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第四幕〜終わりの始まり〜
207 【マティアス】カフェ・プティフール
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白桃のムースを食べた時、警告されるような違和感を感じた。
なんだろう、これは。
いや、ただの白桃とクリームと砂糖の味。隠し味にはちみつが入っているいつもの味だ。
ミントと薄い焼き菓子が添えられているのもいつもどおり。
なのになぜ、身体がチリチリするのだろう。
おそらく、イネスとの食事だからだ。
そう思い、あえて正面からイネスを見る。
目の前には正餐のために着飾った、少しやつれた女がいた。
かつて自分が世界の中心だと思っていた天真爛漫な少女の姿はそこにはない。
この女なら、面倒な感情のやり取りをせずにすごせると信じた面影もない。
ただの、女だ。
残念なほど、ただの女。恐れる必要はない。
私はムースを食べ終わると席を立った。
「イネス、カフェ・プティフールは書斎でいただこう」
イネスは目を伏せており、表情は見えない。
だが、私は気にせず書斎に向かった。
ソファでイネスを待つ。これが夫と妻としての最後の対面になるかもしれない。おそらく、イネスの話はそういうことだろう。
カチャリとドアの開く音とともに、滑るようにイネスが書斎に入ってきた。
後ろには、食後のコーヒーと焼菓子を持ったメイドが控えている。
「マティアス。お時間をありがとう。あなたを煩わせることはこれで最後だと約束するわ」
イネスがさみしげな笑みを浮かべた。
だが、騙されない。この女は裏切り者の尻軽だ。
私は、無表情のままイネスの対面に座った。同じ部屋にいるのも汚らわしい。早く用件を終わらせないと。
「それで?話とは?」
「まあ、マティアスったら。そんなにせっかちだったかしら?」イネスがカップにコーヒーを注ぎ、私の前に置いた。「ずいぶんとながいこと話していないから忘れてしまいそうね」
「話があるんだろう」
「ええ」イネスの口元が硬くなった。「でも、その前に、焼き菓子をいかが?」
「いらん」
「そうおっしゃらずに。あなたの妻からの最後のお願いだと思って」
「本当に最後か?そんなことが?」
「まあ!」イネスが含むような笑い声を上げた。「そんなはずないじゃありませんか!あなたに望むことはたくさんありますわ。でも、食後の楽しみくらい味わってもいいんじゃなくて?」
「うむ」仕方ない。話を早く終わらせるためだ。私は金で縁取られた繊細な小皿の上のちいさな焼菓子をつまみ、口にほうりこんだ。
サクサクと口の中で砕ける焼菓子は、バターの香ばしい味がした。
「うまいな」
「そうでしょう?禁じられているものほど、魅惑的なものですわ」
「禁じられている・・・?」
「うふふ。ものの例えですわ」イネスは楽しそうに笑うと、自分も焼菓子を口に運んだ。「おいしい。さ、コーヒーもお飲みになって。今日この後はまたお仕事かしら?それとも・・・まあ、私のような見捨てられた妻が気にすることではありませんね」
「イネス」
「あらごめんなさい。外聞が悪かったかしら?本当のことって言ってはいけませんものね」
この心理戦はいつまで続くのだ?イネスは何が言いたい?
「私、領地に戻らせていただきます。あなたとこれ以上暮らすのは無理です。女主人の代わりにはもう目処をつけていらっしゃるのでしょう?あの、ベネディクトが」
「・・・」私は黙ってコーヒーに口をつけた。「やむをえまい。正直、ここまで関係が悪化してしまっては、これからかたちだけでも夫婦として過ごすのは難しいからな」
「同感ですわ」
イネスがうなずき、コーヒーを口に運んだ。
我々が結婚してから、初めて意見が合ったのが離婚についてだとは、なんとも皮肉に思えた。
「条件がありますの。私の後に公爵夫人になる方は、必ず私以上の身分であること」
イネスは伯爵令嬢であり、それ以上の身分で私と年がつりあう女性はすでに嫁ぎ先が決まっている。ミラをどこかの養女にはさせないという意図も含まれているんだろう。それとも、再婚はさせたくないということか?
親子ほど、とまではいかなくても相当年下の令嬢を探せと言う意味か。であればかなり長く公爵夫人の座は空席になる。
「お前には関係ないだろう」
「いいえ。ありますわ。一つには、私よりも身分が低い女性が、私よりも格上になるなどゆるせません。もうひとつは、あなたの再婚を引き伸ばしたい。理由は、お分かりでしょう?」
「皆目検討もつかないね」
「・・・そう」イネスは顔を伏せ、そのまましばらく黙り込んでいた。
時計の針が大きな音を立てて時を刻む。
「男色者と結婚するなど、お次の方がお気の毒だからですわ。いえ、女もお抱きになれるのだから、本物の男色者、というわけではないのかしら?」
この時、湖の畔で私達の情交を目撃したものをその場で始末しなかったのは失敗だったと悟った。
たとえ、それが妻であったとしても。
なんだろう、これは。
いや、ただの白桃とクリームと砂糖の味。隠し味にはちみつが入っているいつもの味だ。
ミントと薄い焼き菓子が添えられているのもいつもどおり。
なのになぜ、身体がチリチリするのだろう。
おそらく、イネスとの食事だからだ。
そう思い、あえて正面からイネスを見る。
目の前には正餐のために着飾った、少しやつれた女がいた。
かつて自分が世界の中心だと思っていた天真爛漫な少女の姿はそこにはない。
この女なら、面倒な感情のやり取りをせずにすごせると信じた面影もない。
ただの、女だ。
残念なほど、ただの女。恐れる必要はない。
私はムースを食べ終わると席を立った。
「イネス、カフェ・プティフールは書斎でいただこう」
イネスは目を伏せており、表情は見えない。
だが、私は気にせず書斎に向かった。
ソファでイネスを待つ。これが夫と妻としての最後の対面になるかもしれない。おそらく、イネスの話はそういうことだろう。
カチャリとドアの開く音とともに、滑るようにイネスが書斎に入ってきた。
後ろには、食後のコーヒーと焼菓子を持ったメイドが控えている。
「マティアス。お時間をありがとう。あなたを煩わせることはこれで最後だと約束するわ」
イネスがさみしげな笑みを浮かべた。
だが、騙されない。この女は裏切り者の尻軽だ。
私は、無表情のままイネスの対面に座った。同じ部屋にいるのも汚らわしい。早く用件を終わらせないと。
「それで?話とは?」
「まあ、マティアスったら。そんなにせっかちだったかしら?」イネスがカップにコーヒーを注ぎ、私の前に置いた。「ずいぶんとながいこと話していないから忘れてしまいそうね」
「話があるんだろう」
「ええ」イネスの口元が硬くなった。「でも、その前に、焼き菓子をいかが?」
「いらん」
「そうおっしゃらずに。あなたの妻からの最後のお願いだと思って」
「本当に最後か?そんなことが?」
「まあ!」イネスが含むような笑い声を上げた。「そんなはずないじゃありませんか!あなたに望むことはたくさんありますわ。でも、食後の楽しみくらい味わってもいいんじゃなくて?」
「うむ」仕方ない。話を早く終わらせるためだ。私は金で縁取られた繊細な小皿の上のちいさな焼菓子をつまみ、口にほうりこんだ。
サクサクと口の中で砕ける焼菓子は、バターの香ばしい味がした。
「うまいな」
「そうでしょう?禁じられているものほど、魅惑的なものですわ」
「禁じられている・・・?」
「うふふ。ものの例えですわ」イネスは楽しそうに笑うと、自分も焼菓子を口に運んだ。「おいしい。さ、コーヒーもお飲みになって。今日この後はまたお仕事かしら?それとも・・・まあ、私のような見捨てられた妻が気にすることではありませんね」
「イネス」
「あらごめんなさい。外聞が悪かったかしら?本当のことって言ってはいけませんものね」
この心理戦はいつまで続くのだ?イネスは何が言いたい?
「私、領地に戻らせていただきます。あなたとこれ以上暮らすのは無理です。女主人の代わりにはもう目処をつけていらっしゃるのでしょう?あの、ベネディクトが」
「・・・」私は黙ってコーヒーに口をつけた。「やむをえまい。正直、ここまで関係が悪化してしまっては、これからかたちだけでも夫婦として過ごすのは難しいからな」
「同感ですわ」
イネスがうなずき、コーヒーを口に運んだ。
我々が結婚してから、初めて意見が合ったのが離婚についてだとは、なんとも皮肉に思えた。
「条件がありますの。私の後に公爵夫人になる方は、必ず私以上の身分であること」
イネスは伯爵令嬢であり、それ以上の身分で私と年がつりあう女性はすでに嫁ぎ先が決まっている。ミラをどこかの養女にはさせないという意図も含まれているんだろう。それとも、再婚はさせたくないということか?
親子ほど、とまではいかなくても相当年下の令嬢を探せと言う意味か。であればかなり長く公爵夫人の座は空席になる。
「お前には関係ないだろう」
「いいえ。ありますわ。一つには、私よりも身分が低い女性が、私よりも格上になるなどゆるせません。もうひとつは、あなたの再婚を引き伸ばしたい。理由は、お分かりでしょう?」
「皆目検討もつかないね」
「・・・そう」イネスは顔を伏せ、そのまましばらく黙り込んでいた。
時計の針が大きな音を立てて時を刻む。
「男色者と結婚するなど、お次の方がお気の毒だからですわ。いえ、女もお抱きになれるのだから、本物の男色者、というわけではないのかしら?」
この時、湖の畔で私達の情交を目撃したものをその場で始末しなかったのは失敗だったと悟った。
たとえ、それが妻であったとしても。
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