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早春、梅に雀の事
弐 早春
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玄関がバンッと大きな音を立てた。錬逸が大きな声で僕を呼ぶのが聞こえる。
「ミオさん、写真を撮りに行くぞ」
「錬逸? どうしたんだ、いきなり」
それに応えずこの従兄弟は、子どもの時と同じ目で僕を見てくる。なんの悪さをしようというんだ。
それは置いておき、この間の礼をしようと口を開きかけた僕は錬逸の手で制された。
そこへぱたぱたと秋成が飛び込んでくる。
「叔父様! いらっしゃい」
「おう、秋! 元気だったか。お前も一緒に写真を撮りに行こう」
飛びつく秋成を抱き上げながら、錬逸は重い重いと笑う。
「今度、新造船の食堂の意匠を描いてくれるだろう? 作者紹介のために写真を撮りたいんだ。秋も千代さんも行くぞ。皆で撮るんだ」
「作者紹介に家族写真がいるのか?」
「ついでだ、ついで。俺も撮ろうかって思ってる」
なんでうちに来る人達は、ついでと言うんだ。
「それよりお前、僕にかまけてていいのか。会社の仕事はちゃんとしてるのか」
「やっとるわ!」
お前に言われたくない、と錬逸は大声で笑う。
なんだかんだと言いくるめられるようにして、全員写真館に連れてこられて。結局、僕の写真と家族の写真も撮ることになった。
写真機に向かって待っているこの時間は気恥ずかしくて苦手だ。つい無愛想な顔になってしまう。
ただ写真には大いに興味がある。特に最近は芸術写真というものが出てきていると聞く。僕も時間を切り取って止めるような、そんな絵を描いてみたい。
今、描いているのは対幅の春と秋。
右幅の春には八ツ手の下に立ち止まる鼬の姿。左幅の秋は散り始めの楓に止まる鳩の姿を。これは色も構図も全てを対称的にする。
輪郭をとって装飾的に描く草木と、写実的な動物は『黒き猫』の描き方と同じだ。
鼬と鳩の互いに目を見交わす瞬間を切り取ったつもりだ。その一瞬の時間を見てもらえたらと思っている。
この『春秋』も背景は描かず、空間の広がりを心に留めている。
僕はずっと背景の空間について考えているんだ。『落葉』の頃から特に大事に思い始めて、宗達や光琳の絵からもいろいろと研究を重ねている。
これはまだまだ研究の余地がある。
「痛っ……」
ずきんと頭が重くなって顔を顰めた。
最近急に寒くなったからだろうか、風邪をひいたのかもしれない。休みながら描くようにして病状も落ち着いてきたところなのに。また具合が悪くなったのではたまらない。
「ミオさん、お手紙が来てますよ」
「ありがとう、誰だろう」
封を開けた僕に、これはいい知らせだぞ。
小田原の井口庄蔵氏から揮毫のための招待だったのだ。
「千代さん、先生のお許しが出たら小田原に行きたいのだけど。暖かいところなら体も楽になりそうなんだ」
「寒くなってきましたものね、でも今度は本当に無理はしないでくださいね」
「うん、わかってる。あちらにも事情を話して、医者の手配についても相談しようと思っているから。少しゆっくり描かせていただくよ」
そうして、いそいそとやって来た僕は少し前から滞在させてもらっている。
花鳥図の下絵をあれこれと工夫して。途中、船の意匠も手掛けながら描いて。
ああ、ここは本当にいいところだなあ。
「いかがですか」
井口さんはにこにこと僕に問われる。医者の件など面倒をお願いしたのにも関わらず、ゆっくりと描かせていただいてありがたかった。
依頼された絵はもう仕上げて落款を入れるだけになっている。
「井口さん、小田原は本当に気候がいいですね」
「ええ、気候も人も穏やかで。私もそれが気に入ってここにいるんですよ」
わかるなあ、僕もここに住みたいくらいだ。
体が楽だから帰りたくないのだけれど、巽画会に出品することになっている。そろそろ帰って準備を始めなくてはならない。
その旨を言うと、井口さんは残念そうにため息をつかれた。
「展覧会の準備ではお引き留めするのも難しいですね。終わったら、またいらしていただけますか」
「ありがとうございます。またぜひ来たいです」
後ろ髪を引かれながら代々木へ戻った。
ああ、やはり寒い。小田原は本当に暖かかったんだな。代々木の寒さが堪える。
下絵も色々描いて、これからというところだったのに。
腹が酷く痛む。医者に診てもらったら腸カタルだという。布団から起き上がれないし、腹が痛くて何も手につかない。一晩、本当に苦しかったけれど今朝はようやく少し落ち着いてきた。
「ミオさん、どうですか」
「うん、今朝は少しいいよ」
体を拭いてもらって、寝間着を着替えさせてもらって、ようやくすっきりする。
「ありがとう」
「さ、もう少し休んでください」
千代さんの言葉に頷いて目を閉じる。これなら少し眠れそうだ。
それから四、五日はほとんど寝たきりだったけれど、やっと起き上がれるようになった。
「これは眼病の薬の影響が大きいかもしれない。落ち着くまで一旦服用を中止しよう」
往診に来られた先生が言われた。
「ミオさん、写真を撮りに行くぞ」
「錬逸? どうしたんだ、いきなり」
それに応えずこの従兄弟は、子どもの時と同じ目で僕を見てくる。なんの悪さをしようというんだ。
それは置いておき、この間の礼をしようと口を開きかけた僕は錬逸の手で制された。
そこへぱたぱたと秋成が飛び込んでくる。
「叔父様! いらっしゃい」
「おう、秋! 元気だったか。お前も一緒に写真を撮りに行こう」
飛びつく秋成を抱き上げながら、錬逸は重い重いと笑う。
「今度、新造船の食堂の意匠を描いてくれるだろう? 作者紹介のために写真を撮りたいんだ。秋も千代さんも行くぞ。皆で撮るんだ」
「作者紹介に家族写真がいるのか?」
「ついでだ、ついで。俺も撮ろうかって思ってる」
なんでうちに来る人達は、ついでと言うんだ。
「それよりお前、僕にかまけてていいのか。会社の仕事はちゃんとしてるのか」
「やっとるわ!」
お前に言われたくない、と錬逸は大声で笑う。
なんだかんだと言いくるめられるようにして、全員写真館に連れてこられて。結局、僕の写真と家族の写真も撮ることになった。
写真機に向かって待っているこの時間は気恥ずかしくて苦手だ。つい無愛想な顔になってしまう。
ただ写真には大いに興味がある。特に最近は芸術写真というものが出てきていると聞く。僕も時間を切り取って止めるような、そんな絵を描いてみたい。
今、描いているのは対幅の春と秋。
右幅の春には八ツ手の下に立ち止まる鼬の姿。左幅の秋は散り始めの楓に止まる鳩の姿を。これは色も構図も全てを対称的にする。
輪郭をとって装飾的に描く草木と、写実的な動物は『黒き猫』の描き方と同じだ。
鼬と鳩の互いに目を見交わす瞬間を切り取ったつもりだ。その一瞬の時間を見てもらえたらと思っている。
この『春秋』も背景は描かず、空間の広がりを心に留めている。
僕はずっと背景の空間について考えているんだ。『落葉』の頃から特に大事に思い始めて、宗達や光琳の絵からもいろいろと研究を重ねている。
これはまだまだ研究の余地がある。
「痛っ……」
ずきんと頭が重くなって顔を顰めた。
最近急に寒くなったからだろうか、風邪をひいたのかもしれない。休みながら描くようにして病状も落ち着いてきたところなのに。また具合が悪くなったのではたまらない。
「ミオさん、お手紙が来てますよ」
「ありがとう、誰だろう」
封を開けた僕に、これはいい知らせだぞ。
小田原の井口庄蔵氏から揮毫のための招待だったのだ。
「千代さん、先生のお許しが出たら小田原に行きたいのだけど。暖かいところなら体も楽になりそうなんだ」
「寒くなってきましたものね、でも今度は本当に無理はしないでくださいね」
「うん、わかってる。あちらにも事情を話して、医者の手配についても相談しようと思っているから。少しゆっくり描かせていただくよ」
そうして、いそいそとやって来た僕は少し前から滞在させてもらっている。
花鳥図の下絵をあれこれと工夫して。途中、船の意匠も手掛けながら描いて。
ああ、ここは本当にいいところだなあ。
「いかがですか」
井口さんはにこにこと僕に問われる。医者の件など面倒をお願いしたのにも関わらず、ゆっくりと描かせていただいてありがたかった。
依頼された絵はもう仕上げて落款を入れるだけになっている。
「井口さん、小田原は本当に気候がいいですね」
「ええ、気候も人も穏やかで。私もそれが気に入ってここにいるんですよ」
わかるなあ、僕もここに住みたいくらいだ。
体が楽だから帰りたくないのだけれど、巽画会に出品することになっている。そろそろ帰って準備を始めなくてはならない。
その旨を言うと、井口さんは残念そうにため息をつかれた。
「展覧会の準備ではお引き留めするのも難しいですね。終わったら、またいらしていただけますか」
「ありがとうございます。またぜひ来たいです」
後ろ髪を引かれながら代々木へ戻った。
ああ、やはり寒い。小田原は本当に暖かかったんだな。代々木の寒さが堪える。
下絵も色々描いて、これからというところだったのに。
腹が酷く痛む。医者に診てもらったら腸カタルだという。布団から起き上がれないし、腹が痛くて何も手につかない。一晩、本当に苦しかったけれど今朝はようやく少し落ち着いてきた。
「ミオさん、どうですか」
「うん、今朝は少しいいよ」
体を拭いてもらって、寝間着を着替えさせてもらって、ようやくすっきりする。
「ありがとう」
「さ、もう少し休んでください」
千代さんの言葉に頷いて目を閉じる。これなら少し眠れそうだ。
それから四、五日はほとんど寝たきりだったけれど、やっと起き上がれるようになった。
「これは眼病の薬の影響が大きいかもしれない。落ち着くまで一旦服用を中止しよう」
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