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第四幕〜終わりの始まり〜

168 【マティアス】動揺

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ぞっとした。
イネスの言葉が伝える意味が、すぐには理解できなかった。
ただ、白い手が撫でる腹の下に・・・愛の結晶?
妊娠したということか?
まさか。ぐらりと世界がゆがんだ。

「嘘だ・・・嘘だろう?」

イネスは小さく首を横にふると、守るように腹の上に両手をのせ、うつむいた。

「ごめんなさい・・・」

散々、戦場で人の嘘と本音を見分けてきた私だ。イネスの言葉に含まれた真実がわからないはずがない。
今まで築き上げたものが一瞬で砕け散り、粉々になった過去のかけらが心も身体もズタズタに切り裂いていく。
リュカが・・・イネスと・・・寝た?

「信じたくない気持ちはわかるわ」イネスが気遣うような声を出した。「でも、どうしようもないの。出会ったときからずっと、好きになっちゃいけないと思っていたの。でも・・・どうしても・・・」

聞くに耐えない。稲妻のように狂気が走り抜ける。
私はテーブルに乗った茶器を叩き落した。
激しく叩きつけられた陶器は、かん高い叫びとともに真二つに割れ、色い液体が音もなく広がった。

「黙れ」

相手がリュカでなければ、悲しむふりをして慰謝料をせしめてやったところだ。
ずうずうしくも、結婚の相手の交換を要求してきた?
舐めた真似を。

「許さん」
「マティアス、お願い・・・」
「貴族の結婚には当主と国王陛下の許可がいる。どちらも出ない。あきらめろ」
「マティアス・・・」
「子は堕ろせ。本当にいるのならな」私はイネスの腹をにらみつけた。
「ひどい・・・」

イネスは傷ついたように目を見開き、悲しげに泣き出した。馬鹿な女だ。

「もしリュカと結婚するというのなら、リュカは勘当する。貴族籍も剥奪する。それでもいいなら好きにしろ。お前は平民ぐらしに耐えられると思っているのか?」
「ひどい・・・どうして・・・?」

イネスがひざから床に崩れ落ち、か細い鳴き声が聞こえてきた。

「兄さん」

リュカが私の足元にひざまずこうとした。
うつむいていてその瞳は見えない。だが、それはイネスの言葉を無言で肯定する動作だった。
胸の奥を突かれ、鈍く深い痛みが走る。

「やめろ」言い訳など聞きたくない。「話は後で聞く。お前は寮に帰れ。命があるうちにな」

リュカの瞳が揺れ、何かいいたげに唇が動いたが、ぎゅっと引き締められた。

静かに部屋を出る背中に追いすがり、捨てないでくれと懇願してしまいそうになる。なぜだと叫びたかった。
あんなにも私を愛しているような素振りですべてをさらけ出した人間がすることなのか?
腹の底から燃えるような怒りが沸き上がり、テーブルに乗った茶器を力任せになぎ払った。勢いよくはねのけられた茶器の一部は壁に当たり、ガチャンと大きな音をたて床に落ちた。
私とイネスのまわりは、茶器のかけらで雪のように白く染まった。

「リュカが・・・」

うなるようにつぶやいた名を聞いて、イネスは泣きぬれた顔を上げた。

「今日はもう帰れ。ただし、リュカとの結婚は絶対にゆるさない。なにがあろうと絶対に認めない」
「マティアス」
「これ以上余計なことを言うな」殺したくなる。

私はイネスの腕を乱暴に引き、ドアの外に押しやった。


***********************************************

こんなにもイネスを憎んだことはなかった。
イネスは私にとってずっと理想的な婚約者だった。
特別心を揺さぶられることなく、嫌いではない。キスした時は、猫にしているように感じたこともあった。
でも、抱こうと思えば抱ける。
飼っていた、婚約者。飼い犬に手を噛まれる、とはこのことだ。
まさか、あの甘ったれた令嬢が、リュカをたらしこむとは・・・

だが、何よりも私を苦しめたのは、リュカと愛し合ったと思ったのは私だけだった、というむごい事実だった。
これほどの愛を感じたことはなかった。
人と人の神聖な結合に、神の祝福すら感じた。

ただの、かんちがい。

いや、それともちがうのか?
リュカは私を愛している?
なら、なぜイネスと寝た?しかも孕ませた?

気が狂いそうだ。

リュカは初めてのように怯え、娼婦のように奔放だった。

私は一体どっちのリュカを信じたらいいのだ?
リュカは私の恋人なのか、それとも単なる遊びだったのか。
交渉を有利に進めるために私をたらしこんだ?
睦言を真に受けた私が、世間知らずだったのか?

「ははは。効果はあったな」乾いた笑いが口をつく。
考えてみたら、リュカは妙に慣れていた。

『楽しみましょう』

私を煽ったリュカのセリフ。そんなこと、経験がなければ言うわけない。
いや、経験があってもいい。
父に犯されたのはカウント外だ。
だが、あの家庭教師と風呂場で情事にふけっていた・・・

手慣れていたということか?
女とも手当たり次第、男も・・・
まるで、火に群がるちいさな羽虫のようにリュカに群がる者たち。
私はその一員に入れていただいたということなのか?

いや、そんなはずはない。
リュカを信じたい。

そうだ。イネスは昔から思い込みが激しかった。
リュカを愛しているというのは本当だろう。だが、どうせ長続きしないはず。
公爵と平民を天秤にかけるほど愚かではあるまい。

イネスの勘違いに違いない。
そうだ、そうに違いない。

必死で自分を納得させようとしたが、心の奥底で何かがそれはちがうと声を上げる。
だが、どうしても信じたい。
あのこどものころ、ふたりで湖で遊んだ日々のように。
楽しいばかりの子供時代ではなかった。でも、ふたりの時間だけは宝石のように光り輝く大切な思い出だ。

思い出を汚したくない。
ふたりの未来を諦めたくない。
リュカの過去など、消してやる。私が全て上書きすればいいだけのこと。

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