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《第2章》 西新宿のエウリュディケ
ファミレスでの攻防2
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「新しいパパ」と言われて、瞳子は飛豪を思いだしていた。
――あの人は……。
彼は、草原で風をうけているライオンのような人だ。
堂々としていて、自信がみなぎっていて、何をせずとも、ただ立っているだけで完成されている人。発言は現実的でシビアだが、気づかいや配慮もある。
今朝、薄手の毛布ごしに背中を撫ぜてくれた大きな手のひらの感触が、急に肌によみがえってきた。彼がホテルの部屋を出ていくとき、去りぎわの顔がひどく心配げで、躊躇していた。
仕事も知らない。年齢も知れない。国籍も知らない。彼もただ、彼女の身体を踏み荒らしていく人だ。
だけど、漠然と信じていいと思っていた。綺麗ごとを一切言わなかったから。瞳子を傷つけるとき、なぜか自分も傷ついた顔をしていたから。彼が傷ついた分だけ、彼を信じてもいいような気がしていた。
そもそも飛豪は、自分の意志で選んだ人だった。後悔はない。
瞳子は、山根にむかって鮮やかに微笑んだ。
表情をつくることには慣れている。王子を誘惑する黒鳥となって、蠱惑的で高慢な人格に切りかえる。
目の前の男が、一瞬にして呆けたように自分に見とれたのが分かった。そこまで感じとってから、彼女は蔑みの視線に切りかえた。愚弄するように、小馬鹿にするように。
「山根さん、あの五〇〇万は、道に落ちていたのを拾ったんです。あなたには関係ない」
それだけ言って、瞳子はまだ半分以上残っていたアイスコーヒーのグラスを手にした。敵の頭上で、手首を反転させる。
コーヒーと氷が真っ逆さまに彼に降りそそいだ。他のテーブルの客や、廊下でオーダーをとっていた店員からの視線が、自分たち二人に一斉に注がれる。
「母の新しい借金については、きちんと証拠でも出されないかぎり支払いませんから。失礼します」
彼の手を振りはらって背を向ける。その背中に、立ち上がった山根の手がかかった。
コーヒーでずぶ濡れのまま、ぽたぽたと茶色い雫をしたたらせた男が耳元に顔を寄せてくる。
「瞳子ちゃん。君はもっと大人に媚びたほうが、世の中生きやすいんじゃないかな。俺は君のこと可愛いなって思ってるし、本当は優しくしてあげたい。だけど、そんな生意気な態度とられたんじゃあさ」
「あんたの言葉は、もう聞きたくない」彼女は撥ねつけるように言った。
「じゃあ、これからは道を歩くとき注意したほうがいいだろうね。昼でも夜でも。あのアパートも、危ないかもしれない」
鳥肌がたつようなおぞましい声で囁き、ようやく山根は身をはなした。
瞳子はまっすぐに前を見つめたまま、出口に向かった。ファミレスを出てしばらく歩いたところにある公園に辿りついたところで、ようやく足をとめた。口元を押さえて、ベンチによろよろと倒れこむようにして腰かける。
体が急速に冷えていく気がして、腕を体にまわして抱きしめた。
――気持ち悪い。こわい……助けて。だれか助けて。
山根の言葉は、明らかに脅迫だった。大学や、バイトの行き帰りでひき逃げにあったり、深夜、自宅に押し入られる可能性もある、と示唆していた。
――引っ越ししたい。でも、お金がない。……警察、まずは警察。
しかし警察とて二四時間守ってくれるはずがない。
重点的に気をつけてくれるとは言ってくれても、必ず、自宅で瞳子一人の時間は出てくる。あの薄っぺらい扉にくわえて、隣は墓地だ。二階だとはいえ、夜間は容易に侵入できるだろう。
気温は二〇度をこえている晴れた日だというのに、いつまでも悪寒が止まらなかった。
――あの人は……。
彼は、草原で風をうけているライオンのような人だ。
堂々としていて、自信がみなぎっていて、何をせずとも、ただ立っているだけで完成されている人。発言は現実的でシビアだが、気づかいや配慮もある。
今朝、薄手の毛布ごしに背中を撫ぜてくれた大きな手のひらの感触が、急に肌によみがえってきた。彼がホテルの部屋を出ていくとき、去りぎわの顔がひどく心配げで、躊躇していた。
仕事も知らない。年齢も知れない。国籍も知らない。彼もただ、彼女の身体を踏み荒らしていく人だ。
だけど、漠然と信じていいと思っていた。綺麗ごとを一切言わなかったから。瞳子を傷つけるとき、なぜか自分も傷ついた顔をしていたから。彼が傷ついた分だけ、彼を信じてもいいような気がしていた。
そもそも飛豪は、自分の意志で選んだ人だった。後悔はない。
瞳子は、山根にむかって鮮やかに微笑んだ。
表情をつくることには慣れている。王子を誘惑する黒鳥となって、蠱惑的で高慢な人格に切りかえる。
目の前の男が、一瞬にして呆けたように自分に見とれたのが分かった。そこまで感じとってから、彼女は蔑みの視線に切りかえた。愚弄するように、小馬鹿にするように。
「山根さん、あの五〇〇万は、道に落ちていたのを拾ったんです。あなたには関係ない」
それだけ言って、瞳子はまだ半分以上残っていたアイスコーヒーのグラスを手にした。敵の頭上で、手首を反転させる。
コーヒーと氷が真っ逆さまに彼に降りそそいだ。他のテーブルの客や、廊下でオーダーをとっていた店員からの視線が、自分たち二人に一斉に注がれる。
「母の新しい借金については、きちんと証拠でも出されないかぎり支払いませんから。失礼します」
彼の手を振りはらって背を向ける。その背中に、立ち上がった山根の手がかかった。
コーヒーでずぶ濡れのまま、ぽたぽたと茶色い雫をしたたらせた男が耳元に顔を寄せてくる。
「瞳子ちゃん。君はもっと大人に媚びたほうが、世の中生きやすいんじゃないかな。俺は君のこと可愛いなって思ってるし、本当は優しくしてあげたい。だけど、そんな生意気な態度とられたんじゃあさ」
「あんたの言葉は、もう聞きたくない」彼女は撥ねつけるように言った。
「じゃあ、これからは道を歩くとき注意したほうがいいだろうね。昼でも夜でも。あのアパートも、危ないかもしれない」
鳥肌がたつようなおぞましい声で囁き、ようやく山根は身をはなした。
瞳子はまっすぐに前を見つめたまま、出口に向かった。ファミレスを出てしばらく歩いたところにある公園に辿りついたところで、ようやく足をとめた。口元を押さえて、ベンチによろよろと倒れこむようにして腰かける。
体が急速に冷えていく気がして、腕を体にまわして抱きしめた。
――気持ち悪い。こわい……助けて。だれか助けて。
山根の言葉は、明らかに脅迫だった。大学や、バイトの行き帰りでひき逃げにあったり、深夜、自宅に押し入られる可能性もある、と示唆していた。
――引っ越ししたい。でも、お金がない。……警察、まずは警察。
しかし警察とて二四時間守ってくれるはずがない。
重点的に気をつけてくれるとは言ってくれても、必ず、自宅で瞳子一人の時間は出てくる。あの薄っぺらい扉にくわえて、隣は墓地だ。二階だとはいえ、夜間は容易に侵入できるだろう。
気温は二〇度をこえている晴れた日だというのに、いつまでも悪寒が止まらなかった。
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