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後日譚〜あれから〜
29 【マティアス】沼の底へ
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公爵邸にたどり着いたときには、とうに深夜を過ぎていた。
リュカのかけらの残るこの屋敷は、いつしか安住の地では無くなっていた。
どうしても泊まらなければならない夜以外は、領地の城に戻る。
今日は、王太子殿下に呼ばれ、深夜まで外交政策について議論を交わし、明日早朝から閲兵に同行することになっている。これからしばらくは領地には戻らず、公爵邸で過ごすことにしていた。
私は深夜から早朝までの数時間しか屋敷に滞在しないため、リュカとは顔を合わせずに済む。
リュカは、最近では体調も良くなり、また平民に戻る準備を進めていると、報告を受けた。
「愛している」と言われ、あまりに残酷な嘘に、我慢がならなかった。
結局ひた隠しにしていた、私の情けない感情をさらけ出し、みっともない羽目になった。
いままでずっと常に冷静に、気高い公爵として振る舞っていたのに、きっと失望されただろう。
もう、リュカの目をまともに見られそうにない。
屋敷に戻ると、ベネディクトが迎えに出た。
「おかえりなさいませ、旦那様」
手袋を渡し、手短に伝える。
「書斎に行く。何もいらない」
「はい」
すこし書類を読むことができるだろう。
明日は早朝の予定のあと、宰相閣下の補佐に入り、午後には領地に向かわねばならない。
忙しい方がいい。余計なことを考えずに済む。
足早に書斎に入り、着替えを済ませると同時にワゴンが運び込まれてきた。
ワゴンの上にはパンやフルーツやチーズ、飲み物が所狭しと並べられていた。
「食事はいらない」
「食事ではございません。あくまでも軽いものでして」
ベネディクトは隙を見つけては私に何かを食べさせようとする。
たしかにフルコースではないが、量が多すぎた。
「少しでいい。下げて皆に振る舞いなさい」
「ありがとうございます」
ベネディクトが深々と頭を下げ、微笑みを浮かべた。目が笑っていない。
「ですが、準備した者のために召し上がってくださいますよね?」
争う気力もない私は、黙ってソファーに座った。
確かに、この夜中、誰かが湯を沸かし、パンを温めてくれたんだろう。
ハーブティーをそっと私の前に差し出しながら、ベネディクトが静かに口を開いた。
「リュカ様のことですが」
「ああ」
「すっかり体調も戻られたご様子です」
「そうか」
「これからの生活の支援は、いかがいたしましょう。スパイ騒ぎでこれまで蓄えたお金も服もなにもかも、ドランシに置いてきてしまったので、言葉は悪いですが文無しかと」
「・・・面倒をみてやれ。リュカがしたいようにさせてやれ」
「はい、うけたまわりました」
「金がほしいなら、渡せ。公爵家にあるものなら、何でも持っていかせろ。お前ならそうしてくれるだろう」
「はい、仰せのままに」
もう、会うこともないだろう。
思いはこれからもなくなることはない。
心残りはあるが、そういう運命だったんだろう。
二度と私たちの道が交わることはない。
「リュカの好きにさせてやれ。あいつは・・・弟だし」
ベネディクトに見張られているので、仕方なくハーブティーを口に含み、パンを食べる。
このパンは、リュカのパンに似ているな。ずっと食べられたらいいのに・・・リュカのパンは優しい味がした。
ワゴンに載せられた軽食を食べ終わると、ベネディクトの目が笑っていた。
(子どもでもあるまいし)
そう思いながら、ソファーに背中を預け、目を閉じる。
グラリと意識がゆがみ、目の奥で何かがひらめいた。
それは、リュカの笑顔だったのかもしれない。
****************
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
子どもたちの笑い声か、それとも使用人たちか。
ずいぶん長いこと、仕事以外での人との関わりを持っていない。
いつからだ?
リュカが私を裏切っていたと知った時からだ。
人を信じる気持ちも、愛する心も、全てリュカが持って行ってしまった。
からっぽだ。
ただ、公爵という責務を果たすための器。それが私だった。
濁った沼に飲み込まれ、身動きが取れない。
でも、私に近しい人間は、命をとられてしまう。二度とミラと子の悲劇を繰り返してはならない。
あちこちから手が伸びてきて、私の頭を押さえつけ、沼に沈めようとする。
目、鼻、口から泥水が入り込み、胃も肺も真っ黒に染まる。
このまま、ゆっくりと命の火が消えるまで働き続け、子に公爵位をつなげば・・・その時は自由になれるのかもしれない。
自分の道を見つけたリュカは、まぶしかったな。
そう、まるで光のように。一筋の光りが差し込み、まぶたを照らした。
「やっと、目が覚めた?」
リュカがのぞきこんでいた。
「ああ、夢か」
幸せな夢だ。夢なら覚めないでほしい。もうすこし、もうすこしだけ・・・
「兄さん」そっと額に触れた手が、愛しげに頬に降り、包み込んだ。
「兄さん、愛してる。愛してるよ」
耳に心地よいまぼろし。たまには、こんな朝があってもいい・・・
「疲れてるんだね。ゆっくり休んで」
頬に唇が落とされ、抱きしめられるように意識が溶けていった。
リュカのかけらの残るこの屋敷は、いつしか安住の地では無くなっていた。
どうしても泊まらなければならない夜以外は、領地の城に戻る。
今日は、王太子殿下に呼ばれ、深夜まで外交政策について議論を交わし、明日早朝から閲兵に同行することになっている。これからしばらくは領地には戻らず、公爵邸で過ごすことにしていた。
私は深夜から早朝までの数時間しか屋敷に滞在しないため、リュカとは顔を合わせずに済む。
リュカは、最近では体調も良くなり、また平民に戻る準備を進めていると、報告を受けた。
「愛している」と言われ、あまりに残酷な嘘に、我慢がならなかった。
結局ひた隠しにしていた、私の情けない感情をさらけ出し、みっともない羽目になった。
いままでずっと常に冷静に、気高い公爵として振る舞っていたのに、きっと失望されただろう。
もう、リュカの目をまともに見られそうにない。
屋敷に戻ると、ベネディクトが迎えに出た。
「おかえりなさいませ、旦那様」
手袋を渡し、手短に伝える。
「書斎に行く。何もいらない」
「はい」
すこし書類を読むことができるだろう。
明日は早朝の予定のあと、宰相閣下の補佐に入り、午後には領地に向かわねばならない。
忙しい方がいい。余計なことを考えずに済む。
足早に書斎に入り、着替えを済ませると同時にワゴンが運び込まれてきた。
ワゴンの上にはパンやフルーツやチーズ、飲み物が所狭しと並べられていた。
「食事はいらない」
「食事ではございません。あくまでも軽いものでして」
ベネディクトは隙を見つけては私に何かを食べさせようとする。
たしかにフルコースではないが、量が多すぎた。
「少しでいい。下げて皆に振る舞いなさい」
「ありがとうございます」
ベネディクトが深々と頭を下げ、微笑みを浮かべた。目が笑っていない。
「ですが、準備した者のために召し上がってくださいますよね?」
争う気力もない私は、黙ってソファーに座った。
確かに、この夜中、誰かが湯を沸かし、パンを温めてくれたんだろう。
ハーブティーをそっと私の前に差し出しながら、ベネディクトが静かに口を開いた。
「リュカ様のことですが」
「ああ」
「すっかり体調も戻られたご様子です」
「そうか」
「これからの生活の支援は、いかがいたしましょう。スパイ騒ぎでこれまで蓄えたお金も服もなにもかも、ドランシに置いてきてしまったので、言葉は悪いですが文無しかと」
「・・・面倒をみてやれ。リュカがしたいようにさせてやれ」
「はい、うけたまわりました」
「金がほしいなら、渡せ。公爵家にあるものなら、何でも持っていかせろ。お前ならそうしてくれるだろう」
「はい、仰せのままに」
もう、会うこともないだろう。
思いはこれからもなくなることはない。
心残りはあるが、そういう運命だったんだろう。
二度と私たちの道が交わることはない。
「リュカの好きにさせてやれ。あいつは・・・弟だし」
ベネディクトに見張られているので、仕方なくハーブティーを口に含み、パンを食べる。
このパンは、リュカのパンに似ているな。ずっと食べられたらいいのに・・・リュカのパンは優しい味がした。
ワゴンに載せられた軽食を食べ終わると、ベネディクトの目が笑っていた。
(子どもでもあるまいし)
そう思いながら、ソファーに背中を預け、目を閉じる。
グラリと意識がゆがみ、目の奥で何かがひらめいた。
それは、リュカの笑顔だったのかもしれない。
****************
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
子どもたちの笑い声か、それとも使用人たちか。
ずいぶん長いこと、仕事以外での人との関わりを持っていない。
いつからだ?
リュカが私を裏切っていたと知った時からだ。
人を信じる気持ちも、愛する心も、全てリュカが持って行ってしまった。
からっぽだ。
ただ、公爵という責務を果たすための器。それが私だった。
濁った沼に飲み込まれ、身動きが取れない。
でも、私に近しい人間は、命をとられてしまう。二度とミラと子の悲劇を繰り返してはならない。
あちこちから手が伸びてきて、私の頭を押さえつけ、沼に沈めようとする。
目、鼻、口から泥水が入り込み、胃も肺も真っ黒に染まる。
このまま、ゆっくりと命の火が消えるまで働き続け、子に公爵位をつなげば・・・その時は自由になれるのかもしれない。
自分の道を見つけたリュカは、まぶしかったな。
そう、まるで光のように。一筋の光りが差し込み、まぶたを照らした。
「やっと、目が覚めた?」
リュカがのぞきこんでいた。
「ああ、夢か」
幸せな夢だ。夢なら覚めないでほしい。もうすこし、もうすこしだけ・・・
「兄さん」そっと額に触れた手が、愛しげに頬に降り、包み込んだ。
「兄さん、愛してる。愛してるよ」
耳に心地よいまぼろし。たまには、こんな朝があってもいい・・・
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