兄さん、あんたの望みを教えてくれよ。

藍音

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第四幕〜終わりの始まり〜

158 【マティアス】魚

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殺風景な部屋の中、リュカがくちびるを震わせ、うつむいた。
リュカが自信をなくした時のくせだ。
幼い頃と変わらないその仕草に、胸の奥の何かがうずいた。

「リュカ、大丈夫だ。大したものじゃない、気にするな」
「でも、兵士は大切なものだからって、わざわざ葬儀のさなかに届けに来たと言ってました。閣下の遺品なのに・・・本当に情けない」
「いいんだ」

重ねていうと、リュカが顔を上げた。

「兄さん・・・ごめんなさい」

目をうるませ、桃色のくちびるを震わせたリュカを見た瞬間、私の中の何かが弾けた。
ぐらりと世界が代わった。他人行儀な「兄上」ではなくなったことも、原因のひとつだったかもしれない。

「リュカ」

リュカを抱き寄せると、温かいからだが吸いこまれるように私の身体にぴったりとおさまり、うなじからは桃の香りがした。
この部屋に来た理由も、どうでも良くなってしまう。

「兄さん、ごめんなさい」
「そんなにあやまるな」
「でも・・・ごめんなさい」

リュカの言葉に含まれた意味・・・手紙をだめにしてしまったことだけではない。言外の意味。
あまりにも、ふたりが離れていた時間が長すぎた。
互いの存在はあまりにも大きすぎて、その不在を埋めるなにかが必要だった。
だが、今このとき、ふたりきりでいられる時間は何ものにも代えがたい。
私とて、長い不在で出征前とは別人のように変わっている。
そして、それは、もうどうしようもないことなのだ。

正直、まだリュカがしたことすべてを許せるのかはわからない。
ふたたび信じられるのかもわからない。
だが、リュカが腕の中にいる夢のような時間を傷つけたくない。

「いいから。もう何も言うな」

私はリュカを抱き寄せ、そっとなめらかな黒髪をなでた。

「兄さん・・・」

私の中から、深い渇望が噴き出してくる。
あまりにも幼かったリュカ。リュカを守るために、必死で自分の欲を押さえつけた。いま、腕の中にいるリュカは、成長し、大人になった。大切に抱けば、恐ろしい結果を招かないのでは?
抱きたい。
リュカを抱きたい。

欲望に喉がからからにかわき、なんとか唾液をのみくだした。
どれほど長いこと離れていたんだろう。
どうしてこんなに長く離れなければならなかったんだろう。
いや、そう仕組んだ男はもう死んだ。これ以上邪魔させない。

眼の前にはリュカの熟れたくちびるが、いまにもキスしてほしいと言わんばかりにゆるく開かれていた。
少し頭を下げるだけで、口と口が触れ合いそうだ。

リュカの若草色の瞳と私の目がピタリと合った。
周囲の喧騒も風も何もかもが止まった。
ただ、目の前にいるリュカだけ。リュカだけが世界に存在している。

私達は血を分けた兄弟だ。だが、それがどうした。
モラルなんて、互いの前には無力だった。
心の奥にずっと隠し続けていた渇望があらわになり、リュカの吐息がふるえた。
もう、一瞬たりとも離れていられない。
私は顔を下げ、リュカのくちびるに触れようとした。

とんとん。

ドアを叩くノックの音が聞こえた。

とんとん。

誰かが来た。
その意味を理解すると同時に、ふたりとも後ろに飛び退いた。

「失礼いたします」

ガチャリとドアが開く音とともに、神父が顔を出した。

「お客様はお帰りになりましたか?」
「あ、ああ」
「帰りました!」

同時に発した声は、おかしなほどうろたえていた。

「そうですか。では、たいへん恐縮ですが、こちらでの作業が残っておりまして。今日は大きな葬儀のため参列された方も多く、手狭ですので・・・」
「あ、そうだな。すまない」
「すみませんでした」

また私とリュカは同時に答えた。

「仲の良い兄弟でいらっしゃるんですね。これから、大変だと思いますが、ご兄弟仲良く支え合ってお過ごしください」

神父は微笑み、私達に退出をうながした。
礼を言い、教会の正面玄関前に向かう。葬儀の参列者の見送りがまだ残っていた。

「リュカ」
「はい」

あるきながら何気なさをよそおって話しかけると、リュカが私を見上げた。
その瞳には、先程までのなごりか、かすかな熱が残っていた。

「その・・・今日は本屋敷に泊まりなさい」

リュカの瞳が見開かれ、そして伏せられた。リュカの耳は真っ赤に染まっていた。

「・・・はい」

聞き取れないほど小さな声で囁かれた声は、なぜか、しっかりと聞こえた。
体中に熱がめぐる。
いますぐ抱きしめ、口づけしたい。

「リュカ」

思わず手を取り口をつける。
リュカの手は白く滑らかで、小川を泳ぐ魚のように光っていた。

「兄さん」

リュカの顔は真っ赤に染まり、目は潤んでいる。赤く染まった目尻が艶っぽかった。
しかもくちびるは今すぐ口づけてほしいと、かすかに開かれている。

「そんな顔で見たら、人がいようと口づけてしまいそうだ」

私が楽しげに口元をゆがめると、リュカは慌てて顔を伏せた。

「も、もどるまでにはなおりますので」
「ははは」

かつてのふたりが戻ってきた。
胸の奥に陽だまりができたようにぽかぽかと温かくなり、まるでリュカの指先のような魚が楽しげにはねた。


参列者の見送りに戻ると、目を吊り上げたイネスとシモンが待っていた。

「すまなかった。軍隊時代の部下が来てくれたのでね」

そう言いながら、リュカを横目で見ると、無表情に戻っていた。でも目尻が赤く染まり、先程の名残が残っている。
私の胸の奥では、また魚がはね、尾びれで水を叩いた。

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