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《第8章》 叛逆のデスデモーナ

終末へのカウントダウン

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 丸ビルを出て、まっすぐに最寄りのタクシー乗り場に向かう。

 目まぐるしい状況であっても、瞳子はなんとか彼に付いてきていた。「お帰りなさい。あと、ごめんなさい。帰国するなりこんなことになって」と謝罪し、隣で興味津々で目を輝かせている高瀬には、控えめに会釈をしてみせた。

「後で話そう。家で待っててくれないか」

 彼女を車のなかに押しこんで運転手に万札を握らせ、「神楽坂までお願いします」と言う。タクシーが発車すると、ようやく人心地ついた。

 背後でピュウッと高い口笛が鳴る。高瀬だ。もうオフィスに戻るだけなので、二人で有楽町方面へと歩きはじめた。

「フェイ、珍しいことしたね? キャラじゃないじゃん。大体あのイケメン俳優みたいなの、誰だよ?」

「バレリーナ時代の、あいつの元カレ」

 事情を話したくはなかったが、付きあわせてしまったのであらましを説明すると、高瀬はハハハッと乾いた笑い声をあげた。

「災難だね。あのイケメン、俳優じゃなくてダンサーだったんだ、道理で。青柳ちゃんと並んでて、すごくしっくり見えた」

「それ、どっちに対して『災難』って言ったんだよ。どう見ても可哀そうなの俺だろ」

 苦労つづきの出張帰りにあんなもの見せつけられて、と飛豪がボヤくと、高瀬は「どっちもいい勝負だよ」と答えた。

「だってあの二人、お別れの一番いい時フェイ君に邪魔されてんじゃん。マンUの職人ディフェンダーみたいな切れのある動きして割って入ってたし」

「その喩えエグイな」

「しかも、不貞現場おさえたオセローそのもののセリフ、スペイン語で言ってただろ。今夜ベッドでデスデモーナに泣きつかれるんじゃない? 『ムーア様、命だけは助けて』って。……それともあっちか、あの男の子がロミオなら、物語上フェイ君はパリスだよねー。どうすんの? ジュリエットとられちゃうよ?」

『オセロー』と『ロミオとジュリエット』、シェイクスピアの有名どころを参照レファレンスしながら高瀬が野次ってくる。知識も教養もある人間は、こういうところが鬱陶しい。

「お前さ、そろそろ気遣いって能力スキル、身につけてくれない?」

「でも、ここで僕が慰めてきたら、それはそれで不満だろ」

 飛豪はグッと詰まった。

 親身になって慰める、なんて機能が高瀬についているのかさえ疑わしいが、それが発動されるのはぞっとしない事態である。

 午後の数時間、新富町のオフィスでフライトのあいだに溜めていたメール返信と、翌日以降の最低限の段取りをつけると、彼はオフィスを出た。彼女からは、自宅に到着したタイミングで「夕飯つくって待ってるから」とだけメッセージが届いていた。

 今日の一幕は悪い偶然によるものだ。

 タクシーから飛豪を見上げた瞳子の表情に動揺や罪悪感はありありと表れていた。嘘の気配はなかった。

 なのに、くさびが打ちこまれたかと思うほど間断なく心臓が痛み、流血していた。あるいは、炎天下の砂漠で両手両足を拘束され、死を待つ拷問を受けているような気分とでも言おうか。

 サーシャと瞳子が抱きあう場面を目にしてしまったあの瞬間、自分の最奥で開かれるべきではない扉が開けはなされ、終末へのカウントダウンが無理やりに始まってしまった気がした。カチコチカチコチと、不気味な秒針の音が耳の奥で鳴り響いている。

 最後の瞬間になにが起こるのか、その時が何日後なのか、数分後なのかさえ、飛豪はまだ知らない。

 いずれにしろ最悪の気分で、二週間ぶりの自宅に辿りついた。
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