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イベント1 刺繍のハンカチ(1)
しおりを挟む「いよいよ明日は刺繍のハンカチのイベントだわ!」
転生してから十二日後。
王子ルートの最初の大イベント、『刺繍のハンカチ』を翌日に控え、ウキウキ気分のマーガレットは、相変わらず冷静なレオナルドと詰めの確認をしているところだ。
「そうだな、明日だな」
「このイベントはね、ヒロインが落としたハンカチを、ランバート王子が颯爽と拾ってあげるのよ」
「ああ……、それは前にも聞いた」
話をしている場所は、学生寮に隣接するティーラウンジのソファーセット。
侍女のマリアが淹れてくれたお茶を飲みながらの打ち合わせ。
このラウンジ、三日ごとに打ち合わせに使っているので、もはやマーガレット専用のリビングになっている。
王子攻略作戦本部、と墨で書かれた立派な看板を掲げたいところだ。
「ヒロインは刺繍がすっごく上手でね、ハンカチ全体に小花模様の綺麗な刺繍が刺してあるの」
「そのハンカチの刺繍を見て、ランバート王子が出来栄えを褒めてくれるんだろ? ……それで、肝心のメグの刺繍はできたのか?」
心配顔のレオナルドが、マーガレットの手元に視線を向ける。
彼が心配するのも無理はない。
なにしろ、マーガレットは刺繍の腕がからっきしダメで、最初の打ち合わせの三日後――つまり二度目の打ち合わせ――に持ってきたハンカチは、目も当てられないほど、ひどいものだったからだ。
刺繍の基本中の基本、イニシャルに挑戦したのだが、あまりに不器用で、布を刺すたびにどうしても自分の指をブスブスと刺してしまう。
真っ白なハンカチのあちこちに血が染み付いてしまい、とても貴族令嬢の持ち物とは思えない、なんともスプラッターな代物になってしまった。
それでもマーガレットは、「自分でやらなきゃ意味ないの!」と言い張り、必死に練習した。
ソファーテーブルには、その悪戦苦闘の成果が三枚、置かれている。
「あたし、ヒロインみたいに上手じゃないけど、自分なりに頑張ったの……。結局、イニシャルとワンポイントだけしかできなかったんだけど……」
最後のほうは小声になりながらも、自分の力作を一枚、テーブルの上に広げてみせる。
ハンカチの隅に、『マーガレット・ブラックレイ』のMとBのイニシャルと四つ葉のクローバーが、ちんまりと刺されていた。
――お世辞にも上手とは言えないレベルではあるが。
「ほう、なんとか完成したか」
「ねえ、どうかしら? あたし、すっごく頑張ったんだよ」
「……まあ、こういうのは腕の良し悪しよりも気持ちが大切だ」
「………レオン、もうちょっと褒めてくれてもいいんじゃない?」
言外に「下手だ」という意味を含ませた感想に、マーガレットは口を尖らせる。
――難攻不落のレオナルド。女心をまるでわかってない。
わざわざ言われなくっても、刺繍が下手だということは自分でも痛いほどわかっている。
だから、とりあえずは褒めてほしい。
こうして期日までにちゃんと仕上げたんだから。
期待を込めてレオナルドに目を向けると、彼は、にこりともせずにつぶやいた。
「そうだな……、ハンカチに血がついていないだけでも大したものだ。……指が絆創膏だらけだがな」
褒めているのか貶しているのかわからない感想を告げながら、レオナルドがその視線を小さな刺繍からハンカチを持つマーガレットの左手に移す。
彼の視線を感じて、マーガレットは慌てて自分の手を引っ込めた。
「……だって、針でいっぱい刺しちゃったんだもん」
絆創膏だらけの左手を、きれいな右手で包み込むようにして隠した。
――この世界の貴族の女性にとって、刺繍の腕は、ステータスを示すひとつの目安だ。
単に、腕の良し悪しや美的センスだけではない。
高価な服やハンカチに自分の刺繍を刺せるというのは、時間的、金銭的な余裕があることを表している。
だから、貴族のご令嬢は、物心ついた頃から刺繍の訓練を始める。裕福な家庭であれば、専門の家庭教師を雇うことだって、よくある話。
社交行事のひとつに『お茶会』があるが、そういう貴族同士の交流の場では、お互いに自分の刺繍を見せあい、それを話のネタにして盛り上がることも多い。
つまり、刺繍ができなければ、社交界での話題についていけなくなってしまう、というわけだ。
しかし、マーガレットは、ちまちました刺繍が苦手で、早い段階で見切りをつけて訓練をやめてしまった。
腕のいいメイドを雇えばそれで済むでしょ、という苦しい言い訳とともに――
そんなマーガレットだったが、この十日間ほどの特訓のおかげで、なんとか自分の指に針を刺さずに刺繍を仕上げられるようになった。
――ランバート王子に褒められたい!
その一心で、侍女のマリアに教えてもらいながら必死に努力した。――彼女は小さな頃から仕えてくれている優秀な侍女なだけに、マーガレットの練習にも、根気強く付き合ってくれた。
その努力の結果が、絆創膏だらけの左手。
公爵令嬢らしい陶器のようなきれいな指だったのに、無惨にボロボロになってしまった。
針を通すたびに布を押さえている左手を刺してしまうし、縫い終えて糸を切るときにハサミで皮膚を傷つけてしまう。
挙げ句の果てに、仕上げのアイロンでやけどの水ぶくれまでこさえる始末。――木炭アイロンは、鉄の重みで布を伸ばすので、やたらと重かった。
まさに血のにじむような努力。
ただ、自分では努力の勲章だと思うものの、こうして同年代の男性に指摘されると、貴族令嬢としては、かなり恥ずかしい――
恥ずかしさで顔を赤らめるマーガレットに、レオナルドが冷静な声で告げた。
「とりあえずハンカチはできたな。明日の段取りを確認しようか」
「………それじゃあ、手順を説明するね」
どうやら、彼に褒めてもらうことを期待しても無駄っぽい。
心の中で小さなため息をつきつつ、マーガレットは打ち合わせを続けることにする。
(いいもん! だって、明日、王子様にいっぱい褒めてもらえるんだから!)
そう、こんなところでレオナルドに褒めてもらったって仕方がない。
今は明日の準備に集中すべきだ――
心の中で自分を励まして、イベントの手順についての説明を始める。
「ヒロインがハンカチを落とすのは、学園の中庭なの。彼女の代わりにあたしがハンカチを落として待ってるから、レオンには、ランバート王子を連れてきてほしいの」
「それは構わないが……、うまくいくかな?」
「なにか問題でも?」
「メグが落としたハンカチを彼に拾わせるのは、ちょっと難しくないか?」
「あら、どうして?」
「……そりゃあ、気のない女の子のハンカチなんて、男は拾わないぞ?」
レオナルドが疑問を投げかけてきたので、マーガレットは自信たっぷりに微笑む。
「うふふっ、それは大丈夫よ。ちゃんとゲームのイベントの強制力がはたらくはずだから」
「……本当か?」
「うん、きっと大丈夫よ……。だって、誰がプレイしたってイベントは発動するし、あの場所であの時間にハンカチを落としたら、王子様は必ず拾ってくれるのよっ」
念を押すように聞かれて動揺したが、最後は自分に言い聞かせた。
マーガレットとランバート王子の仲が冷え切っているのは事実だが、なんといっても、ここはゲームの世界。
ストーリーどおりにハンカチを落とせば、ランバート王子は、きっと拾ってくれるに違いない。
しかも、マーガレットは後ろを向いている。
背中しか見えないから、一般の令嬢と見分けがつかないはず。
ハンカチを拾ってくれさえすれば、話をするきっかけになる。
(そしたら、優しい令嬢に生まれ変わったあたしを、しっかりアピールするの!)
マーガレットが胸の前で右手をぐっと握り締めて決意を固めていると、隣で考え込んでいたレオナルドが口を開いた。
「なあ、メグ……。最後にひとつ質問してもいいか?」
来た――!
レオナルドの『最後の質問』。
これには慎重に答えないといけない。
「……なあに?」
「最初に話を聞いたときから疑問だったんだが、ランバート王子は、どうして中庭に行くんだ?」
「えーっと……、どういう意味?」
「彼が中庭に行く理由を知りたい」
レオナルドが真剣な表情で小首をかしげる。
(やっぱりレオンは理屈っぽいわねぇ)
マーガレットは、心の中でクスッと笑う。
乙女ゲームのイベントに、それほど大きな動機なんてない。
たいていは、「ちょっとこっちに来てみたんだよ」とか、「なんとなく気になってね」といったセリフとともに、攻略対象たちはヒロインの前にやってくる。
男女の出会いなんて、ちょっとしたきっかけで起こるもの。
そこから関係が大きく広がるか、あるいは何事もなく終わるかは、会話を通じて感じる、お互いの相性で決まる。
それを楽しむのが乙女ゲームだ。
(だけど、動機なんてない、って言ったら、理論派の彼は納得しないわよね……)
マーガレットは少し考えてから、素直に答えることにした。
「ごめんなさい、レオン。それはわからないわ」
「わからないのか?」
「うん、ゲームのストーリーには、中庭に行く理由なんて出てこないもの」
「そうか……。しかし、仮にも王太子が理由もなく人気のない中庭に行ったりしないだろ?」
「……うーん、どうかしら……。そんなこと、考えたこともなかったわ……」
本当にわからなくて、マーガレットが右手を頬に当てて考え込むと、レオナルドは顔の前で手をひらひらと振った。
「わからないなら、構わない……。彼を連れ出す口実は適当に考えるさ。メグが頑張ったんだ、成功するように俺も頑張るよ」
どうやら、理由そのものに興味があったわけではなく、ランバート王子を連れ出す口実を知りたかったようだ。
彼の『最後の質問』だったから身構えてしまったが、ゲームのストーリーに合わせようとしてくれていたらしい。
「うん、お願いね! うふふっ、明日は王子様と、どんな話をしようかな……。『マーガレット、ほら、ハンカチ落としたぞ』って言われるのよね……」
イベントの段取りが決まり、ウキウキとつぶやきながら、頭の中でランバート王子との会話のシミュレーションを始める。
そんなマーガレットの向かいでは、絆創膏だらけの彼女の左手を、レオナルドがじっと見つめていた。
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