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《第10章》 天国の門
Calling
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二人の関係は金銭のつながりから始まった。
借金を返済しなければいけないのに、これ以上お金を使うことを考えるのは、好意を利用しきっているみたいで自己嫌悪になる、と瞳子は辛そうに告白した。
「でも、飛豪さんが好きなのも事実だし、もう一度踊りたいって思ったのも事実だし。……あなたとの時間があったから、そう思うようになったっていうか……」
最後に、「わたしのことお金目当てのズルい奴だって、気持ちが醒めたなら遠慮なく言ってください。わたし、さっきの一回でお終いになってもいいや、ぐらいのつもりだったんです」と、晴れやかに、だが寂しげに微笑んだ。
もう一つ、彼女は飛豪に黙っていたことがあった。
「叔母さん、あの子にバレエ関係のバイトつなごうとしただろ?」
「あなたがいつそれで苦情言ってくるかと待ってたけど、ようやくね」と、悪だくみが上手くはこんだかのように、うふふふふと嬉しげに美芳は応じた。
九月の末、飛豪が再びオフィスに戻った機を見て、美芳は瞳子に電話をかけた。スミレ経由で彼女がアルバイトを探していると聞いてはいたのだが、うってつけのポジションが空いていると、偶然耳に入ってきたのだ。
美芳は仕事柄、大使館で働く海外からの外交官や、日本オフィスに派遣された外資系企業幹部たちとも接点を持っている。
日本で働く女性外交官や経営者、駐在妻たちのためのラグジュアリーなサービスやプログラムを請け負っている会社が、バレエ・エクササイズという講座を不定期で開講していて、そこでアシスタントをできるバレエ経験者を探している――そんな求人が口コミで出ていたのだ。
「メイン講師がフランス人だから英語かフランス語の能力が必須で、土曜午前のキッズクラスもできるなら、なお歓迎だそうよ。日本のバレエコミュニティの人間はいないだろうから、あなたの過去を掘りかえされるような心配はなさそう」
美芳はまくしたてるように瞳子に条件を伝えた。「ね、どう? すごく良い仕事よね」と同意を促されても、突然の話に呆然とした彼女は、ただ電話口で沈黙を返すばかりだった。
瞳子としては、スミレに伝えた話が知らない間に美芳に流れていたことにまず動揺していたし、美芳とは、この前の広尾でのやり取りから貸し借りのない関係でありたかった。しかし、即座に断るにはあまりにも魅力的なアルバイトでもあった。
サーシャと八月に話したことも、ずっと心に引っかかっていた。
「もう一度踊ってみたら?」と、彼は言った。バレエ団でプリンシパルになるほどの彼がそう言ってくれるのなら、もう一度自分に、少しでも期待をかけていいのかもしれない。
しかしサーシャの言葉を信じてしまうことは、飛豪を裏切ることを意味してしまうのかもしれない。少なくとも、嫌な思いをさせてしまう。
踊ることへの渇望、依存したままの経済状態、やっとスタートした飛豪との関係、就職活動との両立、来年から彼と離ればなれになってしまう不安――すべてが絡まりあっていて、一人で抱えていられなくなった、と瞳子は彼に伝えた。
一番欲しいものを掴んだあとに、他をどうするか一緒に考えたい、と。美芳からのオファーが来ていたことも、この時に伝えられた。
「俺、君にとって踊ることより上なの? その順位づけで瞳子は本当にいいの?」
秋のはじまりの夜は肌寒い。飛豪はシャワーより先に温かいコーヒーを準備して、カップを彼女に渡した。
「正確には同じくらいだと思うんだけど、でも、今のわたしは、飛豪さんが近くにいないと安心できないし、自由でもいられない。あなたの傍が一番落ちつくの」
「君はこの世の果ての砂漠で、一人きりでも踊ってそうな人間に見えるんだけどね」
「あはは。現役の時はそうだったんじゃないかな。今もそういうとこ残ってるけど、前ほど純粋じゃないよ。いろんな夾雑物が混ざってる。『わたしを見て‼』ってエゴとか、『ダメだったらどうしよう』とか、『お金どうやって稼ごう』とか、そういうのが大きくて、ゴチャゴチャしたまま無理やり一つにまとめてる感じ。だけど、ずっと呼ばれてる。飛豪さんと会ったころから」
「呼ばれてる?」
「うん。映画を観たり、音楽を聴いたり、空の色とか、木の葉の影が地面に揺らめくときとか、街ですれ違う人の表情だとか、なにか印象的なものとか、閃くようなことがあると、体を動かして、これをどうやって表現するかなって考えちゃう。もう一度、『踊ろうよ』って言われている気がする」
「英語でCallingって『天職』って意味だからなぁ」
きっと、東京駅で踊った雨の夜も、彼女は呼ばれていたのだろう。
瞳子は、現在の立ち位置を誰よりも冷静に分析したうえで、希望を伝えた。
彼との関係が続くにしろ続かないにしろ、利息つきで五〇〇万の借金は必ず返したい。そのために、就職活動でベストの企業に入社できるようにする。残りの一年半の大学生活と並行して、踊ることを再開したい。
――無茶言うなぁ。
それが飛豪の第一の感想だった。時間のやりくりとメンタル面でのハンドリングがとにかく厳しいプランだ。
学生生活と、就活と、ダンスレッスン。この三つを両立させた上で、ダンスはプロになるレベルを狙っていくと、彼女は決意にみちた顔つきをしていた。
借金を返済しなければいけないのに、これ以上お金を使うことを考えるのは、好意を利用しきっているみたいで自己嫌悪になる、と瞳子は辛そうに告白した。
「でも、飛豪さんが好きなのも事実だし、もう一度踊りたいって思ったのも事実だし。……あなたとの時間があったから、そう思うようになったっていうか……」
最後に、「わたしのことお金目当てのズルい奴だって、気持ちが醒めたなら遠慮なく言ってください。わたし、さっきの一回でお終いになってもいいや、ぐらいのつもりだったんです」と、晴れやかに、だが寂しげに微笑んだ。
もう一つ、彼女は飛豪に黙っていたことがあった。
「叔母さん、あの子にバレエ関係のバイトつなごうとしただろ?」
「あなたがいつそれで苦情言ってくるかと待ってたけど、ようやくね」と、悪だくみが上手くはこんだかのように、うふふふふと嬉しげに美芳は応じた。
九月の末、飛豪が再びオフィスに戻った機を見て、美芳は瞳子に電話をかけた。スミレ経由で彼女がアルバイトを探していると聞いてはいたのだが、うってつけのポジションが空いていると、偶然耳に入ってきたのだ。
美芳は仕事柄、大使館で働く海外からの外交官や、日本オフィスに派遣された外資系企業幹部たちとも接点を持っている。
日本で働く女性外交官や経営者、駐在妻たちのためのラグジュアリーなサービスやプログラムを請け負っている会社が、バレエ・エクササイズという講座を不定期で開講していて、そこでアシスタントをできるバレエ経験者を探している――そんな求人が口コミで出ていたのだ。
「メイン講師がフランス人だから英語かフランス語の能力が必須で、土曜午前のキッズクラスもできるなら、なお歓迎だそうよ。日本のバレエコミュニティの人間はいないだろうから、あなたの過去を掘りかえされるような心配はなさそう」
美芳はまくしたてるように瞳子に条件を伝えた。「ね、どう? すごく良い仕事よね」と同意を促されても、突然の話に呆然とした彼女は、ただ電話口で沈黙を返すばかりだった。
瞳子としては、スミレに伝えた話が知らない間に美芳に流れていたことにまず動揺していたし、美芳とは、この前の広尾でのやり取りから貸し借りのない関係でありたかった。しかし、即座に断るにはあまりにも魅力的なアルバイトでもあった。
サーシャと八月に話したことも、ずっと心に引っかかっていた。
「もう一度踊ってみたら?」と、彼は言った。バレエ団でプリンシパルになるほどの彼がそう言ってくれるのなら、もう一度自分に、少しでも期待をかけていいのかもしれない。
しかしサーシャの言葉を信じてしまうことは、飛豪を裏切ることを意味してしまうのかもしれない。少なくとも、嫌な思いをさせてしまう。
踊ることへの渇望、依存したままの経済状態、やっとスタートした飛豪との関係、就職活動との両立、来年から彼と離ればなれになってしまう不安――すべてが絡まりあっていて、一人で抱えていられなくなった、と瞳子は彼に伝えた。
一番欲しいものを掴んだあとに、他をどうするか一緒に考えたい、と。美芳からのオファーが来ていたことも、この時に伝えられた。
「俺、君にとって踊ることより上なの? その順位づけで瞳子は本当にいいの?」
秋のはじまりの夜は肌寒い。飛豪はシャワーより先に温かいコーヒーを準備して、カップを彼女に渡した。
「正確には同じくらいだと思うんだけど、でも、今のわたしは、飛豪さんが近くにいないと安心できないし、自由でもいられない。あなたの傍が一番落ちつくの」
「君はこの世の果ての砂漠で、一人きりでも踊ってそうな人間に見えるんだけどね」
「あはは。現役の時はそうだったんじゃないかな。今もそういうとこ残ってるけど、前ほど純粋じゃないよ。いろんな夾雑物が混ざってる。『わたしを見て‼』ってエゴとか、『ダメだったらどうしよう』とか、『お金どうやって稼ごう』とか、そういうのが大きくて、ゴチャゴチャしたまま無理やり一つにまとめてる感じ。だけど、ずっと呼ばれてる。飛豪さんと会ったころから」
「呼ばれてる?」
「うん。映画を観たり、音楽を聴いたり、空の色とか、木の葉の影が地面に揺らめくときとか、街ですれ違う人の表情だとか、なにか印象的なものとか、閃くようなことがあると、体を動かして、これをどうやって表現するかなって考えちゃう。もう一度、『踊ろうよ』って言われている気がする」
「英語でCallingって『天職』って意味だからなぁ」
きっと、東京駅で踊った雨の夜も、彼女は呼ばれていたのだろう。
瞳子は、現在の立ち位置を誰よりも冷静に分析したうえで、希望を伝えた。
彼との関係が続くにしろ続かないにしろ、利息つきで五〇〇万の借金は必ず返したい。そのために、就職活動でベストの企業に入社できるようにする。残りの一年半の大学生活と並行して、踊ることを再開したい。
――無茶言うなぁ。
それが飛豪の第一の感想だった。時間のやりくりとメンタル面でのハンドリングがとにかく厳しいプランだ。
学生生活と、就活と、ダンスレッスン。この三つを両立させた上で、ダンスはプロになるレベルを狙っていくと、彼女は決意にみちた顔つきをしていた。
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