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本編
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里崎とは駅前で別れた。
冬彦もウィークリーマンションを借りたとはいえ、最寄り駅は父と同じである。
一度に運べる荷物が限られる上、あゆみの職場も市内であるため、遠くに行くのは得策ではないと判断したためだ。
里崎の手前、あえて離れて帰るのもおかしい、という認識は互いに共通していたのだろう。二人は黙って隣に立ち、家の最寄り駅が停まる急行電車に揺られていた。
「……本気なのか」
呟くように聞いたのは父だった。
電車の車内、ガタンゴトンと揺れる中でのその問いは、気づかなくても仕方がない程度の音量でしか発されなかった。
冬彦はちらりと父の横顔を見やり、息を吐きながら答える。
「うん」
電車がわずかに揺れた。
時間は21時近い。この時間帯の電車は大概どことなく運転が荒い、と冬彦は思いつつ、つり輪にかけた手をもう一度握り直す。
身長のある冬彦には、つり輪はちょうど目の前に来る。手をかけるにも中途半端な高さなので、ときにはその上を掴むこともある。
ぼんやり窓に写る父と自分の姿を眺めていると、父が小さく、そうか、と言った。
冬彦はまた、父を見る。
父は黙って前を向いていた。
隣にいる冬彦に話しかけたことなど嘘のようで、冬彦も幻聴だったかと思うほどだ。
冬彦は黙って、かばんを持つ手と、つり輪を持つ手を変える。
父が持つビジネスバッグと冬彦のそれが、かすかにぶつかった。
父は黙って、鞄を引き寄せる。
冬彦も黙ってそれに倣う。
電車に揺られる冬彦と父は、よく似た背格好をしていた。
中年と呼ばれる年齢になっても、父はさして体格が変わらない。祖父の晩年を思い出せば、それは気をつけているからではなく体質的な問題だろう。
周りから見たら、どう見えるのだろう。
親子だと、見えるだろうか。
容姿だけを見ればそうだろうが、二人は目を合わせることも、それ以上会話を交わすこともなかった。
先ほど交わしたものも、会話というにはあまりに味気ないやりとりだ。
しかし、二人の関係では、それが限界だろう。
冬彦は思春期を待たずして、父と離れてしまったように思う。それは父が母から離れて行ったからかもしれない。他の女に癒しを求めたからかもしれない。
親に清廉を求めがちな思春期には、それがひどく薄汚れた、汚らわしいことにも思えたが、大人になった今、一人の男として当時を思えば、気持ちはわからなくも無い。
疲れきって帰宅するや、一日の出来事、過去の出来事、とりとめもなく話し始める母。
並べられた夕飯は温め直したとはいえ作られた直後に比べれば味も落ちている。
缶ビール一本を晩酌に、肴にもならない母の話を聞きつつ、黙々と食事を口に運んでいた父。
食べ終わっても話が終わらない母に嘆息して、風呂へと向かい、ようやく静かな空間に落ち着く。
父は風呂に入ると1時間と出てこなかった。そして母はそれをしてまた批難の種にした。
あれでは、家の中に休まるところなどなかっただろう。
冬彦はそんな父をぼんやりと憐れみ、つり輪にかけた手に額を寄せて目を閉じた。
本来であれば暗いはずの夜を、車内の白い明かりが煌々と照らし出している様は、何となく目を疲れさせる。
白々しい明かりから瞳を守るために閉じたまぶたは、外の明かりを通してうっすらと赤く色づいている。
同時に目の奥にじんわりと痺れるような気配があった。
(……あゆみに会いたい)
今日は一日中出ずっぱりで、次々違う人間に会ったからか、ひどく消耗していた。
その上、母の獰猛なおしゃべりを思い出したので、反動のようにあゆみの温もりを求める。
今、会えば、冬彦の心が和らぐだろうことは明確だ。
しかし、まだ梨華の件が片付いたとは言いきれない。下手にあゆみに近づいては、危害が及ぶ可能性は捨てきれなかった。
それがなくとも、もう既に夜であり、週の半ばでもある。
もともと約束をしていた訳でもないのに、これから家に押しかけるにはあまりに非常識な時間だ。
そんなことを思っていると、車内アナウンスが駅名を告げる。
急行なので間は少し開くが、次の次の駅が降車駅だ。もうそこまで着いたのかと、冬彦は目を開く。
暗い街中を走っている間、窓にくっきりと見えていた父と冬彦の姿は、明りのともされたホームに入るとほとんどかき消えた。それを見て、冬彦はどこかほっとする。
自分と父を並べて比較したくはなかった。
別の人間なのだから。
冬彦の前に座っていたサラリーマンが駅を降りた。
父がちらりと冬彦を見やる。冬彦は何も言わず一歩足を引くと、視線で席を譲った。
父は黙って席に腰掛け、鞄を膝上に抱えて息をつくと、わずかに俯いて目を閉じた。
冬彦はその姿を見下ろしてから前を見る。
電車はまた暗い中を進み始め、前方の窓ガラスに反射して写る立ち姿は、冬彦一人になっていた。
冬彦もウィークリーマンションを借りたとはいえ、最寄り駅は父と同じである。
一度に運べる荷物が限られる上、あゆみの職場も市内であるため、遠くに行くのは得策ではないと判断したためだ。
里崎の手前、あえて離れて帰るのもおかしい、という認識は互いに共通していたのだろう。二人は黙って隣に立ち、家の最寄り駅が停まる急行電車に揺られていた。
「……本気なのか」
呟くように聞いたのは父だった。
電車の車内、ガタンゴトンと揺れる中でのその問いは、気づかなくても仕方がない程度の音量でしか発されなかった。
冬彦はちらりと父の横顔を見やり、息を吐きながら答える。
「うん」
電車がわずかに揺れた。
時間は21時近い。この時間帯の電車は大概どことなく運転が荒い、と冬彦は思いつつ、つり輪にかけた手をもう一度握り直す。
身長のある冬彦には、つり輪はちょうど目の前に来る。手をかけるにも中途半端な高さなので、ときにはその上を掴むこともある。
ぼんやり窓に写る父と自分の姿を眺めていると、父が小さく、そうか、と言った。
冬彦はまた、父を見る。
父は黙って前を向いていた。
隣にいる冬彦に話しかけたことなど嘘のようで、冬彦も幻聴だったかと思うほどだ。
冬彦は黙って、かばんを持つ手と、つり輪を持つ手を変える。
父が持つビジネスバッグと冬彦のそれが、かすかにぶつかった。
父は黙って、鞄を引き寄せる。
冬彦も黙ってそれに倣う。
電車に揺られる冬彦と父は、よく似た背格好をしていた。
中年と呼ばれる年齢になっても、父はさして体格が変わらない。祖父の晩年を思い出せば、それは気をつけているからではなく体質的な問題だろう。
周りから見たら、どう見えるのだろう。
親子だと、見えるだろうか。
容姿だけを見ればそうだろうが、二人は目を合わせることも、それ以上会話を交わすこともなかった。
先ほど交わしたものも、会話というにはあまりに味気ないやりとりだ。
しかし、二人の関係では、それが限界だろう。
冬彦は思春期を待たずして、父と離れてしまったように思う。それは父が母から離れて行ったからかもしれない。他の女に癒しを求めたからかもしれない。
親に清廉を求めがちな思春期には、それがひどく薄汚れた、汚らわしいことにも思えたが、大人になった今、一人の男として当時を思えば、気持ちはわからなくも無い。
疲れきって帰宅するや、一日の出来事、過去の出来事、とりとめもなく話し始める母。
並べられた夕飯は温め直したとはいえ作られた直後に比べれば味も落ちている。
缶ビール一本を晩酌に、肴にもならない母の話を聞きつつ、黙々と食事を口に運んでいた父。
食べ終わっても話が終わらない母に嘆息して、風呂へと向かい、ようやく静かな空間に落ち着く。
父は風呂に入ると1時間と出てこなかった。そして母はそれをしてまた批難の種にした。
あれでは、家の中に休まるところなどなかっただろう。
冬彦はそんな父をぼんやりと憐れみ、つり輪にかけた手に額を寄せて目を閉じた。
本来であれば暗いはずの夜を、車内の白い明かりが煌々と照らし出している様は、何となく目を疲れさせる。
白々しい明かりから瞳を守るために閉じたまぶたは、外の明かりを通してうっすらと赤く色づいている。
同時に目の奥にじんわりと痺れるような気配があった。
(……あゆみに会いたい)
今日は一日中出ずっぱりで、次々違う人間に会ったからか、ひどく消耗していた。
その上、母の獰猛なおしゃべりを思い出したので、反動のようにあゆみの温もりを求める。
今、会えば、冬彦の心が和らぐだろうことは明確だ。
しかし、まだ梨華の件が片付いたとは言いきれない。下手にあゆみに近づいては、危害が及ぶ可能性は捨てきれなかった。
それがなくとも、もう既に夜であり、週の半ばでもある。
もともと約束をしていた訳でもないのに、これから家に押しかけるにはあまりに非常識な時間だ。
そんなことを思っていると、車内アナウンスが駅名を告げる。
急行なので間は少し開くが、次の次の駅が降車駅だ。もうそこまで着いたのかと、冬彦は目を開く。
暗い街中を走っている間、窓にくっきりと見えていた父と冬彦の姿は、明りのともされたホームに入るとほとんどかき消えた。それを見て、冬彦はどこかほっとする。
自分と父を並べて比較したくはなかった。
別の人間なのだから。
冬彦の前に座っていたサラリーマンが駅を降りた。
父がちらりと冬彦を見やる。冬彦は何も言わず一歩足を引くと、視線で席を譲った。
父は黙って席に腰掛け、鞄を膝上に抱えて息をつくと、わずかに俯いて目を閉じた。
冬彦はその姿を見下ろしてから前を見る。
電車はまた暗い中を進み始め、前方の窓ガラスに反射して写る立ち姿は、冬彦一人になっていた。
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