入れ替わり令嬢は国を救う

斎木リコ

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1巻

1-1

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 秋の終わりを迎えた北の空は、どこまでも高く澄んでいた。その空の下には、過ぎゆく季節の名残なごりを残す森が広がっている。
 中でも一際立派な大木の枝に、冬越に備えて丸々と太った鳥が一羽、止まっていた。羽繕はづくろいをしているその鳥を狙って、大木の下のやぶから一本の矢が飛び出す。
 矢は真っ直ぐに鳥を目指して飛び、首を突き刺した。

「やったわ!」

 少々甲高い声が響くのと同時に、鳥は枝から落ちる。それを待ち構えていたように、二匹の猟犬が走り寄った。
 後を追ってやぶから出てきたのは弓を抱えている者とその側に従う者の二人だ。同年代らしい二人は共に白いシャツにチュニック、パンツに長靴という、この辺りの青年にはありふれた服装をしている。だが、華奢きゃしゃな骨格と長い髪、何よりその容姿はうら若い乙女そのものだった。
 弓を射たのであろう人物は、濃い金色の髪に大空を映したような明るい青の瞳、整った容姿は十分美しいと言えるものだ。その後ろに付き従っているのは、栗色の髪と瞳の、大人になる一歩手前くらいに見える少女だった。

「お見事です、トーゼ様」
「これで今夜の食卓は鳥の丸焼きに決定よ、シーニ」

 トーゼと呼ばれた金髪の少女は、弓を肩にかけつつ、声をかけてきた栗色の髪の少女――シーニに笑いかける。彼女の足下では、獲物えものの鳥をくわえた猟犬クープがめてと言わんばかりに尻尾を振って待っていた。

「いい子ねクープ。さあ、肉が臭くならないよう、血抜きをしてしまいましょう」

 そう言うと、彼女は近場の枝にロープを使って鳥をつるし、腰の辺りから短剣を取り出して鳥の首を切り裂く。このまましばらく置いておけばいいのだから、簡単だ。
 そうして血抜きをした獲物えものを片手に、別の手には弓を持ち、トーゼことベシアトーゼはシーニとクープ、もう一匹の猟犬ネープを従えて森を行く。今日もいい狩りが出来た。この森は豊かで、常に人々へ恵みをくれる。

「あ」

 狩りの成果にほくほく顔で歩いていると、背後からシーニの小さな声が聞こえた。振り返った先で、彼女が手の先を押さえている。

「どうしたの?」
「そこの、リリガに引っかけてしまいました」

 確かにシーニの脇にリリガの木が見える。これは葉と枝にとげを持ち、ひっかけてしまうと皮膚ひふがかぶれる植物だ。だが、リリガ自体は布の染料に使えるので、伐採ばっさいする訳にもいかない。

「少し待ちなさい」

 ベシアトーゼはそう言うと、周囲を探し始めた。リリガの側には、必ずと言っていい程にえている植物がある。

「あったわ。ちょっと乱暴なやり方だけど、手を出して」

 二種類の植物をむと、シーニの傷の上で同時に絞った。独特の青臭いにおいが辺りに広がる。
 これらから出る汁には、それぞれ鎮痛消炎と、かぶれを治す効果があるのだ。本来ならきちんと道具を使って成分を抽出するのだけれど、今は緊急なので仕方がない。
 あとは傷口をハンカチでしばって終わりだ。

「ありがとうございます、トーゼ様。このご恩は一生忘れません!」
「いや、恩って程じゃないから」

 何かと大げさなシーニに、ベシアトーゼは真顔で返す。下手に笑いながら否定すれば、それはそれでシーニがむきになり面倒な事になるのを知っているからだ。

「ついでに、鳥の丸焼きに使えそうな香草もんでいきましょうか」
「はい」

 リリガは厄介やっかいな木だが、この木の周辺には先程の薬草の他にも、多くの香草が育つ。ベシアトーゼはシーニと二人で、両手一杯の香草をんでいった。


 大陸の南に位置するここタイエント王国は、南北に長い国だ。そのせいか、国内でも気候の違いが大きい。
 ベシアトーゼ達が暮らす、ヘウルエル伯爵領は王国の北側に位置している為、冬は厳しく夏は過ごしやすい地だった。南側のように年中果実が採れる領地ではないが、穀物こくもつ、特に国内の主食である小麦の生産量が多く、国の食料庫と呼ばれている。おかげで、伯爵領は国内でも重要な領地の一つとされていた。
 その伯爵領では、秋の終わりを迎えて、領内総出の冬支度が行われている。ヘウルエル伯爵の一人娘であるベシアトーゼが領主館に戻った時も、前庭で領民達があれこれ仕分けをしている最中だった。

「おーい、穀物こくもつぐらの方はどうなったー?」
「今、他の奴が見に行っている」
「今年もいい出来だな」
「安心して冬を越せるってもんだ」

 収穫を終えた穀物こくもつの種類や量を調べてそれぞれの倉にしまい、王都へ送る分、領内で消費する分、他領へ売却する分と分けているのだ。
 この作業が全て終われば、待ちに待った収穫祭が行われる。それを楽しみに、領内では大人も子供も労働にいそしんでいた。
 その様子を視界の端に映しながら、ベシアトーゼは館の勝手口から中に入る。今日の獲物えものさばいてもらう為だ。目当ての料理番は、厨房ちゅうぼうで鍋の前にたたずんでいた。
 声をかけると、料理番はベシアトーゼ達を認めて穏やかな笑みを浮かべる。

「お帰りなさい、トーゼ様」

 そんな彼に、ベシアトーゼは獲物えものの鳥をかかげてみせた。

「見て、おいしそうな鳥でしょう? ついでに、料理に使えそうな香草もついているわよ」
「ほう、こりゃまた丸々と太っている。トーゼ様が狩ったんで?」
「もちろん」

 誇らしげに胸を張るベシアトーゼを見つめながら、領主館の料理番は感心して言う。

「この間は立派なイノシシをってきたし、トーゼ様はまだ十七歳だというのにもういっぱしの狩人かりゅうどですな」
「あら、私は狩人かりゅうどではなくて、未来の領主――」

 ベシアトーゼがそう言いかけた時、表の方から若い女性の悲鳴が響いた。何事か、と問う間も惜しいとばかりに、彼女は走り出す。その後ろから料理番の制止の声が聞こえたが、気にしない。
 館の表玄関に到着すると、何やら不穏な空気がただよっていた。

「何事?」
「あ、お嬢様」

 近くにいた領民に声をかけたところ、そこからさざ波のようにベシアトーゼの存在が周知されていく。
 この領に住んでいて、伯爵家の娘であるベシアトーゼの顔を知らない者はいない。その場にいた領民達は彼女の姿を確認すると、騒動の中心に導く為に道をあけた。
 人の波が引いた先にあったのは、少女の腕をひねりあげている男の姿だ。彼の身なりは良く、一目で身分ある人物だと知れる。彼の周囲にいる者達も、仕立てのいい服を着ていた。だが、彼等の下卑げびた表情はそれらを台無しにしている。

「お前達、何者?」

 身なりだけはいい狼藉者ろうぜきもの達に、ベシアトーゼの冷たい声が突き刺さった。娘の手をひねりあげている男がこちらを一瞥いちべつし、みにくい笑みを浮かべる。

「この女が粗相そそうをしたのだ。そのつぐないをさせようとしているのだよ」
粗相そそう?」

 男の言葉にベシアトーゼが片眉を上げて聞き返すと、捕まっている娘が無罪を主張した。

「違います! 言いがかりです!」
「黙れ! 下民の分際で勝手に口を開くな! この私が情けをかけてやろうというのだ、いつくばってありがたがるがよい!」

 途端、彼の供らしき者達がにたりと笑う。その様子を見ただけで、彼等の目的が知れようというものだ。
 ベシアトーゼはゆっくりと進み、男達の前に立った。

「娘の手を放しなさい。ここはヘウルエル伯爵領、余所者よそものが大きな顔をしていい場所ではないのよ」

 彼女の手には、狩猟用の短剣が握られている。その姿をどう誤解したのか、男達はあざけるように笑い出した。

「それがどうした。私は何をしても許される身なのだぞ。お前、そんななりをしているが女だな? スカートをはけばお前も可愛がってやろう!」

 娘を捕まえたままの男の言葉に、ベシアトーゼは一瞬で間合いを詰めて、短剣を彼の肩にめり込ませる。そこには何の躊躇ちゅうちょもない。
 本当に攻撃されるとは思わなかったのか、刺された男も彼の仲間も、数瞬何の反応もしなかった。だが起こった事実をようやく認識したらしく、盛大に騒ぎ始める。

「あ、ああああああああ! か、肩が! 私の肩が!!」
「若君!!」
「は、早く医者を!!」
「貴様、若君に対して何という――」

 最後の男の言葉は途切れた。つい先程、彼等が「若君」と呼んだ男の肩を刺した短剣が、彼に向いたからだ。先程の男の血で、刃先が赤く染まっていた。
 しかも、今度は顔の真ん中に切っ先が向けられている。

猶予ゆうよをあげましょう。今すぐその娘を解放し、我が伯爵領から出ていきなさい。さもないと……」


 全てを口にせずに、ベシアトーゼは短剣の切っ先で青い顔をした男の鼻先を少しだけ突いた。効果は抜群で、肩を刺された「若君」も、彼の仲間の男達もころげるように走り去っていく。やや離れた場所から馬車の音が聞こえたので、もう大丈夫だろう。
 刃をぬぐって短剣をさやに戻し、解放された娘に近づいたベシアトーゼは、彼女に怪我などないか尋ねた。

「はい、大丈夫です。ありがとうございました!」
「何事もなくて良かったわ。それにしても、一体どうしてこんな事に?」

 彼女の疑問に、周囲にいた領民が我先にと話し出す。どうやら、領外から来たあの連中が娘に目を付け、向こうからぶつかってきたくせに因縁いんねんをつけたらしい。

「大方、あのまま馬車にでも連れ込むつもりだったんでしょうよ!」
「本当、男なんてどうしようもないのばっかりなんだから」
「おいおい、俺達はあんな真似まねはしねえぞ」
「そうだそうだ」

 あっという間に、そこは男女間の軽い口論の場になってしまった。それを苦笑しながら眺めているベシアトーゼの耳元に、シーニがささやきかける。

「トーゼ様、連中の乗っていった馬車の車体に紋章がありました」
「本当に?」
「はい。それも、盾が入ったものです」
「そう……」

 シーニは連中の後を付け、馬車で去っていくところまで確認したという。その際に紋章を見つけた為、報告してきたのだ。
 馬車に紋章を描けるのは、爵位を持つ貴族に限られている。また、紋章に盾が入る家は侯爵家以上の家だ。
 という事は、あの「若君」とやらは侯爵家もしくは公爵家の馬鹿息子という事か。

「構わないわ。領民を害する者は、たとえどんな身分の者でも私の敵よ。決して許しはしない」
「さすがです、トーゼ様。このシーニ、どこまでもついてまいります!」

 ベシアトーゼにとって、領民は自分の家族も同然なのだ。その家族を害そうとする者に容赦するつもりはない。ベシアトーゼの宣言に、シーニは感激した様子で忠誠を誓った。
 とはいえ、伯爵家が格上の家の人間を傷つけて無事ではいられまい。いざとなったら、王都に出向いて今回の件をおおやけにしてやる。ベシアトーゼはこぶしを握りしめて決意した。


 そんな事件などすっかり忘れた頃、収穫祭を思いきり楽しんだ後に、その人はやってきた。ベシアトーゼの父、ヘウルエル伯爵ゲアドの側近、ベリルである。

「今日はまた、何の用かしら?」

 ベシアトーゼがいつも通りの若者姿で椅子に腰を下ろして問いただしたところ、彼は深い溜息を吐く。眉間にくっきり刻まれたしわが、これから起こる事を示唆しさしていた。

「大方、予想はついていらっしゃるのでは?」
「あなたの考えている事が、私にわかる訳ないでしょう。だから聞いているのよ」

 最初から喧嘩腰けんかごしなのは、これまでの経験があるからだ。彼が一人で来るのは、何かしらベシアトーゼに説教する時だと相場が決まっている。
 ちらりと頭をよぎったのは、領民の少女に乱暴しようとしていた貴族家ゆかり下衆げす共の事だ。やはり王都で問題になったのだろうか。
 ああいった手合いは、真実を語らず自分達に都合良く他者に吹聴ふいちょうするものだ。それを父なり、目の前のベリルなりが聞いたとしたら、今日彼が来たのも頷ける。
 それにしても、毎回毎回ご苦労な事だ。ベリルはベシアトーゼに、世の貴族令嬢のように淑女しゅくじょ然とした女性になってほしいと思っている。彼がそう思うのは勝手だが、こちらにその幻想を押しつけるのはやめてほしい。何度そう言っても彼は右から左に流すので、自分も彼を見習う事にした。
 つまり、ベリルの説教は右から左に流すのだ。足を高く組んで腕も組み、ふんぞり返るように座るベシアトーゼの前で、ベリルは苦い顔で話し始めた。

「先日、我が領にゴラフォジンド侯爵家の三男コフガ様がいらしたそうですが、何でも帰りしなに暴漢に襲われ怪我をなさったそうです」
「そう」
「侯爵閣下が直々じきじきに旦那様のもとへいらして、そうお話しされていましたよ」
「そう」
「侯爵閣下は、旦那様が所属する派閥のおさでいらっしゃいます。閣下を怒らせる事は、宮廷における旦那様のお立場を悪くする事に繋がるのですよ?」
「そう」
「ゴラフォジンド派閥は、宮廷の三大派閥の一つなのです。そこのおさにらまれるという事がどれだけの事か、ご理解いただけますか?」
「そう」

 ベシアトーゼからろくな反応が返ってこないのにごうを煮やしたのか、ベリルは声を荒らげた。

「領民から全て聞いているんですよ! 彼に怪我を負わせたのはトーゼ様なのでしょう!?」
「そう」

 ここに来て、やっとベリルもベシアトーゼの思惑に気付いたらしい。先程まで頭のてっぺんから湯気ゆげが出そうなくらい怒っていた彼は、溜息一つで怒りを霧散むさんさせた。

「まったく……確かに領民の娘は助かりましたが、もう少しやりようがあったでしょうに……おかげでトーゼ様を隣国に送り出す事が決まりました」
「え?」

 これはさすがに聞き流せない。隣国に送り出すとは、どういう事なのか。驚くベシアトーゼに、ベリルは懇切丁寧こんせつていねいに説明を始めた。
 いくら相手に非があるとしても、さらわれかけたのが平民の娘では伯爵家として抗議する訳にもいかない。しかもベシアトーゼは相手に怪我を負わせている。
 とはいえ、女に手傷を負わされたなど、侯爵家の面子メンツもあっておおやけに出来るものではない。よって今回の件に関しては全てを「なかった事」にするという方針で決着がついている。
 だが、それに不満を持った侯爵家の三男が、おかしな真似まねをしでかさないとも限らない。よってほとぼりが冷めるまで、ベシアトーゼを国外に出すと父ゲアドが決めたというのだ。
 そしてベリルは、最後にとんでもない言葉を口にした。

「それに、コフガ様はあなた様のご婚約者でもあったのですよ。もっとも、今回の件で破談になりましたが」

 さすがに驚いたベシアトーゼは、眉間にしわを寄せる。

「何よ、それ。私は聞いていないわ」
「そうでしょうとも。本決まりになる前に今回の事がありましたからね。今となっては不幸中の幸いといったところでしょうか」

 どうやら、ベリル自身も侯爵家の三男は好かないらしい。それにしても、婚約が本決まりになる前になくなって本当に良かった。あんな男では、未来の女伯爵たる自分の伴侶はんりょには相応ふさわしくない。
 領主は、領民の生活を第一に考えるべきである。これはヘウルエル伯爵家に代々伝わる家訓でもあった。無論、ベシアトーゼもそう信じている。
 そんな自分の伴侶はんりょには、同じように領民を愛する人物が相応ふさわしい。間違っても、自分の欲の為に領民を害するような男などごめんだ。

「破談になったのだから、婚約話はいいとして、どうして私が国外に出なくてはならないのよ」
「先程申し上げた通りですよ。トーゼ様の身を案じてという面もありますが、一番はおそらくトーゼ様の未来の為です」
「未来?」
「評判と言い換えてもいいでしょう。相手は確実にトーゼ様の評判を落とす手を使ってきます」

 貴族女性の評判を落とす話題といえば、貞節関連が最も多い。という事は、敵が男を雇ってベシアトーゼを襲わせる手に出るという事か。
 たとえ返り討ちにしたとしても、「襲われた」という事実があるだけでベシアトーゼの評判は地に落ちる。この場合、多くの女性はまともな結婚が出来なくなるのだ。
 家付き娘のベシアトーゼとはいえ、その事態はまぬがれない。それもあって、侯爵家の手の届かない国外に逃げろという事だろう。

「……理解は出来るけど、納得は出来ないわ」
「それでも、行っていただきます。これは旦那様のご命令なのです」

 家長の命令とあっては、ベシアトーゼは逆らえない。彼女は、軽い溜息を吐いた。

「それで? 国外と言っても、一体どこへ行けというの?」
「トーゼ様には、しばらくエンソールド王国の王都にある、ロンカロス伯爵家へ行っていただきます。先方には既に事情をお知らせする手紙を送り、了承を得ております」

 意外と言えば意外だが、これ以上に納得出来る行き先はない。ロンカロス伯爵家とは、ベシアトーゼの母セマの実家である。十年前に亡くなった母は北にある隣国エンソールドからヘウルエル家にとついできた女性だ。
 今はセマの弟が爵位を継いでいるという。つまり、叔父おじの家に居候いそうろうせよという事か。
 それにしても何とも素早い事だ。行き来する距離を考えると、早馬に相当無理をさせたのだろう。何頭馬を乗り換えたのやら。

「……わかりました。でも、いつまでエンソールドにいればいいの? まさか、侯爵家の三男が亡くなるまでとか言わないわよね?」
「それについては何とも……ですが、少なくとも来年の春までにはお帰りいただくようにします。それまで、エンソールドのロンカロス伯爵家でおとなしくお過ごしください。決して! この領内のように自由に過ごされる事がないように」

 最後に余計な言葉を加えたベリルを一にらみし、ベシアトーゼは天井を仰ぎ見る。まさか、こんな形で母の故国へ足を踏み入れる事になるとは予想もしていなかった。
 幼い頃、母が添い寝しながら語ってくれたエンソールドの話。山しか見た事がないベシアトーゼにとって、母の語る港や海の話は夢のような世界だった。
 そのエンソールド、しかも母が生まれ育った王都に行くのだ。理由はいささか納得しがたいものだが、家を継ぐ前の最後の勉強と思えばいい。ベシアトーゼは、既に頭を切り換えていた。


 タイエント王国からエンソールド王国へと至る街道は、主なもので三つある。そのうちヘウルエル伯爵領を通るのは、キワル街道ただ一つだ。
 そのキワル街道を、一台の馬車がのんびりと走っている。馬車の車体に紋章はない。どこにでもある、ありふれた貸し馬車だ。
 その車内では、一人の少女がさめざめと泣いていた。

「うう……ううう……うええ……」
「いい加減、泣きやみなさい、ノネ。いつまでも泣かれると、こちらの気が滅入めいります」
「だってえ……うええ……」

 シーニにたしなめられた少女、ノネは、さらに泣き崩れた。赤毛にそばかすの、愛嬌あいきょうある顔は涙でれている。ヘウルエル伯爵領の領主館を出てから、彼女はずっとこうだ。
 正面に座るシーニとノネを眺めながら、ベシアトーゼは溜息を吐いた。今日の彼女は落ち着いた色合いのスカートとジャケットという旅装で、髪もきちんとい上げている。
 シーニとノネは色違いのスカートとシャツに女物のコート、それに短めの編み上げブーツで、髪はそれぞれ好みの型にっていた。
 馬車の中には、もう二匹同乗しているものがいる。ベシアトーゼの愛犬クープとネープだ。彼等も時折、迷惑そうな視線をノネに向けていた。
 ベシアトーゼが溜息を吐くさまを見て、シーニはそれ見た事かとノネに言い放つ。

「ほらご覧なさい。トーゼ様も呆れていらっしゃいますよ」
「うええ、そんなああ。トーゼ様あああ」
「……呆れていないから、いい加減泣きやみなさい。親元を離れるのは、あなただけではないのよ?」

 いささかうんざりした色が声ににじんでも、致し方ないだろう。ノネの臆病おくびょうさや泣き虫には慣れているベシアトーゼ達ですら、今日の彼女の様子には嫌気が差しているのだから。
 あの後、ベシアトーゼとの話し合いを終えたベリルは、自身が領主館を去る前にベシアトーゼのエンソールド行きの準備を進め、あまつさえ自分の手で送り出したのだ。その手腕には脱帽するが、何もかも彼の思惑通りに進んでいるのは何となく気に入らない。
 ベシアトーゼは、馬車の小さな窓から外を見る。なだらかな丘が続く街道をゆっくり進んでいるせいで、景色はほぼ変わらなかった。馬の為にも馬車の耐久力的にも、あまり速度は出せないのだそうだ。
 伯爵家の馬車ではなく貸し馬車になったのも、安全対策の一つなのだとか。紋章は威力を発揮する場面も多いが、いらない敵を呼び込む目印にもなる。移動中に襲撃されては、せっかくの計画が水の泡だ。
 窓から視線を移すと、車内にいるノネとシーニの様子が目に入る。まだ半べそをかいているノネはベシアトーゼの乳母うばの娘で、ノネをたしなめつつ面倒を見ているシーニは私兵団長の娘だ。
 シーニは彼女の二人の兄同様、父から戦闘の手ほどきを受けており、ベシアトーゼ並に剣も槍も弓も使える。
 また最近は、領主館の家政婦として働く母親から仕事を学んでいて、小間使いの面でも役に立っていた。もっとも、今回の旅では護衛役という側面が強いが。
 一方、ノネは赤毛に鳶色とびいろの瞳の愛くるしい少女で、その臆病おくびょうな性格から危険察知の能力に優れている。以前、大雨が降った際に山の土砂どしゃ崩れまで察知した為、何か特別な能力があるのではないかと騒がれた事もある程だ。
 ただ、「自身と、身近な人間」の危険しか察知しないので、能力が役に立たない場合も多い。土砂どしゃ崩れの時はノネの父親が巻き込まれそうだった為、察知出来たようだ。
 シーニとノネを同行者に推薦したのは、領内に住む退役軍人のバイドだった。彼はベシアトーゼの戦闘の師でもあり、私兵団長も度々たびたび相談する程の実力の持ち主だ。
 ノネは前述の通り危険を避ける能力があり、ベシアトーゼの危険も予測して回避出来る可能性が高い。シーニはバイドも認める腕前の為、いざという時の護衛役を務められるし、クープとネープは彼が手ずから仕込んだ犬たちなのできっと役に立つ。
 バイドの助言に、ベリルはその場で二人と二匹の同行を決めた。シーニは喜んだが、ノネは見ての通り泣き通しである。
 ただでさえ甘ったれで臆病おくびょうなノネは、母からも父からも離れ、見知らぬ異国に行く事が恐ろしいのだ。たとえベシアトーゼやシーニと一緒でも、恐怖は薄れないらしい。条件的にはベシアトーゼとシーニも同様なのだが、自身の恐怖に打ち勝てないノネは、そこには思い至らないようだ。
 ちなみに、二匹の猟犬達はベシアトーゼの足下にうずくまっている。馬車での移動にも一向におびえる事なく、のびのびとした様子だ。やっぱり時折、迷惑そうな顔をノネに向けているけれど。
 かくして、長い道行きの車内は、ノネの泣き声に占領される羽目になった。


 タイエントから見て、エンソールドは北に位置する大国だ。大陸のほぼ中央に存在し、広大な国土と豊かな土壌を持ち、海に面している為、海運と海産物にも恵まれている。
 そんなエンソールド王国とタイエント王国の国境は、山に囲まれた隘路あいろだった。ここまで来るのに、ヘウルエル伯爵領を出てから実に半月の時間が経っている。
 途中の宿泊は貴族の館が多かったが、地方の修道院に泊まる事もあった。修道院の中でも大規模なものは客人用の別棟を持っているところがあり、意外にも快適に過ごせたものだ。
 その旅も、この国境を越えればがらりと変わる。タイエント国内であればヘウルエル伯爵家の名前が通用するけれど、国外では今まで通りとはいかない。旅も不便なものになるだろう。
 国境で出国手続き及びエンソールドへの入国手続きを終え、国境を越える。壁一枚程度の距離だからか、特に何が変わったとも思わない。
 ――馬車に乗ったままじゃ、当然か……
 手続き中も、ベシアトーゼ本人が馬車から降りる事はなかった。車体に紋章がなくとも、国を越える為の身分証には彼女が貴族である事が記されているのだ。下手な行動は出来ない。
 ここは自分らしい振る舞いが許されるヘウルエル伯爵領ではないのだから気をつけなければ、とベシアトーゼは気合を入れ直す。領内でも彼女の「自分らしさ」が許されていた訳では決してないという事実は、都合良く忘れていた。


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