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第四幕〜終わりの始まり〜

141 【リュカ】灰

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イネスとなんのために寝たかって?
決まってる。兄さんと結婚させないためだ。
高位貴族の令嬢は結婚の際に純潔であることが求められる。

なぜなら、違う男の子供をはらんだまま嫁がれたら困るからだ。
それだけじゃない。ふしだらな女は結婚してからもふしだらだと歴史が証明している。
領主の妻が馬丁の子を産んだことだってある。

というわけで、イネスはもう兄と結婚できない。
婚前交渉には一つだけ例外がある。
当事者同士、つまり兄とイネスの関係なら許容される。婚約して結婚の約束をしている若い男女だからだ。
しないほうがいいが、万一そうなってしまったとしても仕方ないと婚前交渉には片目をつぶって通してやるのが一般的だ。
イネスは処女だった。
俺の作戦は成功だ。

俺がイネスと結婚するかって?
なんで?
俺、アイツのこと大嫌いなんだけど。
甘ったれた、ロマンス中毒。
なんで俺があいつと結婚する必要があるの?
ただ味見しただけなのに。しかも、あまり好みの味じゃない。

それに、まあ、百歩譲ってイネスと駆け落ちしたとしよう。
あいつは3日で耐えられなくなる。賭けてもいい。
これから俺は公爵家を出て、普通に働く普通の暮らしをするつもりだ。
イネスはそんな生活には耐えられない。さぞかし「みじめな」暮らしだと思うことだろう。
あいつが、俺の食事を用意したり、洗濯や掃除をするなんて、考えられないよ。
そんなこと、する必要があるって考えたこともないんじゃないかな。

あの日、コトが終わった後、ぼんやりと宙をながめていた。
俺はイネスの肌が触れるのがいやで、ベッドの端に寄って窓をみていた。
月明かりが室内を照らし、白いカーテンがかすかな風に揺れていた。
イネスの恋愛中毒は最高潮に達し、「これぞ真実の愛」「愛する殿方の腕の中でうんぬんかんぬん」とほざいていたけど、半分も聞いていなかった。

ただ、重苦しい胸の痛みに、目を閉じることすらできなかった。



長く続いた戦争は、隣国の参謀を本国に返し、その代償として我が国から即時撤退し、賠償金を支払うことを条件に停戦合意に至った。
来月には講和条約を結び、両国王により終戦が宣言される運びとなっている。
停戦と同時に、互いに国境から軍を引き、開戦前から常駐していた国境警備隊のみを残して撤退することとなった。

兄が、帰ってくる。

ずっと待ち続けてきた兄の帰還だったはずなのに、その日が近づくと不安でたまらなくなった。
何が不安なのか、自分ではわからない。
たぶん、すべてだ。

兄に顔向けできないことばかりしてきた。
学園寮で次々にメイドと情事にふけり、家庭教師との変態プレイ。仕上げは兄の婚約者と寝た。
学業成績はそれでも健闘して中くらい。
振り返ってみると、ろくな人間じゃない。
そして、自分でも忘れたいが・・・父親に犯された人間だ。

兄はすべて知ってるんじゃないだろうか。
兄の鋭い視線が俺の身体を射抜き、見通してしまうんじゃないだろうか。
それとも自白剤を飲んだ人のように、ペラペラと話してしまうかもしれない。
会えなかった5年間の俺の人生が素通しのガラスみたいに全部見えてしまったら、恥ずかしくて生きていられない。
なぜ別れた時の、きれいな俺のままでいられなかったんだろう。
どこで、なにが狂ったんだろう。

怖い。兄と会うのが怖くて怖くてたまらない。
軽蔑されるのが、怖い。

でも、生きて帰ってくれた。
そのことを噛みしめると、瞼が熱くなった。
本当は、何よりも、嬉しかった。
ただ、ただ、兄の無事の帰還を、神に感謝した。


帰還の前日、俺は隠し扉の向こうにぎっしりと詰め込まれた兄への手紙を取り出した。

イネスと文通した手紙は、後にイネスがごねた時の証拠品として取っておこう。
脇が甘いあいつは、情事の後にも感想文のような手紙をよこしていた。
長年の不貞と情事の紛れもない証拠だ。これだけは捨てられない。
イネスが気持ちを変えても、これだけの証拠を前に兄と結婚できるはずはない。
なんならあいつの親につきつけてもいい。
触りたくもないが、紐で十字にしばり、また隠し扉の奥に突っ込んでおいた。

兄への手紙はこぼれ落ち、床に散らばった。恋の残滓をつまみ上げると、涙が一滴こぼれ落ちた。
一体何通書いたんだろう。遠く戦地に会って、手紙を書くことすら許されない兄。
数百通にも上る俺の想いは、隠し扉の中に溢れんほど詰まっていた。
俺は、手紙の中で兄さんに相談し、甘え、報告し、そして謝っていた。何よりも、無事の帰還を祈っていた。
ああ、俺、こんなに兄さんのことが好きだったんだ。
どうしようもなく、抗いようもない運命の中、心から愛していると告げることすらできなかった。
手の中にある俺の想いは、今までそうだったように、誰にも知られることなく消えていく。

俺は季節外れの暖炉に火を入れた。
一通、また一通と俺の想いが炎にのまれ、最後に一瞬鮮やかなオレンジ色に燃え上がり、黒くそして灰へとかたちを変えた。
兄さんは俺を許さないだろう。軽蔑されるだろう。父との一件を知られたら嫌悪されるに違いない。
もう、俺は、兄を愛していると思うことすら許されなくなったのだ。

俺のあたまのてっぺん。髪の毛の先から、足の先まで。
全部兄さんでいっぱいだ。
どこを切っても兄さんへの想いが詰まってる。
ああ、俺、兄さんの足元に落ちる影に生まれてくればよかった。

そうすれば、ずっとそばにいられた。こんなに苦しむこともなかったのに。

炎は思いを焼き尽くし、ただ灰だけが残った。火かき棒を暖炉の中に差し入れると、それはかさかさと音を立ててくずれ、粉々になった。

終わったんだ。これが、終わるということ。
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