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《第4章》 雨と風と東京駅

やさしいお粥

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 翌日の午後になって、瞳子はようやくベッドから起きだす気になった。連休最終日だった。

 明日からまた大学だ。

 とにかく彼と話をして、状況を動かさないと日常に戻れない。それに、三日前の拉致未遂も結局どのように処理されたのか、詳細はまだ聞いていなかった。

 あの日は警察に行って事情聴取をうけて、その後、病院の夜間外来に連れていかれて医師に診察をされた。

 思っていたより早く病院から出てこれたのは、見た目に反して傷が少なかったからだ。

 瞳子の顔についていた血液も、ライトバンの座席に散っていた血痕も、すべて山根のものだった。それは、彼女が彼に刃物をふるったからだった。

 あの夜、瞳子は飛豪と口論をして、むしゃくしゃしたまま自転車でバイト先に向かっていた。

 背後から音もなく現れた車が一台。妙に距離が近くて、危ない――と思ったときには後ろから追突されていた。

 自転車ごと倒れたところを、山根が出てきて、腹部と顔を一発ずつ殴られた。痛みに動けなくなったところを無理やり後部座席に乗せられて……手錠をはめられた。ついで、口に粘着テープも貼られた。

 だから、やり返そうと思ったのだ。どうせ連れていかれるのなら抵抗してやろう、と。

 奪いとられる分の数パーセントだけでもやり返してやろうと。

 肩にかけていたナイロンバッグにさりげなく両手を突っこんだ。

 いつでも取りだせるようにしていた、先端が細くとがった眉用のハサミを右手に握りこむ。そしてチャンスが訪れるのを待った。

 しばらくすると、住宅街の真ん中で車が突然停車した。

 運転手が悪態をつきながら出ていく。山根の注意も外へとそれた。そのタイミングを狙って彼女はハサミを振りかざし、体当たりするようにぶつかっていった。

 右手に握った刃物を、山根に向かって振りかざした。彼は、予期していなかった攻撃に口をマヌケに開いたまま腕で防御した。

 反省材料は、どこをどう狙うか決めていなかったことだ。

 ハサミの刃先が彼の手のひらに浅くつき刺さっただけで、すべり落ちていった。激昂した男に、瞳子は平手打ちを何度も浴びせられた。

 ――殺してやる、と覚悟決めてから刺せばよかったのかな。でも……やっぱり、飛豪さんが来てくれて良かった。あんな奴、殺す価値もない。

 あの日、吉祥寺の図書館で、課題が終わった瞳子は刑法の本をさがした。

 調べた項目は、刑法三六条の正当防衛だった。

 薄々、あまり時間をおかずに彼らが現れそうなことは分かっていたので、どうやったら報復できるかを毎日考えていたのだ。最悪、刺し違えてもいいとさえ思っていた。

 事件後、市の中央警察署に連れていかれたときには、瞳子が山根を傷つけたことを誰もが知っていた。

 駆けつけた警官たちも飛豪でさえも、最初、ぎょっとしたように彼女を見つめた。ただ、藤原という眼光の鋭い初老の男性だけが口元をほころばせ、面白がるようにニヤついていた。

 警察署には、飛豪の同僚だという高瀬という男が急遽呼びだされた。

 彼と年のころが近そうで、潔癖そうな雰囲気のその人は、弁護士だという。

 涙をぬぐい、言葉を詰まらせながら状況を説明する瞳子に、的確な質問を時折はさんで状況を明らかにしていった。別室で、山根の聴取も行われていたらしい。彼女はしばらく付き添いの婦警と待たされた。

 一度退室したあと、部屋に戻ってきた高瀬は、今回のケースは急迫不正の侵害で、過剰防衛とまでは判定されないから、正当防衛として成立するだろう、と告げた。そもそも山根たちが、略取および誘拐罪に問われる状況である。

 高瀬は同時に、飛豪が山根を殴りつけていた暴行の火消しにも回ってくれていたらしい。

 真夜中をまわった頃ようやく警察署から解放されたとき、彼は「詳細はまた連絡する」と飛豪につげていたのを瞳子は聞き逃さなかった。

 自分の人生が、他人の手に委ねられている不安感。

 山根だろうが、飛豪だろうが、嫌なものは変わらない。だから、彼とは腹をわって話さなければいけなかった。気分を引き締めて、瞳子は寝室の扉をひらいた。

 それなのに――。

「起きた?」

 リビングのダイニングテーブルに掛けていた彼は、手にしていた本を伏せて置いた。判型の大きな、アルファベットの本だった。英語ではないのが注意をひいた。

「すみません。結局昼すぎまで寝てしまって」

「それは別に。腹へってない? 一応、食事は作ってみたんだけど」

「ご飯……?」

「うん。お粥」

 マトモな食事をとったのは、あの日に彼と食べたコンビニのロールケーキが最後だった。

 安心すると同時に空腹がおとずれてきた。胃腸が催促するようにギュルギュルと動きはじめる。

「食べたい……です」不本意ながらもお願いするしかなかった。

「OK。温めるから待ってな」

 彼女は椅子に浅くかけて、キッチンへ向かう彼の後ろ姿を目で追う。

 Tシャツにハーフパンツ。今日は眼鏡で、いつも整髪料で後ろに流している前髪を今日は下ろしている。完全に、オフのリラックスモードだった。

 数分もしないうちに、食欲を刺激する香ばしい匂いが漂ってきた。

 木製のお椀にスプーンが添えられて、「どうぞ」と置かれる。おそるおそる口をつけると、まず、ふわりとゴマ油と生姜の香りが鼻先をくすぐった。

 ――やだ、すごく美味しそう。

 お米の粘つきが少なく、さらりと流しこめる卵粥だった。優しくて体に染みわたっていく滋味深い味。そして、瞳子の知っているお粥とは少し違う。大陸の味がした。

「これ……飛豪さんが作ったんですか?」

「ほかに誰が作んの? うち、ハウスキーパー入れてないよ」

 彼はおかしそうにクックッと笑いながら答えた。

「だって……美味しい」

「どういたしまして。で、体調は? 顔色見てるかぎり、もう良さそうかなって感じだけど」

「うん。ばっちり回復しました。だから話終わったら、帰りますね。お世話になりました」

 彼女は区切りをつけるようにあらたまったお辞儀をした。

 しかし、彼は即座に「それはダメ」と却下する。和らいだ表情のままだったが、NOは言わせない厳しい口調をしていた。

「だって……。わたし、明日から大学が」

「ここに住んでくれないかな。君が返済できるようになるまで」

 瞳子は戸惑う。返済をはじめる時というのは就職するときなので、あと二年弱。彼女が不審げに眉をひそめたのを見てとって、飛豪は静かにつづけた。

「まずはお金の話をしようか」

 彼と自分は金銭でつながっている。話がそこから始まるのは当然だった。

「もちろんです」

 いつわりの微笑をうかべて、瞳子はそつなく同意してみせた。
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