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散りゆくモノ

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 総司は、まだ頭がぼんやりとしているのを認識した。
 白昼夢を見ていたのか、本当に幽界のような場所に誘われていたのか。
 総司を前足で押し倒した黒猫の姿は、どこにも見えなくなっている。

(どれくらい、時間が経っているんだろう……)

 日の傾き具合から読み取ることができない。ということは、ほんの少しの、短い時間だったのだろうか。
 横になっていた上体を起こし、縁側に座り直す。固い床に面していた体側が、少しだけ痛い。額を押さえて頭を軽く振ると、目蓋の裏に自分の頭を両手で抱える近藤の姿が蘇った。

(近藤さんは今……本当に、あんな姿なのかな)

 死後の近藤と実際に会って言葉を交わしていたのか半信半疑だが、肩に残る近藤の手の冷たさは疑いようがなかった。
 だとしたら、なんともいたたまれない。
 あんなに優しい人が、信念を貫いて尽くしてきた人が、なぜ罪人の扱いを受けなければならなかったのか。

「悔しいなぁ……」

 己の不甲斐なさが、悔しくてたまらない。
 どうしても、もしもの可能性を考えてしまう。
 もし、肺病を患わなければ。もし、近藤と共に行動することができていたならば。もし、新政府軍との戦に勝っていたのなら。
 考えたところで、今さらどうにもならない。
 近藤は、既に死んでしまっているのだから。
 再び胸中には、近藤の死を知らせてもらえなかった無念さが込み上げてくる。
 総司は拳を握り、ダンッと縁側に叩きつけた。衝撃で、手の骨が痛みを伴い抗議してくる。構うものかと、もう一度拳を強く叩きつけた。
 もう一度。さらにもう一度。噛み締めた奥歯も、ミシミシと悲鳴を上げる。
 それでも発散されない鬱憤が、総司の中にドシリと居座り続けた。むしろ拳を叩きつける度に、その存在感は増していくようだ。
 皮膚が破れ、血が滲む。
 拳が赤く染まっていることに気付き、やっと叩きつけることを止めにした。固い板に打ち続けられた右手は、痺れてしまって感覚が若干麻痺している。

(やりすぎた……)

 少しだけ後悔はしたけれど、実際はどうでもよかった。
 手の傷が治ろうが治るまいが、近藤が死んだことに変わりはないのだから。

(処刑されたってことは、あの首は……あの場所に晒されていたんだろうな)

 精一杯、一生懸命に守ってきた京の人々から、嗤われただろうか。蔑まれただろうか。
 嘲笑に晒される場面を思い浮かべると、過ぎたことであるのに怒りが込み上げ、腸が煮えくり返ってくる。
 再燃した怒りの炎に、総司は再び包まれた。

(許せない)

 近藤を処刑に追いやった者達のことも、このふた月なにも知らず過ごしてきた自分のことも。
 怒りに身を任せて立ち上がり、ヨロヨロとした足取りで自室へと向かう。
 敷きっぱなしの布団の頭元。そこには常に、大小の刀が置いてある。
 総司は血だらけの右手で、勢いよく大刀を掴んだ。
 持ち上げようとするも、少しよろけてしまう。体力の低下は否めない。
 鞘から刀身を抜き出し、その刃に己を写す。
 顔色は青白く、痩せ細り、頬が痩(こ)けている情けのない男。それが今、目に映る自分の姿だ。

「ああぁぁぁあああっ!」

 腹の底から声を出し、刀を振りかぶる。振り下ろそうとした瞬間、部屋の前に気配を感じた。

「ニャーォ」

 視線を向ければ、あの黒猫が座っている。
 黄緑色の瞳に疫病神のような総司を映し、興味を失ったとでもいうように、素っ気なくフイッと視線を逸らす。スイッと尻尾をひと振りし、シャナリとした身のこなしで縁側から飛び降りた。

「待て……」

 総司も猫を追いかけ、縁側から降りる。悠長に庭を縦断する黒猫を凝視し、刀を手にしたまま、切っ先を引きずり歩く。

「お前は、いったいなにがしたかったんだ。近藤さんと引き合わせて、どうしたかったんだ!」

 総司が叫ぶと、黒猫は歩みを止めた。肩越しに振り向き、ニャーと鳴く。

 ーー会いたいと言ったのは、誰?
「っ……!」

 会いたいと言ったのは、確かに総司だ。
 黒猫はノウゼンカズラが伝い咲く塀に飛び乗り、もう一度ニャーと鳴いた。

 ーー貴方は優しく接してくれたから、最後に願いを叶えてあげただけ。

 最後に、という言葉を認識し、体中の血液が沸騰したかのように熱くなる。

「最後だと……っ」

 喋ろうとした途端に喉の奥がヒュッと鳴り、胸を起点にして貫くような痛みが全身を走った。

「ゲホッ……ゲホッ……ゴハッ……ゲホッ!」

 総司は盛大に咳き込んだ。
 呼吸ができない。苦しい。苦しくて、涙が浮かぶ。喉の奥から込み上げてくる温かい物をコプリと吐き出した。
 喀血。真っ赤な鮮血で、口元を押さえていた手と着物が染まる。
 視界が揺れるも、刀の切っ先を地面に突き立てて体勢を保った。

(もう……自力で立つこともできなくなってしまった)

 黒猫が告げた最後という単語が、頭の中をグルグルと回る。

(このまま、なにもできずに……死ぬのか?)

 そもそも……なにもできないのであれば、総司には、もう生きている価値も意味もない。意味が無くなってしまった。
 そういう結論に達してしまうくらい、心も体も弱ってしまっている。
 黒猫は塀の上に長く横たわり、尻尾を揺らしながらニャーと鳴く。

 ーーよかれと思ってのことだったのに、気分を害してしまったかしら?

 そうだ、と心の中で総司は呟く。
 この黒猫のせいで、治療に専念していた努力は水泡に帰した。早く完治させて、近藤のところに戻るという目標が無くなってしまったのだから。

「あぁ、余計なお世話だったよ……」

 総司は地面から切っ先を引き抜くと、渾身の力を込めて柄を両手で握り、刀を構える。視線と剣先の先には、神々しくもある優雅な黒猫の姿。

(お前が、余計なことさえしなければ……!)

 足に力を込め、総司は走り出す。どこにこんな力が残っていたのか、自分でも信じられないくらいの速さで黒猫との距離を詰めていった。

「ぅおおぉぉおお!」

 陽の光を反射させ、刀身が煌めく。
 ザンッと斬りつければ、橙色の花弁と緑の葉が無数に宙へと舞い散った。
 それは、まるで血飛沫のように。
 舞い散るノウゼンカズラの花弁の隙間から、黄緑色の瞳がチラリと覗く。

「ニャーォ」
 ーー八つ当たりは、やめてほしいな。

 黒猫に心中を言い当てられ、頬が紅潮する。

「っ!」

 手首を返して刀を構え直すも、塀の上に居たはずの、黒猫の姿はどこにも見当たらない。

「逃げられた……っ、グッ」

 胸の奥から込み上げてくる衝動を抑えきれず、またもやゴホゴホと激しく咳き込む。

(最後って、そういうことか……そうだよな)

 真っ赤に染まっている口から、ボタボタと溢れ落ちる鮮血。
 視野が霞む。視界が暗くなる。

(近藤さん……もうすぐ、そっちに逝くみたいです)

 薄れゆく意識の中、胸中で近藤に語りかけ、刀を握り締めたまま地面に倒れ込む。
 真っ赤な血と緑の葉、橙色の花弁が、眠りにつく総司を鮮やかに彩っていた。


《終》
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