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《第9章》 オデュッセウスの帰還
おうちに帰ろう
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病室で、飛豪はベッド脇の丸椅子を引きながら訊いた。
「どこから話せばいいんだろう。……いや、君はどこまで聞いてる?」
「一〇年前にアメリカで、恋人といたときに事故に巻きこまれたとこ」
「それだけ?」
「うん」
「なら、話は長くなるな。神楽坂戻ってからでいい? ……『一緒に帰る』で本当にOK?」
彼女を傷つけてばかりな自分に心底嫌気がさしていたので、確認せずにはいられなかった。自分はきっと今、人生で一番情けない顔をしているに違いない。
「もちろんだよ! 二日間いろいろ考えてたけど、『神楽坂に帰る』っていうのは変わらなかった。だって……どこまで正しいか分からないけど、飛豪さん、多分、ずっとわたしのこと、庇ってもくれてたよね……?」
瞳子は病院の入院着姿で横たわったまま、こちらの表情を窺うようにして問いかけてくる。見ているだけで痛々しい。
「さぁ、どうだろ? 俺は自分がやりたいようにしかやってない」
彼女の髪を雑にかき回して撫ぜたあと、最後にひと房すくって唇をつけた。
「とりあえず、医者にもうちょい怒られてくる。瞳子はその間に、支度してな。家に帰ろう」
家に帰ろう。最後の一言に、彼女は安心したかのように表情をやわらげた。そんな様子に、飛豪もまたようやく緊張がほどけてきた。
* * *
神楽坂の家に戻ってきた時、たった二日しか経っていないのに二か月も留守にしていたように懐かしく感じた。
カーテンごしの暮れかかった群青色の光や、キッチン奥にきちんと整列した調味料のミニボトルの数々、リビングのローテーブルの上に乱雑に積まれた『ナショナル・ジオグラフィック』の雑誌や瞳子のマニキュア、空気に溶けこんだ彼の香水の気配――あらゆるものが親しげに彼女を迎えてくれた。
もうこの場所は、彼女の居場所でもあった。
「ただいま」と、誰もいない空間に挨拶すると、「おかえり」と背後から飛豪がこたえた。
九月中旬とて、晴天の日は残暑がきびしい。エアコンをつけたのに、ダイニングテーブルにかけた瞳子のために彼が用意してくれたのは、蜂蜜をたっぷりいれたミルクティーだった。
「蜂蜜って傷口にきくんだ」
「それって直接塗った場合じゃないの?」
「まぁね」
彼が痛みをこらえるような表情をしていた。普段コーヒーも紅茶もストレートで飲む飛豪が、瞳子と一緒に蜂蜜ミルクティーを啜っているのは、これから話される過去の傷口のためだ。
「俺、その時、アメリカの大学で学生をしてたんだ」
マグカップに視線を落として、彼はぽつりと口を開いた。
「学部がちょうど終わったばかりの夏で、秋から進学する大学院は決まってて。前年の秋に親父が他界してたから、恒例の日本帰省がなかったんだよ。それで、当時付きあってた恋人――スウェーデンからの留学生のアネットという女の子――と、ルート六六をドライブして、大陸を横断しようとしてたんだ」
「お互い、いつまでアメリカにいるか分からないから、記念に」と、遠い目をして彼は付け加える。
ルート六六。瞳子にとっては、初めて聞く言葉だった。
アメリカ史のなかでも、非常に重要で有名な国道だ、と彼は説明した。東のシカゴから西のサンタモニカまでを結んでいて、音楽や映画でもよくモチーフにされているそうだ。恋人のアネットは経済学を専攻していたが、そういったカルチャー史にも好奇心旺盛だったらしい。
一週間もあれば十分な道のりだったが、二週間ほどかけて、脇道にそれたり、観光をしたりする気ままでノスタルジックな学生旅行。十年前の彼は、いまの自分と同じ年だ。それは楽しかっただろう。
しかし、後に続く話がどんなものかを想像して、瞳子はすでに胸が痛くなっていた。
「どこから話せばいいんだろう。……いや、君はどこまで聞いてる?」
「一〇年前にアメリカで、恋人といたときに事故に巻きこまれたとこ」
「それだけ?」
「うん」
「なら、話は長くなるな。神楽坂戻ってからでいい? ……『一緒に帰る』で本当にOK?」
彼女を傷つけてばかりな自分に心底嫌気がさしていたので、確認せずにはいられなかった。自分はきっと今、人生で一番情けない顔をしているに違いない。
「もちろんだよ! 二日間いろいろ考えてたけど、『神楽坂に帰る』っていうのは変わらなかった。だって……どこまで正しいか分からないけど、飛豪さん、多分、ずっとわたしのこと、庇ってもくれてたよね……?」
瞳子は病院の入院着姿で横たわったまま、こちらの表情を窺うようにして問いかけてくる。見ているだけで痛々しい。
「さぁ、どうだろ? 俺は自分がやりたいようにしかやってない」
彼女の髪を雑にかき回して撫ぜたあと、最後にひと房すくって唇をつけた。
「とりあえず、医者にもうちょい怒られてくる。瞳子はその間に、支度してな。家に帰ろう」
家に帰ろう。最後の一言に、彼女は安心したかのように表情をやわらげた。そんな様子に、飛豪もまたようやく緊張がほどけてきた。
* * *
神楽坂の家に戻ってきた時、たった二日しか経っていないのに二か月も留守にしていたように懐かしく感じた。
カーテンごしの暮れかかった群青色の光や、キッチン奥にきちんと整列した調味料のミニボトルの数々、リビングのローテーブルの上に乱雑に積まれた『ナショナル・ジオグラフィック』の雑誌や瞳子のマニキュア、空気に溶けこんだ彼の香水の気配――あらゆるものが親しげに彼女を迎えてくれた。
もうこの場所は、彼女の居場所でもあった。
「ただいま」と、誰もいない空間に挨拶すると、「おかえり」と背後から飛豪がこたえた。
九月中旬とて、晴天の日は残暑がきびしい。エアコンをつけたのに、ダイニングテーブルにかけた瞳子のために彼が用意してくれたのは、蜂蜜をたっぷりいれたミルクティーだった。
「蜂蜜って傷口にきくんだ」
「それって直接塗った場合じゃないの?」
「まぁね」
彼が痛みをこらえるような表情をしていた。普段コーヒーも紅茶もストレートで飲む飛豪が、瞳子と一緒に蜂蜜ミルクティーを啜っているのは、これから話される過去の傷口のためだ。
「俺、その時、アメリカの大学で学生をしてたんだ」
マグカップに視線を落として、彼はぽつりと口を開いた。
「学部がちょうど終わったばかりの夏で、秋から進学する大学院は決まってて。前年の秋に親父が他界してたから、恒例の日本帰省がなかったんだよ。それで、当時付きあってた恋人――スウェーデンからの留学生のアネットという女の子――と、ルート六六をドライブして、大陸を横断しようとしてたんだ」
「お互い、いつまでアメリカにいるか分からないから、記念に」と、遠い目をして彼は付け加える。
ルート六六。瞳子にとっては、初めて聞く言葉だった。
アメリカ史のなかでも、非常に重要で有名な国道だ、と彼は説明した。東のシカゴから西のサンタモニカまでを結んでいて、音楽や映画でもよくモチーフにされているそうだ。恋人のアネットは経済学を専攻していたが、そういったカルチャー史にも好奇心旺盛だったらしい。
一週間もあれば十分な道のりだったが、二週間ほどかけて、脇道にそれたり、観光をしたりする気ままでノスタルジックな学生旅行。十年前の彼は、いまの自分と同じ年だ。それは楽しかっただろう。
しかし、後に続く話がどんなものかを想像して、瞳子はすでに胸が痛くなっていた。
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