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《第1章》 午前二時のジゼル
借金とりと彼女
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午後六時ちょうどに、チャイムは鳴った。
瞳子が住んでいるのは築四〇年オーバー、安さだけで選んだ墓地のとなりのアパートである。玄関ドアもちゃちな造りで薄く、バールで簡単に破れそうな厚みだった。
――こんな時は、時間ぴったりに来るんだ。
チェーンが掛かっていることを確かめてから、彼女はドアを細く開いた。
「こんばんは。瞳子ちゃん」
いつものどおりの猫なで声だった。
コンクリートを打ちつけただけの雨ざらしの廊下には、男が二人立っていた。猫なで声を出してきたのは、スーツを着たビジネスマン風の中年男で、山根という。彼は瞳子の担当らしく、この数か月、月に二度三度は訪れてきていた。
もう一人は初めて見る顔だった。黒ジャケットに派手な色のシャツ姿で、こちらに見せつけるかのように胸元の刺青をはみ出させている。
明らかに、脅し要員兼実働部隊のヤクザだった。今日は二人がかりで拘束する気で来たのだと、瞳子は一瞬にして察知した。氷の手で直につかまれたように、胃が痛む。そんな彼女を、刺青の男はただ無遠慮に眺めまわしていた。
彼の視線には山根のような好色や下衆さはない。こちらの首につけられた値札だけを見ているかのような、漂白された顔つきをしていた。
この手の人間には交渉も情も通用しない。躊躇せずに暴力をふるってくるということを、瞳子はすでに学んでいた。
「今日が約束の日だよ」山根が切りだした。声はソフトだが、目はまったく笑っていない。「五〇〇万円、債権書のとおり支払いしてくれないかな。でないと僕たちは、君を連れていかなきゃいけない」
「…………」
「君なら、一、二年働くだけですぐに返し終わると思うよ。その間、大学も休学にすればいい。手伝うよ」
「…………」
「瞳子ちゃんなら、人に見られることは慣れてるだろ。田舎のパン工場でラインのバイトするよりも、桁ちがいに効率いいはずだ。実を言うと、君を支援したいっていう人は、もう何人もいるんだ。僕だって協力する」
「…………」
もう誰も信じられない。彼女は拳を固く握りしめた。
見られることに慣れているから、セックス映像を撮る。支援したい人というのは、複数人で飼う協定ができている、ということだ。山根の協力とは、仲介マージンを取りつつしゃぶりつくすことだろう。
玄関チェーンの内側で、瞳子は山根を睨みつけた。しかし彼は、びくともしない。余裕げに、そして獲物を味わうのが待ちきれないように口を半開きにすると、薄赤い舌先をのぞかせた。
「お運びくださりありがとうございます」彼女の声は、震えていなかった。
「早くチェーンを開けてくれないかな。でないと、ドアを壊さなきゃいけなくなるから」
山根は後ろの男をちらと見た。似非ビジネスマンを似非に気取っている山根が下腹に贅肉がたまっているのに対して、その男は、いかにも暴力装置という隆とした体格だった。剣呑さを隠すことなく剥きだしにしている。ドアを蹴破ることなど簡単にやってのけるだろう。
瞳子は、足元に置いていた白いビニール袋をとった。ずいと差しだす。
「お約束の五〇〇万です。これを持ってお帰りください。あと、完済証明も文書でください」
「は?」
山根は、声を裏返らせた。
「いや、瞳子ちゃん……どういうことか説明してくれない? 君、どこから持ってきたの、このお金」
「言う必要ないです。あと、下の名前で呼ぶの、やめてくれませんか」
「必要ないって……。ま、いいや、桐島さん。ちゃんとお話しようよ、とりあえずドアチェーン外してさ」
「『桐島さん』もやめてください。わたしはもう、『青柳』です」
ドアチェーンに手をかけてきた山根を、瞳子は毅然として突っぱねるが、片足を踏みこませてしまった。閉めようにも閉められなくなる。
劣化した頼りないドア一枚をはさんで、押し問答の攻防戦がはじまった。
「だって、『桐島瞳子』に興味がある人、まだ結構いるよ? 僕らなら、楽を稼がせてあげられるのに。もう君のために準備してたんだけど」
「わたしはその名前、もう捨てましたから。お金払ったんだから、帰ってください!」
「そんな拒絶しなくても。君は偏見持ちすぎなんじゃないかな? なんなら、同じ仕事してる先輩に会わせてあげられ……」
「わたしは、嫌なの! やりたくないの! だからもう放っといて!」
すべてをシャットアウトするように声をはりあげる。つま先で山根の靴を蹴りつけながら、渾身の力でドアを閉めようとした。
「溝口」と、山根が背後を振りかえった。次の瞬間、太い腕が伸びてきてドアを掴まれた。そのまま、片手だけの力でチェーンごと引きちぎるようにドアを開けはなそうとする。
――いけない。これ、無理やり拉致される。
やはり彼らは最初から、瞳子が五〇〇万円を返済することなんて期待していなかった。
身柄を押さえて、セックスワークで稼ぎだすための道具にすることしか考えていなかった。一か月猶予をくれたのも、その間、彼女を庇護する人物がいるかどうか、見定めるためのものだった。
今のところは玄関ドアが守ってくれている。が、男二人に対して圧倒的に不利だ。最後の防御線となるドアも、いまいち心許ない。
チェーンの耐久性を確認しようとして視線を下に落とすと、チェーンを壁に留めていたネジが弛んで浮いていた。更にもう一本のネジは全体が茶色く錆びついていて、今にも砕けそうに脆く見えた。
――う、嘘でしょ。
じわじわとドアが押し開かれつつある。こめかみが痙攣するくらい歯を食いしばってドアを閉めようとしているのに、チェーンのネジが今にもどうにかなってしまいそうだった。
「瞳子ちゃん、大人しくドア開いてくれたら手荒なことはしない。約束するから」
完璧に悪役人さらいのセリフを言っている山根も、扉が時間の問題であることに気づいている。
「五〇〇万……払ったじゃないですか。帰って。お願いだから帰って!」
瞳子が悲鳴をほとばしらせた時、ようやく心待ちにしていた救いが訪れた。
「君たち、何をしているんだ」
山根と刺青男のさらに背後から、冷静な声が響いた。廊下の奥に、二人の制服警官が立っていた。
強盗さながら押し入ろうとしていた二人の動きは、凍りついたようにピタリと止まる。振り返らずとも、天敵となる国家権力だと悟ったようだった。
瞳子が住んでいるのは築四〇年オーバー、安さだけで選んだ墓地のとなりのアパートである。玄関ドアもちゃちな造りで薄く、バールで簡単に破れそうな厚みだった。
――こんな時は、時間ぴったりに来るんだ。
チェーンが掛かっていることを確かめてから、彼女はドアを細く開いた。
「こんばんは。瞳子ちゃん」
いつものどおりの猫なで声だった。
コンクリートを打ちつけただけの雨ざらしの廊下には、男が二人立っていた。猫なで声を出してきたのは、スーツを着たビジネスマン風の中年男で、山根という。彼は瞳子の担当らしく、この数か月、月に二度三度は訪れてきていた。
もう一人は初めて見る顔だった。黒ジャケットに派手な色のシャツ姿で、こちらに見せつけるかのように胸元の刺青をはみ出させている。
明らかに、脅し要員兼実働部隊のヤクザだった。今日は二人がかりで拘束する気で来たのだと、瞳子は一瞬にして察知した。氷の手で直につかまれたように、胃が痛む。そんな彼女を、刺青の男はただ無遠慮に眺めまわしていた。
彼の視線には山根のような好色や下衆さはない。こちらの首につけられた値札だけを見ているかのような、漂白された顔つきをしていた。
この手の人間には交渉も情も通用しない。躊躇せずに暴力をふるってくるということを、瞳子はすでに学んでいた。
「今日が約束の日だよ」山根が切りだした。声はソフトだが、目はまったく笑っていない。「五〇〇万円、債権書のとおり支払いしてくれないかな。でないと僕たちは、君を連れていかなきゃいけない」
「…………」
「君なら、一、二年働くだけですぐに返し終わると思うよ。その間、大学も休学にすればいい。手伝うよ」
「…………」
「瞳子ちゃんなら、人に見られることは慣れてるだろ。田舎のパン工場でラインのバイトするよりも、桁ちがいに効率いいはずだ。実を言うと、君を支援したいっていう人は、もう何人もいるんだ。僕だって協力する」
「…………」
もう誰も信じられない。彼女は拳を固く握りしめた。
見られることに慣れているから、セックス映像を撮る。支援したい人というのは、複数人で飼う協定ができている、ということだ。山根の協力とは、仲介マージンを取りつつしゃぶりつくすことだろう。
玄関チェーンの内側で、瞳子は山根を睨みつけた。しかし彼は、びくともしない。余裕げに、そして獲物を味わうのが待ちきれないように口を半開きにすると、薄赤い舌先をのぞかせた。
「お運びくださりありがとうございます」彼女の声は、震えていなかった。
「早くチェーンを開けてくれないかな。でないと、ドアを壊さなきゃいけなくなるから」
山根は後ろの男をちらと見た。似非ビジネスマンを似非に気取っている山根が下腹に贅肉がたまっているのに対して、その男は、いかにも暴力装置という隆とした体格だった。剣呑さを隠すことなく剥きだしにしている。ドアを蹴破ることなど簡単にやってのけるだろう。
瞳子は、足元に置いていた白いビニール袋をとった。ずいと差しだす。
「お約束の五〇〇万です。これを持ってお帰りください。あと、完済証明も文書でください」
「は?」
山根は、声を裏返らせた。
「いや、瞳子ちゃん……どういうことか説明してくれない? 君、どこから持ってきたの、このお金」
「言う必要ないです。あと、下の名前で呼ぶの、やめてくれませんか」
「必要ないって……。ま、いいや、桐島さん。ちゃんとお話しようよ、とりあえずドアチェーン外してさ」
「『桐島さん』もやめてください。わたしはもう、『青柳』です」
ドアチェーンに手をかけてきた山根を、瞳子は毅然として突っぱねるが、片足を踏みこませてしまった。閉めようにも閉められなくなる。
劣化した頼りないドア一枚をはさんで、押し問答の攻防戦がはじまった。
「だって、『桐島瞳子』に興味がある人、まだ結構いるよ? 僕らなら、楽を稼がせてあげられるのに。もう君のために準備してたんだけど」
「わたしはその名前、もう捨てましたから。お金払ったんだから、帰ってください!」
「そんな拒絶しなくても。君は偏見持ちすぎなんじゃないかな? なんなら、同じ仕事してる先輩に会わせてあげられ……」
「わたしは、嫌なの! やりたくないの! だからもう放っといて!」
すべてをシャットアウトするように声をはりあげる。つま先で山根の靴を蹴りつけながら、渾身の力でドアを閉めようとした。
「溝口」と、山根が背後を振りかえった。次の瞬間、太い腕が伸びてきてドアを掴まれた。そのまま、片手だけの力でチェーンごと引きちぎるようにドアを開けはなそうとする。
――いけない。これ、無理やり拉致される。
やはり彼らは最初から、瞳子が五〇〇万円を返済することなんて期待していなかった。
身柄を押さえて、セックスワークで稼ぎだすための道具にすることしか考えていなかった。一か月猶予をくれたのも、その間、彼女を庇護する人物がいるかどうか、見定めるためのものだった。
今のところは玄関ドアが守ってくれている。が、男二人に対して圧倒的に不利だ。最後の防御線となるドアも、いまいち心許ない。
チェーンの耐久性を確認しようとして視線を下に落とすと、チェーンを壁に留めていたネジが弛んで浮いていた。更にもう一本のネジは全体が茶色く錆びついていて、今にも砕けそうに脆く見えた。
――う、嘘でしょ。
じわじわとドアが押し開かれつつある。こめかみが痙攣するくらい歯を食いしばってドアを閉めようとしているのに、チェーンのネジが今にもどうにかなってしまいそうだった。
「瞳子ちゃん、大人しくドア開いてくれたら手荒なことはしない。約束するから」
完璧に悪役人さらいのセリフを言っている山根も、扉が時間の問題であることに気づいている。
「五〇〇万……払ったじゃないですか。帰って。お願いだから帰って!」
瞳子が悲鳴をほとばしらせた時、ようやく心待ちにしていた救いが訪れた。
「君たち、何をしているんだ」
山根と刺青男のさらに背後から、冷静な声が響いた。廊下の奥に、二人の制服警官が立っていた。
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