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後日譚〜あれから〜
7 【マティアス】惑い
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「あのパンは、リュカの店のものだな」
「はい。お気に召していただけてよかったです」
「そうだな。なぜあんなに懐かしい味がするのか不思議だった。リュカのパンならそれも当然か」
「数日前のことです。そろそろ伺ってもいいかと存じまして。店を開いたばかりではご迷惑になるやもしれないと遠慮しておりました。最近店も落ちついたようだと報告を受けまして、ちょうど、料理人のひとりが病気になり、パンをどこかから手に入れる必要がございまして・・・」
「そうか」
「最初は身分を伏せるため、リュカ様が知らない使用人を差し向けました。あの、ノアです」
ノアは遠縁の息子で、将来のために面倒をみてほしいと頼まれて預かっている少年だった。学園に行く準備をしながら空いた時間には公爵家の仕事の見習いをさせている。
「まあ、ノアの態度からバレるかとは思いましたが、すぐに察しがついたらしいです」
「ノアのせいだけではあるまい。リュカに甘いお前のことだ。気前よく払いすぎたんだろう」
「私は旦那様ならそうするだろうと思ったことをしたまでです」
「ほう?」
まあ確かに、リュカのパンを買うのにいくら払えばいいのかわからないのは事実だ。
領民に対して領主がケチケチしては仕方がない。領主が払った金は巡り巡って税となり戻ってくるもの。領主はその金を領民の生活を良くするために使えばいいのだ。
「先日、いつものようにパンを買いに行ったところ、ノアに焼菓子を渡したそうです。サクサクカリカリしているけど、ナッツは使っていない焼き菓子だ、と。その意味はおわかりですよね?ぜひ味わっていただきたかったので、今日はお茶の時間を作っていただきました。いつものように仕事をしながら食べては、なにを食べたかすら覚えていらっしゃらないでしょう?」
「・・・まあ、そうだな」
「リュカ様の店の場所はこちらに」
ベネディクトが胸元から四つ折りにした紙を取り出し、ティーテーブルに置いた。
「知ってどうするのだ」
「意地をはってもいいことはありませんよ?まあ、ここに置いておきますから。あ、そういえば厨房に指示を出すのを忘れておりました」
ベネディクトがわざとらしい身振りとともに席を外すと、急に四つ折りにされた紙が自己主張を始めた。
ことばを発しない紙なのに、まるで世界の中心でもあるかのように感じられる。
(だが・・・リュカはなぜ私に焼菓子を?)
リュカが私を許した?まさか。母を殺した私を許すことなどできるはずがない。
だが・・・リュカ・・・リュカ、リュカ。
どうしても忘れられない。
ひだまりのような愛しさと泥のようにまとわりつく苦しみがよみがえる。
肌の匂いも温かさも、締め付けるなかの感触も・・・
時が解決してくれるのではなかったのか?
いつか記憶は薄れ、過去になっていくと思っていた。それなのに、こうしてふとしたきっかけで思い出し、鮮やかによみがえる。
会いに行ってもいいのか?
リュカは焼き菓子を渡したときなにか言ったんだろうか。
もしや、「今までありがとう。でも、二度とくるな」?
それとも「俺は知ってる、気がついているぞ」と警告してきた?
いや、それならばなぜ手間のかかる菓子をわざわざ焼いてよこした?そんな必要もないのに。
リュカが渡したかったと考えるのが自然だろう。
焼き菓子を渡したのは私に会いたかったから?
何度も夢に見た。
明け方の幸せな夢ではリュカは私に笑いかけ、不幸な夢では私を嘲笑する。
どれが本当のリュカなのか、時が経ちすぎてもうわからなくなっていた。
甘い夢をみるな。リュカは私を愛してはいないと、ことばでも態度でも示しつづけた。
それは私に対する毅然とした抵抗だったことを、忘れてはならない。
なによりも、私には自分の幸せを追求する贅沢など許されない。領主としての責務が最優先であり、自らはそのためにある。結婚も愛人もすべてはそのためだった。
だが、小さな紙切れはどうしようもないほど強く私を引き付ける。
無意識にテーブルの端に置かれた紙に手を伸ばすと、焼けた火のように熱く、思わず取り落としてしまった。気がつけば手が瘧のように震えていた。
どうしたらいいのか。
誰もが私は正しい判断ができると思いこんでいる。
宰相補佐としても公爵としても、軍の参謀としてまで。精一杯努めてきたつもりだ。
だが、自分のことになるとなぜ簡単に結論を出せないのだろう。こんな紙切れ一枚のことで・・・
私は目をつぶり、震える自分の手を握りしめた。
「はい。お気に召していただけてよかったです」
「そうだな。なぜあんなに懐かしい味がするのか不思議だった。リュカのパンならそれも当然か」
「数日前のことです。そろそろ伺ってもいいかと存じまして。店を開いたばかりではご迷惑になるやもしれないと遠慮しておりました。最近店も落ちついたようだと報告を受けまして、ちょうど、料理人のひとりが病気になり、パンをどこかから手に入れる必要がございまして・・・」
「そうか」
「最初は身分を伏せるため、リュカ様が知らない使用人を差し向けました。あの、ノアです」
ノアは遠縁の息子で、将来のために面倒をみてほしいと頼まれて預かっている少年だった。学園に行く準備をしながら空いた時間には公爵家の仕事の見習いをさせている。
「まあ、ノアの態度からバレるかとは思いましたが、すぐに察しがついたらしいです」
「ノアのせいだけではあるまい。リュカに甘いお前のことだ。気前よく払いすぎたんだろう」
「私は旦那様ならそうするだろうと思ったことをしたまでです」
「ほう?」
まあ確かに、リュカのパンを買うのにいくら払えばいいのかわからないのは事実だ。
領民に対して領主がケチケチしては仕方がない。領主が払った金は巡り巡って税となり戻ってくるもの。領主はその金を領民の生活を良くするために使えばいいのだ。
「先日、いつものようにパンを買いに行ったところ、ノアに焼菓子を渡したそうです。サクサクカリカリしているけど、ナッツは使っていない焼き菓子だ、と。その意味はおわかりですよね?ぜひ味わっていただきたかったので、今日はお茶の時間を作っていただきました。いつものように仕事をしながら食べては、なにを食べたかすら覚えていらっしゃらないでしょう?」
「・・・まあ、そうだな」
「リュカ様の店の場所はこちらに」
ベネディクトが胸元から四つ折りにした紙を取り出し、ティーテーブルに置いた。
「知ってどうするのだ」
「意地をはってもいいことはありませんよ?まあ、ここに置いておきますから。あ、そういえば厨房に指示を出すのを忘れておりました」
ベネディクトがわざとらしい身振りとともに席を外すと、急に四つ折りにされた紙が自己主張を始めた。
ことばを発しない紙なのに、まるで世界の中心でもあるかのように感じられる。
(だが・・・リュカはなぜ私に焼菓子を?)
リュカが私を許した?まさか。母を殺した私を許すことなどできるはずがない。
だが・・・リュカ・・・リュカ、リュカ。
どうしても忘れられない。
ひだまりのような愛しさと泥のようにまとわりつく苦しみがよみがえる。
肌の匂いも温かさも、締め付けるなかの感触も・・・
時が解決してくれるのではなかったのか?
いつか記憶は薄れ、過去になっていくと思っていた。それなのに、こうしてふとしたきっかけで思い出し、鮮やかによみがえる。
会いに行ってもいいのか?
リュカは焼き菓子を渡したときなにか言ったんだろうか。
もしや、「今までありがとう。でも、二度とくるな」?
それとも「俺は知ってる、気がついているぞ」と警告してきた?
いや、それならばなぜ手間のかかる菓子をわざわざ焼いてよこした?そんな必要もないのに。
リュカが渡したかったと考えるのが自然だろう。
焼き菓子を渡したのは私に会いたかったから?
何度も夢に見た。
明け方の幸せな夢ではリュカは私に笑いかけ、不幸な夢では私を嘲笑する。
どれが本当のリュカなのか、時が経ちすぎてもうわからなくなっていた。
甘い夢をみるな。リュカは私を愛してはいないと、ことばでも態度でも示しつづけた。
それは私に対する毅然とした抵抗だったことを、忘れてはならない。
なによりも、私には自分の幸せを追求する贅沢など許されない。領主としての責務が最優先であり、自らはそのためにある。結婚も愛人もすべてはそのためだった。
だが、小さな紙切れはどうしようもないほど強く私を引き付ける。
無意識にテーブルの端に置かれた紙に手を伸ばすと、焼けた火のように熱く、思わず取り落としてしまった。気がつけば手が瘧のように震えていた。
どうしたらいいのか。
誰もが私は正しい判断ができると思いこんでいる。
宰相補佐としても公爵としても、軍の参謀としてまで。精一杯努めてきたつもりだ。
だが、自分のことになるとなぜ簡単に結論を出せないのだろう。こんな紙切れ一枚のことで・・・
私は目をつぶり、震える自分の手を握りしめた。
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