青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第8章》 叛逆のデスデモーナ

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 彼は深く息を吸いこんで暴力的な衝動を押さえつけ、冷静な声をだすよう努めて意識した。

「君はいま、俺のセフレだろ? 他の男の手垢がついた服なんて、着ててほしくないんだ」

 彼女は小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「本当にそうですか? 最近セックスさえしてないじゃない。飛豪さんが逃げまわってるから」

 嘲笑するような口調に、理性のメーターが一気に振り切れた。

 ――コイツはまだ子供ガキだ。美芳メイファンさんの時と同じ。売り言葉に買い言葉で挑発してきてるだけだ。お前がコントロールしろ。

 これだけの口論になっても、飛豪の表の人格はすべてを理解したうえでなだめかかってくる。だが、既にへと救いようもなく場所を明け渡していた。

 パーセンテージに換算すると、一パーセント対九九パーセント。表の人格に勝ち目はなかった。

「お前、天才だわ。……人をムカつかせる才能ありすぎ」

「わたし、それ、バレエやってた時も言われました」

「でももう、踊れないじゃん。可哀そうにな」

 彼女の肩が屈辱に細かく震えた。

「……踊りますよ、見くびらないでください。わたしはまだ、踊れる」

「あの男をたらしこんで?」

 毅然とした表情をけがしたいだけの彼がいじわるに言う。

 次の瞬間、瞳子が予備動作なしに腕を振りあげた。ありったけの力をこめて握りこんだ拳が、ビュンっと顔めがけて飛んできた。

 ぎょっとして、辛うじて上体だけでかわす。二〇センチの身長差がなければマトモに食らっていたに違いない、フライ級並みのどえらいスピードだった。

「あっぶね……」

 息をついたのも束の間、姿勢をくずした彼女が胸に倒れこんできた。

 彼女は靱帯でバレエをやめたと言っていた。心配のあまり、一瞬だけ理性を取りもどした飛豪が受けとめて「足、大丈夫か?」と気遣うと、瞳子はその手を振り払った。乱暴にこちらの体を押しのけながら、叫ぶ。

「今さら恋人ヅラしないで! 飛豪さん勝手だよ‼ 帰国してからずっと辛そうなのは、わたしだって気づいてた。でも全然、話してもくれないし近寄らせてもくれないじゃん。そんなのわたし、セフレでも彼女でもない。なのにこんな時だけ、彼氏みたいに優しくしないでよ! バーカっ‼」

「彼女みたいに扱ってほしかったら、瞳子もあいつに体触らせてんじゃねぇよ。二週間ぶりに帰国して、あんなの見た時の俺の気持ち分かるか? がっかりどころか絶望だよ」

 堪えかねた彼女の口から溢れでた本音に、飛豪も言いかえす。互いにブレーキがきかず、激しい口論が始まった。

「だったら最初からハッキリ言えばいいじゃないッ! そっちが大人ぶって誤魔化してくるから、わたしも飛豪さんに合わせて、何も言えなくなる。すごく我慢してたんだよ、この二週間」

「あのな、言っとくけどな、こっちだってずっと我慢してるんだよ。いま始まったら、一ミリもお前のこと考えずにブッ壊してしまう自信あるから遠ざかってたんだよ。君の首の骨へし折ってしまわないように、今ちょうど、一晩か二晩よそで泊まって発散してこようか考えてたぐらいだ」

「お気遣いいたみいります! でもそんなのわたし、頼んでない。大体、マジで意味不明なんだけど? 『わたしのこと殺さないように、よそで発散してくる』って、それ、別の女の人のこと⁉ 最低」

 瞳子はひどく傷ついた表情を浮かべた。

 飛豪としては、そこまで予想していなかった。彼女と口論するためだけに選んだ言葉だったのだ。ただ、続く彼女の言葉は、より一層深く彼の心をえぐった。

「もうヤダ。この家出てく。……全部やめる。一緒にいても辛い。わたし、全然意味ないじゃん」

 半泣きの顔でエプロンの紐をほどきはじめた彼女の横顔は、本気そのものだった。

 エプロンを床に放り投げ、リビングのローテーブルに置いてあった携帯と財布を掴んだところで、飛豪は彼女の腕をつかんだ。細い手首に力をくわえ、ぎりぎりと締めあげていく。

「そんなの許さない」

 瞳子は潤んだ黒目がちの瞳で、彼を見つめる。そして氷点下の声で言った。

「放してください。それか、教えてください。どこまでやったら、飛豪さんはわたしのこと信じてくれるの? わたしはあなたを絶対に裏切らない」

「嘘言うなよ、今だって出ていこうとしたくせに」

「嘘じゃない」

 強い視線が交わった瞬間、青白い電流がはぜる。一歩もひかず、二人は睨みあった。

 瞳子、という名のとおり黒目がちな彼女の瞳は大きく印象的だ。

 吸いこまれるように深い色をしていて、深淵へと続いていそうだ。にもかかわらず、同時に、ギロチン台の下で咲く吸血花のように禍々しい色をも帯びていた。妖しく色気が滴っているその表情は魔性そのもので、戦慄するほど彼女は美しかった。

「なら、試させてもらおうか」

 魔性の花を握りつぶすように強く、飛豪は彼女を抱きしめた。息が詰まって死んでしまえばいいと思うほど、激しく。

 長い夜が、はじまろうとしていた。
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