多分、他の多くの部下も。
小野田はビジネスマンとしては優秀な男で、マネジメント能力も高い。部下の仕事の進捗管理は抜目なく、信頼も厚い。
だからこそ、もったいないというのを通り越して、狙ってるのか?と思うくらいだった。
小野田は淡々と美人社員に対応し、同じように淡々ともとの席へ戻った来た。独身だったはずだが、美人に興味はないらしい。
春菜はやれやれと思いながら、お手洗いにと席を立った。
「あ、佐藤さん。ありがとうございます」
春菜はお手洗いに行く道すがら、給湯室で保温ポットにお湯を汲むパートの佐藤瑞穂に気づき、声をかけた。
佐藤は40歳前の女性で、二人の子持ち。週に3回、雑務を担当している。
会社には各フロアに給湯室があるが、それぞれが毎回お茶を入れるために行くのは時間のロスなので、こうしてポットに移して部屋に置いておくのだ。
「いえいえ、どういたしまして」
ポットに湯を入れ終えて、佐藤は蓋を閉じる。
「さっきの美人さん、ガッカリしてたわね」
「あ、やっぱり思いました?」
春菜は近づきながら小声で応じた。
「課長も、もう少し身なりに気をつければいいのに。もったいないですよね」
「そうよね。きっとずいぶん素敵になると思うけど」
春菜は苦笑いした。
「どれくらい素敵になるかはわかりませんけど、とりあえず彼女くらいはできるんじゃないですか?」
言い終わるかどうかの頃、佐藤が急に目を丸くして春菜の後ろを見たので、春菜は首を傾げて振り向いた。
「……小野田課長」
目の前に立つのは、まごうことなく噂の主。
目が合うなり、気まずそうに頭に手を添えた小野田だったが、
「ええと。聞いてないよ、身なりがどうだなんて」
バッチリ聞いてるじゃないですか。
春菜は心中の言葉を飲み込みつつ、引きつった笑顔を浮かべた。
「すみません。冗談です。聞かなかったことにしてください」
小野田は冗談の通じる男だ。そう言って切り抜けようとしたが、ではこれで、と手洗いに足を向けた春菜の肩を、小野田がぽんと叩いた。
「小松さん」
「……何でしょう」
「俺がイメチェンしたら、小松さんも嬉しい?」
春菜は問われて考えた。
小野田が身なりを整えたら。
とりあえず、他の部署の知り合いに、上司の風貌を馬鹿にされることはなくなるだろう。
あとは、電話口で期待して来た女性社員が、ガッカリする、とまでにはならないかもしれない。小野田はそんなに残念な風貌ではないと思われるからだ。
ーー結論、
「そうですね。嬉しいと思います」
半ば他人事のように答えた。
春菜たちの勤めるエデュケイト・コーポレーションは、主に小中学生の通信教育を行っている。最近は子供と一緒に学び直しをしたいという大人をターゲットにした事業も展開している。
約10年前からは紙媒体だけでなく、コンピュータ端末を利用した事業展開も始めたが、春菜たちのいるIT推進課長の小野田は採用当初から携わり、この事業を軌道に乗せるため尽力した社員の一人だ。
SEとして採用されたわけではないのだが、その頃からIT関係の部署に居続けているため、時々社内SEだと勘違いしている人もいるらしい。
(そのお陰でほとんど外に出なくて済むから、あの格好なのよね。きっと)
会うのは基本的に社内の人間のみ。であれば、身なりが多少どうなっていても問題ない。
小野田のズボラな身なりがいつからのものなのか、後輩である春菜は知らないが、おおかたそんなところだろうと推察している。
(傷つけたかしら)
用を済ませ、手を洗いながら一人悶々と考える。
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予想外の小野田の反応を思い出しながら、春菜は鏡に写った自分と共に首を傾げた。
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