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《第2章》 西新宿のエウリュディケ
剣をとる者は、剣で滅びる。
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ベッドの上に膝をかかえて座った瞳子は、遠い目をして額をおさえた。
――あれからずっと一人ぼっちだな。
母親の死に顔は、もうよく思いだせない。警察の鑑識の人が写真をとっていたので、お願いすれば見せてもらえるだろうが、別に思いだしたい類のものではない。
今、瞳子が他人より二年遅れで大学にかよい、アルバイトをして、細々と借金を返しながら一人で生活ができているのは、結果的に、あの日母親に死に別れたからだった。
母親は、バレエをする瞳子しか必要としていなかった。踊れない娘は要らないということだ。だから一人死んでいった。瞳子にも、「踊れないなら意味がない」と言った。
故人に対して負の感情をもってはいけない。分かっている。だけど、踊れない自分も生きているのだ。二度とバレエを踊れなくても、瞳子は瞳子なのだ。彼女は母親と決別する覚悟をきめた。
英語の成績だけは自信があった。
海外のワークショップに行く機会もあったし、母親が「将来のために」と英語とフランス語のクラスを受けさせてくれたからだ。語学力に特化している私立大学のAO入試で、バレエをやっていた頃の実績を出して、なんとか奨学金つきで滑りこんだ。
――大学を卒業して、もう一度世界で働きたい。
それが今の彼女の目標だった。空港で飛行機に搭乗するときの、あの胸の高鳴り。機体が滑走路を一気に走りだすときの高揚感は、ステージに飛びだす直前の緊張感と似ている。
あの感覚を、もう一度自分の手で取り戻したかった。もう踊れない自分だけれど、踊っていた時の自分に一ミリでも一センチでも近づきたかった。
だから、借金なんかで立ち止まっていられない。
お金が必要なら、身体を売ってでも稼ぐ。ただし、できるだけリスクの少ない方法で。バレリーナ桐島瞳子を知らない人であれば、なおさら好都合だった。
――わたしは、これ以上桐島瞳子を傷つけたくない。
見たところ、飛豪はバレエになんて全く関係のなさそうな人だった。国籍も、日本以外のようである。彼女が数年前にテレビCMに出ていたことなど、知りもしないだろう。
シーツや毛布のあいだに挟まった下着やキャミソールを身につけていると、サイドテーブルに置かれたぶ厚い本が目にとまった。
深緑の表紙をしていて、ページが開かれたまま伏せられている。ミネラルウォーターの飲みかけのボトルが隣に置いてあった。
――飛豪さんの? 忘れもの?
何気なしに手にとると、聖書だった。
欧米のホテルでは、どこも机のひきだしに聖書は置いてある。日本のホテルでもそうなのだろう。彼が開いていたページは、マタイ福音書だった。
――剣をとる者は、剣で滅びる。
その一行に、瞳子の目は釘づけになった。自分のことを言われている。そんな気がした。
自分が誰にたいして、何にたいして剣を構えているのか。
耳の奥に、母の葬儀で聞こえた誰かの声が、今もありありと蘇ってくる。
「桐島瞳子? もう終わった人じゃん。これからどうやって生きてくんだろーね」
耳に入らなかったふりをして、喪服を着た瞳子は参列した会葬者への挨拶で、頭を下げつづけた。たった一人で。その時初めて「あぁ、もう二度と舞台に立つことはできないんだな」と、心底から実感した。
母の葬式だったが、まるで自分の葬式のようだった。――桐島瞳子としての。
病院でも「プロとして踊るのは無理だ」と言われていたし、実際にリハビリしても、身体は思うように動かなかった。なのにどこかで、まだ、自分への期待を残していた。誰かがどうにかして助けてくれると思っていたのだ。
自分が侮蔑されるようなところまで転落したと、あの言葉でやっと現実を抱きしめられた。
――上等じゃない。行けるところまで、行きたい。この場の誰よりも、遠いところまで行きたい。
そう思ったあの時、瞳子は剣を手にとったのだと思う。ただその剣は鞘も柄もなくて、握りしめる彼女の手を傷つけ、真っ赤な血で染めている。染めつづけている。
久しぶりに母のことを思いだしたのもあって、帰りの中央線では、ひどくアンニュイな気分になっていた。澄みきった青空が目に痛い。
――そういえば、飛豪さんはあのページのどこを読んでいたんだろう。聖書……好きそうな人には見えないんだけどな。
二週間前の夜、あのラウンジにスタッフ側で入っていたということは、語学力はそれなりにある筈なのだ。海外の資産家も来ていたので、最低でも英語は使えるだろう。名前からすると日本国籍でない可能性が高い。
――どこの出身の人か、聞きそびれたな。ま、いっか。
彼がどのようなルーツを持っていようと、自分にお金を恵んでくれた人であることは事実だ。それだけでいい。
――あれからずっと一人ぼっちだな。
母親の死に顔は、もうよく思いだせない。警察の鑑識の人が写真をとっていたので、お願いすれば見せてもらえるだろうが、別に思いだしたい類のものではない。
今、瞳子が他人より二年遅れで大学にかよい、アルバイトをして、細々と借金を返しながら一人で生活ができているのは、結果的に、あの日母親に死に別れたからだった。
母親は、バレエをする瞳子しか必要としていなかった。踊れない娘は要らないということだ。だから一人死んでいった。瞳子にも、「踊れないなら意味がない」と言った。
故人に対して負の感情をもってはいけない。分かっている。だけど、踊れない自分も生きているのだ。二度とバレエを踊れなくても、瞳子は瞳子なのだ。彼女は母親と決別する覚悟をきめた。
英語の成績だけは自信があった。
海外のワークショップに行く機会もあったし、母親が「将来のために」と英語とフランス語のクラスを受けさせてくれたからだ。語学力に特化している私立大学のAO入試で、バレエをやっていた頃の実績を出して、なんとか奨学金つきで滑りこんだ。
――大学を卒業して、もう一度世界で働きたい。
それが今の彼女の目標だった。空港で飛行機に搭乗するときの、あの胸の高鳴り。機体が滑走路を一気に走りだすときの高揚感は、ステージに飛びだす直前の緊張感と似ている。
あの感覚を、もう一度自分の手で取り戻したかった。もう踊れない自分だけれど、踊っていた時の自分に一ミリでも一センチでも近づきたかった。
だから、借金なんかで立ち止まっていられない。
お金が必要なら、身体を売ってでも稼ぐ。ただし、できるだけリスクの少ない方法で。バレリーナ桐島瞳子を知らない人であれば、なおさら好都合だった。
――わたしは、これ以上桐島瞳子を傷つけたくない。
見たところ、飛豪はバレエになんて全く関係のなさそうな人だった。国籍も、日本以外のようである。彼女が数年前にテレビCMに出ていたことなど、知りもしないだろう。
シーツや毛布のあいだに挟まった下着やキャミソールを身につけていると、サイドテーブルに置かれたぶ厚い本が目にとまった。
深緑の表紙をしていて、ページが開かれたまま伏せられている。ミネラルウォーターの飲みかけのボトルが隣に置いてあった。
――飛豪さんの? 忘れもの?
何気なしに手にとると、聖書だった。
欧米のホテルでは、どこも机のひきだしに聖書は置いてある。日本のホテルでもそうなのだろう。彼が開いていたページは、マタイ福音書だった。
――剣をとる者は、剣で滅びる。
その一行に、瞳子の目は釘づけになった。自分のことを言われている。そんな気がした。
自分が誰にたいして、何にたいして剣を構えているのか。
耳の奥に、母の葬儀で聞こえた誰かの声が、今もありありと蘇ってくる。
「桐島瞳子? もう終わった人じゃん。これからどうやって生きてくんだろーね」
耳に入らなかったふりをして、喪服を着た瞳子は参列した会葬者への挨拶で、頭を下げつづけた。たった一人で。その時初めて「あぁ、もう二度と舞台に立つことはできないんだな」と、心底から実感した。
母の葬式だったが、まるで自分の葬式のようだった。――桐島瞳子としての。
病院でも「プロとして踊るのは無理だ」と言われていたし、実際にリハビリしても、身体は思うように動かなかった。なのにどこかで、まだ、自分への期待を残していた。誰かがどうにかして助けてくれると思っていたのだ。
自分が侮蔑されるようなところまで転落したと、あの言葉でやっと現実を抱きしめられた。
――上等じゃない。行けるところまで、行きたい。この場の誰よりも、遠いところまで行きたい。
そう思ったあの時、瞳子は剣を手にとったのだと思う。ただその剣は鞘も柄もなくて、握りしめる彼女の手を傷つけ、真っ赤な血で染めている。染めつづけている。
久しぶりに母のことを思いだしたのもあって、帰りの中央線では、ひどくアンニュイな気分になっていた。澄みきった青空が目に痛い。
――そういえば、飛豪さんはあのページのどこを読んでいたんだろう。聖書……好きそうな人には見えないんだけどな。
二週間前の夜、あのラウンジにスタッフ側で入っていたということは、語学力はそれなりにある筈なのだ。海外の資産家も来ていたので、最低でも英語は使えるだろう。名前からすると日本国籍でない可能性が高い。
――どこの出身の人か、聞きそびれたな。ま、いっか。
彼がどのようなルーツを持っていようと、自分にお金を恵んでくれた人であることは事実だ。それだけでいい。
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