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後日談① 冬彦とあゆみのその後の話
修学旅行(3)
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冬彦はカフェ横にある長いエスカレーターを降り、改札階へと向かった。
生徒たちは疲れも見せず、わいわいと盛り上がっている。
自分もあんな時期があったのかと、ついつい微笑みを浮かべながら、あゆみの様子を目で追った。
生徒たちをしゃがませ、点呼し、他の教員に声をかけている姿は教師そのものなのだが、冬彦には往事の学級委員が重なって見える。
当時は「面倒くさい女」と斜に構えていたが、彼女が強い意思と思いやりを持つことはよく分かっていた。とはいえ肝っ玉母ちゃんのようにびしばしと言われれば面白いはずもなく、口うるさいだのなんだの、文句を言った記憶がある。
それでも、他のクラスメイトが彼女を陰で批判しているとき、冬彦は絶対に便乗しなかった。
反意を唱えない代わりに、陰口をきくクラスメイトの顔を無表情に見つめた。
自分では無になっているつもりだったのだが、今思えば心中に苛立ちがあった。だからクラスメイトへ向いた視線は冷たいものであったのに違いない。大概、冬彦がそういう視線を向けると陰口は段々小さくなり、そして違う話題に変わった。
そんなことを思い出すのも、既視感を覚える濃紺色の制服のせいだ。もはや前時代的な感すらある学生服に身を包んだ中学生たちは、しかしそれを自分たちのマークとして従順に身につけている。
スカートを短くしたり、シャツの裾を出したり、靴の踵を踏んだりするのは些末な反抗心に過ぎない。制服を着ないという選択があることに、当人たちは気づいていないのだろうか、それとも気づいていて枠の外に出ることを拒んでいるのだろうか。
その一事にすら、どこか青さを感じた。
冬彦はエスカレーター横にあった段差に腰を添える。椅子がなかったので、そこであゆみが落ち着くまで様子を見ようと思ったのだが、女子生徒に気付かれたらしい。ひそひそ話していた女子数人が、冬彦を指差してちらちら視線を向ける。
それに気づいた男子生徒も冬彦を見、さらにあゆみも生徒たちの視線を追って冬彦に気づく。
視線が絡み合うや、冬彦はできるだけ温厚な夫に見えるよう、優しく微笑んだ。軽く片手を上げてやると、あゆみは素早く首を切り返す。その頬が赤い。
冬彦はくつくつ笑った。
「えー、先生知り合い? 超イケメン」
「えっ、新婚なのに浮気? ヤバくない」
「こらこら、好き勝手言わない。 だいたい、何でそこで素直に『もしかして旦那さん?』ってならないの」
「えっ! マジで旦那さんなの!? ヤバい! 先生地味なのにどこでゲットしたのあんな人!」
「うちらもワンチャンあるんじゃない!?」
「こ、声が大きいっ……!」
生徒たちとあゆみの言い合う声が、冬彦の耳にも届く。笑いを堪えかね、口元を手で覆った。顔をそらしたが、冬彦の笑顔を見た生徒たちがまた騒ぐ。
あゆみが睨みつけてきたので、冬彦は軽く手を上げて応じた。生徒たちの視界に入らないところまで移動する。
メールへの返信をしてしまおうと、壁に寄り掛かりながら片手でスマホを操作する。
しばらくすると、生徒たちが数人、駆け寄ってきた。
「今、解散になりました!」
「もう呼んできてもいいって言われました!」
言いながら、生徒たちはきらきら輝く目で冬彦を見上げる。つい苦笑した。
「そう、ありがとう。ごめんね、わざわざ」
「いえっ、いいえっ」
女に見つめられるのは慣れているはずが、無垢な生徒たちの表情は見慣れたそれとは違う。なんとなく居心地悪い想いをしながら、あゆみはよくこれに毎日付き合っているものだと感心した。冬彦ならば一週間でギブアップしているだろう。
女子生徒数名に引っ張られるようにやってきた冬彦を見て、他の教員と話していたあゆみはあきれたような顔をした。
「……よかったね、若い子たちにチヤホヤされて」
半眼で放たれた言葉に、思わず噴き出しそうになる。
「うん、まあね」
微笑のままに答えると、あゆみはため息をついた。
あゆみの後ろで様子をうかがっている他の教員が見えた冬彦は、いつものビジネススマイルを浮かべて向き合う。
「はじめまして。夫の小野田と申します。妻がお世話になってます」
「はじめまして。ご丁寧にどうも」
歳かさの教員は、人の良さそうな笑顔を浮かべて名乗り、他の教員を示して学年担当だと話した。
冬彦は相槌をうち、人好きのする笑顔で一人一人応対する。
その間も、生徒たちはあゆみの手を引き、きゃっきゃと騒いでいる。
「相良先生、小野田先生に変えないの?」
「君たちが卒業したら変えるよ」
「えー。変えればいいのに。小野田あゆみ先生」
「ほんとは小野田先生なんだよってみんなに教えとく」
「教えなくていい! ていうかあんたたち、ちゃんと帰りなさいよ!」
「さて、そろそろ先生たちも解散しまーす。ほらほらみんなも帰った帰った」
「寄り道するなよー」
教員たちが口々に言い、生徒たちもはぁいと手を挙げた。その手をそのまま冬彦に振ってくる。
冬彦は苦笑しながら手を振り返した。
隣であゆみがあきれている。
「意外と愛想がいいんだね」
「意外とって何」
冬彦は首を傾げた。
「……もしかして妬いてる?」
「んな、わけ、ない、でしょ」
むきになって睨みつけたあゆみは、ボストンバッグを持ち上げようとした。その横から冬彦が手を出す。バッグの代わりに、カフェで買った持ち帰り用のカップを鼻先に差し出した。
「お疲れ。冷めちゃったから、買い直してこようか?」
あゆみは冬彦の顔と近すぎる距離にある紙カップを見比べ、どこか不服げにカップに手を伸ばした。
目を反らし、つぶやくように「ありがとう」と言う。
「じゃ、相良先生お疲れさまー」
「お疲れさまです」
去っていく教員たちに頭を下げ、冬彦は荷物を持ち直した。自分が持っていたビジネスバッグと、あゆみの黒いボストンバッグ。
「……さて」
ようやく二人きりになったと、冬彦は改めてあゆみを見下ろした。
あゆみが照れたように視線をさ迷わせる。
冬彦は込み上げる笑いを押し殺すこともなく、あゆみの耳元に口を寄せた。
「……はやくあゆみといちゃいちゃしたいなぁ」
あゆみが、喉奥で呻いた。
「そういう、卑猥な発言、公共の場で」
「卑猥かなー。いちゃいちゃ、で卑猥なこと考えちゃうあゆみが卑猥なんじゃないの」
「ふーゆーひーこーくーんー」
唸るあゆみの声に笑って、冬彦はその髪を撫でた。
さらり、と指先を二日ぶりの感触が伝う。
無意識に額に唇を寄せると、またあゆみが文句を言った。
生徒たちは疲れも見せず、わいわいと盛り上がっている。
自分もあんな時期があったのかと、ついつい微笑みを浮かべながら、あゆみの様子を目で追った。
生徒たちをしゃがませ、点呼し、他の教員に声をかけている姿は教師そのものなのだが、冬彦には往事の学級委員が重なって見える。
当時は「面倒くさい女」と斜に構えていたが、彼女が強い意思と思いやりを持つことはよく分かっていた。とはいえ肝っ玉母ちゃんのようにびしばしと言われれば面白いはずもなく、口うるさいだのなんだの、文句を言った記憶がある。
それでも、他のクラスメイトが彼女を陰で批判しているとき、冬彦は絶対に便乗しなかった。
反意を唱えない代わりに、陰口をきくクラスメイトの顔を無表情に見つめた。
自分では無になっているつもりだったのだが、今思えば心中に苛立ちがあった。だからクラスメイトへ向いた視線は冷たいものであったのに違いない。大概、冬彦がそういう視線を向けると陰口は段々小さくなり、そして違う話題に変わった。
そんなことを思い出すのも、既視感を覚える濃紺色の制服のせいだ。もはや前時代的な感すらある学生服に身を包んだ中学生たちは、しかしそれを自分たちのマークとして従順に身につけている。
スカートを短くしたり、シャツの裾を出したり、靴の踵を踏んだりするのは些末な反抗心に過ぎない。制服を着ないという選択があることに、当人たちは気づいていないのだろうか、それとも気づいていて枠の外に出ることを拒んでいるのだろうか。
その一事にすら、どこか青さを感じた。
冬彦はエスカレーター横にあった段差に腰を添える。椅子がなかったので、そこであゆみが落ち着くまで様子を見ようと思ったのだが、女子生徒に気付かれたらしい。ひそひそ話していた女子数人が、冬彦を指差してちらちら視線を向ける。
それに気づいた男子生徒も冬彦を見、さらにあゆみも生徒たちの視線を追って冬彦に気づく。
視線が絡み合うや、冬彦はできるだけ温厚な夫に見えるよう、優しく微笑んだ。軽く片手を上げてやると、あゆみは素早く首を切り返す。その頬が赤い。
冬彦はくつくつ笑った。
「えー、先生知り合い? 超イケメン」
「えっ、新婚なのに浮気? ヤバくない」
「こらこら、好き勝手言わない。 だいたい、何でそこで素直に『もしかして旦那さん?』ってならないの」
「えっ! マジで旦那さんなの!? ヤバい! 先生地味なのにどこでゲットしたのあんな人!」
「うちらもワンチャンあるんじゃない!?」
「こ、声が大きいっ……!」
生徒たちとあゆみの言い合う声が、冬彦の耳にも届く。笑いを堪えかね、口元を手で覆った。顔をそらしたが、冬彦の笑顔を見た生徒たちがまた騒ぐ。
あゆみが睨みつけてきたので、冬彦は軽く手を上げて応じた。生徒たちの視界に入らないところまで移動する。
メールへの返信をしてしまおうと、壁に寄り掛かりながら片手でスマホを操作する。
しばらくすると、生徒たちが数人、駆け寄ってきた。
「今、解散になりました!」
「もう呼んできてもいいって言われました!」
言いながら、生徒たちはきらきら輝く目で冬彦を見上げる。つい苦笑した。
「そう、ありがとう。ごめんね、わざわざ」
「いえっ、いいえっ」
女に見つめられるのは慣れているはずが、無垢な生徒たちの表情は見慣れたそれとは違う。なんとなく居心地悪い想いをしながら、あゆみはよくこれに毎日付き合っているものだと感心した。冬彦ならば一週間でギブアップしているだろう。
女子生徒数名に引っ張られるようにやってきた冬彦を見て、他の教員と話していたあゆみはあきれたような顔をした。
「……よかったね、若い子たちにチヤホヤされて」
半眼で放たれた言葉に、思わず噴き出しそうになる。
「うん、まあね」
微笑のままに答えると、あゆみはため息をついた。
あゆみの後ろで様子をうかがっている他の教員が見えた冬彦は、いつものビジネススマイルを浮かべて向き合う。
「はじめまして。夫の小野田と申します。妻がお世話になってます」
「はじめまして。ご丁寧にどうも」
歳かさの教員は、人の良さそうな笑顔を浮かべて名乗り、他の教員を示して学年担当だと話した。
冬彦は相槌をうち、人好きのする笑顔で一人一人応対する。
その間も、生徒たちはあゆみの手を引き、きゃっきゃと騒いでいる。
「相良先生、小野田先生に変えないの?」
「君たちが卒業したら変えるよ」
「えー。変えればいいのに。小野田あゆみ先生」
「ほんとは小野田先生なんだよってみんなに教えとく」
「教えなくていい! ていうかあんたたち、ちゃんと帰りなさいよ!」
「さて、そろそろ先生たちも解散しまーす。ほらほらみんなも帰った帰った」
「寄り道するなよー」
教員たちが口々に言い、生徒たちもはぁいと手を挙げた。その手をそのまま冬彦に振ってくる。
冬彦は苦笑しながら手を振り返した。
隣であゆみがあきれている。
「意外と愛想がいいんだね」
「意外とって何」
冬彦は首を傾げた。
「……もしかして妬いてる?」
「んな、わけ、ない、でしょ」
むきになって睨みつけたあゆみは、ボストンバッグを持ち上げようとした。その横から冬彦が手を出す。バッグの代わりに、カフェで買った持ち帰り用のカップを鼻先に差し出した。
「お疲れ。冷めちゃったから、買い直してこようか?」
あゆみは冬彦の顔と近すぎる距離にある紙カップを見比べ、どこか不服げにカップに手を伸ばした。
目を反らし、つぶやくように「ありがとう」と言う。
「じゃ、相良先生お疲れさまー」
「お疲れさまです」
去っていく教員たちに頭を下げ、冬彦は荷物を持ち直した。自分が持っていたビジネスバッグと、あゆみの黒いボストンバッグ。
「……さて」
ようやく二人きりになったと、冬彦は改めてあゆみを見下ろした。
あゆみが照れたように視線をさ迷わせる。
冬彦は込み上げる笑いを押し殺すこともなく、あゆみの耳元に口を寄せた。
「……はやくあゆみといちゃいちゃしたいなぁ」
あゆみが、喉奥で呻いた。
「そういう、卑猥な発言、公共の場で」
「卑猥かなー。いちゃいちゃ、で卑猥なこと考えちゃうあゆみが卑猥なんじゃないの」
「ふーゆーひーこーくーんー」
唸るあゆみの声に笑って、冬彦はその髪を撫でた。
さらり、と指先を二日ぶりの感触が伝う。
無意識に額に唇を寄せると、またあゆみが文句を言った。
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