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バレンタイン小話
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その日、アンネゲルトは朝から船に籠もっていた。数ある飲食店の中の、一番小さい店舗の厨房を使っているのだ。店の出入り口に護衛が立っているが、厨房にはアンネゲルト一人しかいない。
ハンドミキサーを使って卵白を泡立ててメレンゲを作ると、その出来上がり具合を確認してミキサーのスイッチを切る。
「これでよし、と。次は卵黄か」
卵黄に砂糖を混ぜ、ある程度混ざった所で再びハンドミキサーのスイッチを入れる。
「マヨネーズ状、マヨネーズ状っと」
ぶつくさと良いながら作業工程を進めていく。彼女の目の前には、レシピが印刷された紙が棚に貼り付けられていた。
朝から厨房で作業をしているのには訳がある。今日は二月十四日。バレンタインデーだ。
スイーオネースでは当然バレンタインデーなるものは存在しない。それは帝国でも同様だったが、奈々が持ち込んだおかげで日本のバレンタインデーに近い行事が行われるようになっていた。
今アンネゲルトが作っているのは、ココア生地のスポンジだ。今日の目的は、チョコレートロールケーキを作る事だった。
常に周囲に人がいる状況は、時にストレスとなる。こうして一人で料理をしたりお菓子を作ったりするのは、ストレスから解放される貴重な時間でもあった。
そうこうしているうちに、生地が出来上がる。ココアを加えた生地だ。
「さて、オーブンの方はどうかなー」
生地にメレンゲを加える少し前にオーブンの予熱を開始させておいた。表示を見ると、あともう少しらしい。
紙を敷いた天板に生地を流し込んでいく。食べる目標時間は本日の午後三時。お茶の時間を狙っていた。
この日の為にわざわざ材料を帝国から取り寄せ、予定も一日空けられるように調整したのだ。
設定温度になったオーブンに天板を入れれば一息つける。
本日の「チョコレート」は、当然ながら夫となったエンゲルブレクトへ送るものだ。
大公となった彼は以前にも増して忙しい日々を送っている。王太子妃から大公妃へと肩書きが変わったアンネゲルトも同じく忙しかったが、彼の方が疲労度は上だった。
「甘い物は疲れを取るともいうしね。あまり好きじゃないのは知ってるけど」
薄く切った一切れでもいい。ケーキを食べるわずかの時間だけでも、ゆっくりしてほしいのだ。比喩でも何でもなく、最近のエンゲルブレクトは食事の時間さえ満足に取れない程だった。
原因はわかりきっている。最近やたらと国王の代理の仕事が増えているのだ。
建前としては、王太子を廃嫡した影響を払拭する為に、新大公の存在を強める為という事らしい。
だが実際は、国王からの譲位の準備だと聞いている。アンネゲルトは溜息を吐きながら、オーブンの中をのぞき込んだ。残り時間はあと数分。もうじき焼き上がるだろう。
アンネゲルトの方も、王妃となるべくお妃教育が再開されていた。それもあって忙しいのだ。
王太子妃時代に一度受けているが、今回はさらに王妃となる為のものらしい。どういう違いだと思うが、スイーオネースではこれが慣習なのだそうだ。
スイーオネースでは、大公は王太子と同格な為、エンゲルブレクトは王太子にはならず大公の地位から王位に就くのだという。
何故これ程急いで譲位が行われるのかといえば、やはり例の事件が響いているのだそうだ。
国王の従兄弟であるハルハーゲン公爵が中心となって起こした、王太子妃誘拐事件。アンネゲルトはその被害者だった。
王太子であったルードヴィグが廃嫡されたのも、あの事件のあおりを食らったところが大きい。
事件には国王とエンゲルブレクトの腹違いの兄弟である、ステーンハンマル司教も関わっていた。おかげで事件後は王宮も教会も大混乱となったものだ。
軽い音が響いて焼成終了を報せる。アンネゲルトはミトンをつけてオーブンから天板を取り出した。
竹串を刺して焼き具合を確認する。
「うん、上出来上出来」
紙をつけたまま網の上に置き、粗熱が取れた所で全面にラップを貼り付ける。厨房に置かれたラップは業務用らしく、大きくて重いが何とかなった。
スポンジを冷ましている間に、クリームの準備を進める。チョコレートを湯煎で溶かし、生クリームを入れて混ぜる。ここでしっかり混ぜておかないと、チョコの塊が残ってしまって舌触りが悪くなるのだ。
溶け残りがないようしっかり混ぜた後、今度はボウルを氷水に当ててハンドミキサーを使う。
今回クリームに使ったチョコは、甘みの強いスイート系にした。エンゲルブレクトに送るならビター系がいいのでは、とも思ったが、疲れた時には甘い物、という考えがあった為スイート系にしたのだ。アンネゲルトの好みでもある。
チョコレートを溶かした生クリームは冷えると堅めになる。しっかり泡立てたのもあるが、通常の生クリームよりもどっしりとした感じに仕上がった。後はスポンジに塗って巻いた後に冷やせば出来上がりだ。
最後の巻きの工程が一番大変で、アンネゲルトはよく失敗をしていた。
「巻きはじめは折るように……折るように……」
先日見たレシピ動画でのコツをぶつぶつ呟きながら、冷めたスポンジにクリームを塗り広げる。巻き終わりになる部分を斜めに切り落とすのも忘れてはいけない。
切り落とした分のスポンジを味見代わりに食べて見る。食感は悪くない。ココアが入っているので、プレーンのスポンジよりやや甘みが控え目に感じた。
スポンジの下に敷いた紙を持って、端からゆっくりと巻いていく。慌てるときれいに巻けないので、ここは慎重にいく。
半ばまで巻ければ後は楽だ。最後までくるっと巻いて、紙を巻き付けたまま冷蔵庫に入れて冷やす。一時間も入れておけば完成だ。
時計を確認すると、そろそろ昼の時間である。
「お昼はどうしようかな……」
現在カールシュテイン島で食事が出来るのは、船と離宮、それにクアハウスだ。島にいて予定がない時は、そのどれかで食事をとっている。
移動が面倒という理由だけで、今日の昼は船でとる事にした。アンネゲルトは厨房を出ると。店の出入り口で待機していた護衛と共にメインダイニングへと向かった。
三時のお茶の時間、エンゲルブレクトは少し遅れて妃の元を訪れた。その顔には疲労が色濃く滲んでおり、アンネゲルトの眉をひそめさせる。
そんな妃の表情に、エンゲルブレクトは苦笑するしかない。
「そんな顔をしないでくれ」
「だって……」
「疲れてはいるが、大丈夫だ。軍で鍛えているから」
嘘偽りのない言葉だ。正直戦場に行けばこんなものでは住まない程、肉体的にも精神的にも追い込まれる。それを思えば今の疲れなど可愛い物だ。
そうは言っても、周囲の人間は心配するのだろう。特に妃であるアンネゲルトは。心配を掛ける事に対する申し訳なさと、心配してくれる事への嬉しさとがない交ぜになった。それが笑みとなって現れたから、アンネゲルトを起こらせる。
「もう! あなたの体の事を心配しているっていうのに、笑うなんて」
「ああ、すまない。そういう意味ではないんだ」
「じゃあどういう意味!?」
相変わらず感情を素直に表すアンネゲルトに、エンゲルブレクトはさらに笑みを深くした。
感情に素直なアンネゲルトを、「らしくない」と評する貴族も多い。だがエンゲルブレクトは、彼女にはこのままでいて欲しいと思っている。特に自分の前では。
エンゲルブレクトがテーブルについてから、お茶と茶菓子が用意される。皿の上を見ると、見た事のない菓子が乗っていた。
「これは?」
「ああ、あの、ね。母の故国では、今日は女性から男性にチョコレートを贈る日なの」
「チョコレート?」
「このケーキのクリームに使っているのと、脇に添えてあるものよ。今までも何度か出しているんだけど」
言われてみれば、何度かお茶の時間や食後のデザートに出ていた記憶がある。しかし、何故それをわざわざ女性から男性に贈るのか。
「今日はバレンタインデーと言って、女性から告白をしてもいい日になっているのよ。チョコレートはその為に贈るの」
そこまで言われて、やっと合点がいった。なるほど、意中の相手に菓子を贈る事で自分の想いを伝えるという事のようだ。
「では、これは――」
「あの! ちょっと見た目とか食感とかは自信がないけど、味はそう悪くないはずだから!」
「え?」
一気に言い切ったアンネゲルトは、真っ赤な顔でそっぽを向いている。その横顔を見つめていると、脇からティルラが小声で補足してくれた。
「このケーキは、本日アンナ様が朝から張り切って作ったものなんですよ」
「これを?」
エンゲルブレクトはロールケーキの乗せられた皿を持ち上げ、しげしげと眺めた。
渦巻き模様の変わったケーキだ。中にはクリームが巻き込まれていて、なるほどチョコレートの香りが漂っている。
「その……職人が作った方がおいしいのはわかっているんだけど……」
そう言って俯くアンネゲルトに、エンゲルブレクトは胸の辺りが温かくなるのを感じる。
「私の為に、これを?」
そう尋ねると、アンネゲルトはこくりと小さく頷いた。貴婦人は普通厨房には立ち入らない。そこは使用人の領域であって、貴婦人が入る場所ではないからだ。
「妻お手製の贈り物をもらった男は、社交界でも私くらいだろうね」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんだ? 嬉しいよ、誰もやらない事をやってくれて」
エンゲルブレクトの言葉に、アンネゲルトはようやく顔を上げる。その顔はまだ真っ赤だ。だが表情は先程とは大分違う。
「食べてみても?」
「えと……どうぞ……」
フォークで一切れ口に入れる。甘いが、何とも言えない風味が広がった。甘い物はあまり好まないが、これなら大丈夫そうだ。
「うん、おいしいよ」
「良かった」
ようやくアンネゲルトに笑顔が戻る。やはり彼女には笑っていて欲しい。笑みを交わしながら、些細な事を話し時に驚き時に笑う。そんな穏やかな時間は、一時エンゲルブレクトから疲労を忘れさせた。
結果として、アンネゲルトのバレンタインデーはうまくいったようだ。寝る仕度を調えながら、弾んだ調子でティルラに話しかける。
「それでね、また作ってほしいって言ってくれたのよ」
「そうですか。良かったですね」
自分もその場にいたのだから、その台詞はティルラも聞いている。でもそんな事を言ったりしたら、せっかく楽しそうにしているアンネゲルトの気分がしぼんでしまうだろう。
ここ最近エンゲルブレクトが忙しく、公務と寝室でしか顔を合わせない日も多かった。そのせいで沈んだ様子を見せていたアンネゲルトが、嬉しそうにしているのだから、多少の胸焼けは我慢しようと思うティルラだった。
ハンドミキサーを使って卵白を泡立ててメレンゲを作ると、その出来上がり具合を確認してミキサーのスイッチを切る。
「これでよし、と。次は卵黄か」
卵黄に砂糖を混ぜ、ある程度混ざった所で再びハンドミキサーのスイッチを入れる。
「マヨネーズ状、マヨネーズ状っと」
ぶつくさと良いながら作業工程を進めていく。彼女の目の前には、レシピが印刷された紙が棚に貼り付けられていた。
朝から厨房で作業をしているのには訳がある。今日は二月十四日。バレンタインデーだ。
スイーオネースでは当然バレンタインデーなるものは存在しない。それは帝国でも同様だったが、奈々が持ち込んだおかげで日本のバレンタインデーに近い行事が行われるようになっていた。
今アンネゲルトが作っているのは、ココア生地のスポンジだ。今日の目的は、チョコレートロールケーキを作る事だった。
常に周囲に人がいる状況は、時にストレスとなる。こうして一人で料理をしたりお菓子を作ったりするのは、ストレスから解放される貴重な時間でもあった。
そうこうしているうちに、生地が出来上がる。ココアを加えた生地だ。
「さて、オーブンの方はどうかなー」
生地にメレンゲを加える少し前にオーブンの予熱を開始させておいた。表示を見ると、あともう少しらしい。
紙を敷いた天板に生地を流し込んでいく。食べる目標時間は本日の午後三時。お茶の時間を狙っていた。
この日の為にわざわざ材料を帝国から取り寄せ、予定も一日空けられるように調整したのだ。
設定温度になったオーブンに天板を入れれば一息つける。
本日の「チョコレート」は、当然ながら夫となったエンゲルブレクトへ送るものだ。
大公となった彼は以前にも増して忙しい日々を送っている。王太子妃から大公妃へと肩書きが変わったアンネゲルトも同じく忙しかったが、彼の方が疲労度は上だった。
「甘い物は疲れを取るともいうしね。あまり好きじゃないのは知ってるけど」
薄く切った一切れでもいい。ケーキを食べるわずかの時間だけでも、ゆっくりしてほしいのだ。比喩でも何でもなく、最近のエンゲルブレクトは食事の時間さえ満足に取れない程だった。
原因はわかりきっている。最近やたらと国王の代理の仕事が増えているのだ。
建前としては、王太子を廃嫡した影響を払拭する為に、新大公の存在を強める為という事らしい。
だが実際は、国王からの譲位の準備だと聞いている。アンネゲルトは溜息を吐きながら、オーブンの中をのぞき込んだ。残り時間はあと数分。もうじき焼き上がるだろう。
アンネゲルトの方も、王妃となるべくお妃教育が再開されていた。それもあって忙しいのだ。
王太子妃時代に一度受けているが、今回はさらに王妃となる為のものらしい。どういう違いだと思うが、スイーオネースではこれが慣習なのだそうだ。
スイーオネースでは、大公は王太子と同格な為、エンゲルブレクトは王太子にはならず大公の地位から王位に就くのだという。
何故これ程急いで譲位が行われるのかといえば、やはり例の事件が響いているのだそうだ。
国王の従兄弟であるハルハーゲン公爵が中心となって起こした、王太子妃誘拐事件。アンネゲルトはその被害者だった。
王太子であったルードヴィグが廃嫡されたのも、あの事件のあおりを食らったところが大きい。
事件には国王とエンゲルブレクトの腹違いの兄弟である、ステーンハンマル司教も関わっていた。おかげで事件後は王宮も教会も大混乱となったものだ。
軽い音が響いて焼成終了を報せる。アンネゲルトはミトンをつけてオーブンから天板を取り出した。
竹串を刺して焼き具合を確認する。
「うん、上出来上出来」
紙をつけたまま網の上に置き、粗熱が取れた所で全面にラップを貼り付ける。厨房に置かれたラップは業務用らしく、大きくて重いが何とかなった。
スポンジを冷ましている間に、クリームの準備を進める。チョコレートを湯煎で溶かし、生クリームを入れて混ぜる。ここでしっかり混ぜておかないと、チョコの塊が残ってしまって舌触りが悪くなるのだ。
溶け残りがないようしっかり混ぜた後、今度はボウルを氷水に当ててハンドミキサーを使う。
今回クリームに使ったチョコは、甘みの強いスイート系にした。エンゲルブレクトに送るならビター系がいいのでは、とも思ったが、疲れた時には甘い物、という考えがあった為スイート系にしたのだ。アンネゲルトの好みでもある。
チョコレートを溶かした生クリームは冷えると堅めになる。しっかり泡立てたのもあるが、通常の生クリームよりもどっしりとした感じに仕上がった。後はスポンジに塗って巻いた後に冷やせば出来上がりだ。
最後の巻きの工程が一番大変で、アンネゲルトはよく失敗をしていた。
「巻きはじめは折るように……折るように……」
先日見たレシピ動画でのコツをぶつぶつ呟きながら、冷めたスポンジにクリームを塗り広げる。巻き終わりになる部分を斜めに切り落とすのも忘れてはいけない。
切り落とした分のスポンジを味見代わりに食べて見る。食感は悪くない。ココアが入っているので、プレーンのスポンジよりやや甘みが控え目に感じた。
スポンジの下に敷いた紙を持って、端からゆっくりと巻いていく。慌てるときれいに巻けないので、ここは慎重にいく。
半ばまで巻ければ後は楽だ。最後までくるっと巻いて、紙を巻き付けたまま冷蔵庫に入れて冷やす。一時間も入れておけば完成だ。
時計を確認すると、そろそろ昼の時間である。
「お昼はどうしようかな……」
現在カールシュテイン島で食事が出来るのは、船と離宮、それにクアハウスだ。島にいて予定がない時は、そのどれかで食事をとっている。
移動が面倒という理由だけで、今日の昼は船でとる事にした。アンネゲルトは厨房を出ると。店の出入り口で待機していた護衛と共にメインダイニングへと向かった。
三時のお茶の時間、エンゲルブレクトは少し遅れて妃の元を訪れた。その顔には疲労が色濃く滲んでおり、アンネゲルトの眉をひそめさせる。
そんな妃の表情に、エンゲルブレクトは苦笑するしかない。
「そんな顔をしないでくれ」
「だって……」
「疲れてはいるが、大丈夫だ。軍で鍛えているから」
嘘偽りのない言葉だ。正直戦場に行けばこんなものでは住まない程、肉体的にも精神的にも追い込まれる。それを思えば今の疲れなど可愛い物だ。
そうは言っても、周囲の人間は心配するのだろう。特に妃であるアンネゲルトは。心配を掛ける事に対する申し訳なさと、心配してくれる事への嬉しさとがない交ぜになった。それが笑みとなって現れたから、アンネゲルトを起こらせる。
「もう! あなたの体の事を心配しているっていうのに、笑うなんて」
「ああ、すまない。そういう意味ではないんだ」
「じゃあどういう意味!?」
相変わらず感情を素直に表すアンネゲルトに、エンゲルブレクトはさらに笑みを深くした。
感情に素直なアンネゲルトを、「らしくない」と評する貴族も多い。だがエンゲルブレクトは、彼女にはこのままでいて欲しいと思っている。特に自分の前では。
エンゲルブレクトがテーブルについてから、お茶と茶菓子が用意される。皿の上を見ると、見た事のない菓子が乗っていた。
「これは?」
「ああ、あの、ね。母の故国では、今日は女性から男性にチョコレートを贈る日なの」
「チョコレート?」
「このケーキのクリームに使っているのと、脇に添えてあるものよ。今までも何度か出しているんだけど」
言われてみれば、何度かお茶の時間や食後のデザートに出ていた記憶がある。しかし、何故それをわざわざ女性から男性に贈るのか。
「今日はバレンタインデーと言って、女性から告白をしてもいい日になっているのよ。チョコレートはその為に贈るの」
そこまで言われて、やっと合点がいった。なるほど、意中の相手に菓子を贈る事で自分の想いを伝えるという事のようだ。
「では、これは――」
「あの! ちょっと見た目とか食感とかは自信がないけど、味はそう悪くないはずだから!」
「え?」
一気に言い切ったアンネゲルトは、真っ赤な顔でそっぽを向いている。その横顔を見つめていると、脇からティルラが小声で補足してくれた。
「このケーキは、本日アンナ様が朝から張り切って作ったものなんですよ」
「これを?」
エンゲルブレクトはロールケーキの乗せられた皿を持ち上げ、しげしげと眺めた。
渦巻き模様の変わったケーキだ。中にはクリームが巻き込まれていて、なるほどチョコレートの香りが漂っている。
「その……職人が作った方がおいしいのはわかっているんだけど……」
そう言って俯くアンネゲルトに、エンゲルブレクトは胸の辺りが温かくなるのを感じる。
「私の為に、これを?」
そう尋ねると、アンネゲルトはこくりと小さく頷いた。貴婦人は普通厨房には立ち入らない。そこは使用人の領域であって、貴婦人が入る場所ではないからだ。
「妻お手製の贈り物をもらった男は、社交界でも私くらいだろうね」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんだ? 嬉しいよ、誰もやらない事をやってくれて」
エンゲルブレクトの言葉に、アンネゲルトはようやく顔を上げる。その顔はまだ真っ赤だ。だが表情は先程とは大分違う。
「食べてみても?」
「えと……どうぞ……」
フォークで一切れ口に入れる。甘いが、何とも言えない風味が広がった。甘い物はあまり好まないが、これなら大丈夫そうだ。
「うん、おいしいよ」
「良かった」
ようやくアンネゲルトに笑顔が戻る。やはり彼女には笑っていて欲しい。笑みを交わしながら、些細な事を話し時に驚き時に笑う。そんな穏やかな時間は、一時エンゲルブレクトから疲労を忘れさせた。
結果として、アンネゲルトのバレンタインデーはうまくいったようだ。寝る仕度を調えながら、弾んだ調子でティルラに話しかける。
「それでね、また作ってほしいって言ってくれたのよ」
「そうですか。良かったですね」
自分もその場にいたのだから、その台詞はティルラも聞いている。でもそんな事を言ったりしたら、せっかく楽しそうにしているアンネゲルトの気分がしぼんでしまうだろう。
ここ最近エンゲルブレクトが忙しく、公務と寝室でしか顔を合わせない日も多かった。そのせいで沈んだ様子を見せていたアンネゲルトが、嬉しそうにしているのだから、多少の胸焼けは我慢しようと思うティルラだった。
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