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第二幕〜マティアス〜
82 まぼろし
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本屋敷に着くと、ベネディクトが心配そうに待ち構えていた。
馬車から降りる時、使用人が傘を差しかけたが、断って少し歩いた。
今は雨に濡れたかった。
心だけではなく、体もずぶ濡れになれば、少しは楽になれるかもしれない。
「ぼっちゃま」
玄関先から私を追いかけてきたベネディクトが後ろから声をかけてきた。
「いつか」私は空を仰いだ。「痛みは消えるものか?」
「ぼっちゃま・・・」
沈黙が落ち、雨の音だけが響いた。
「私にはわかりません。ただ、大抵の場合は時が経てば痛みは薄れます」
「大抵ではない場合は?」
「ごく一部の者は、時が経てば経つほど辛くなるようです」
「そうか」
この痛みがいつか無くなる日が来るのか。
その日は、いつだ?
1年後?2年後?それとも10年後?
予想もつかない。ただ、その日は永遠にやってこないような気もした。
「もう、リュカには会わない」
「はい」
「何も聞くな」
「はい」
「だが、一つだけ。お前から伝えてくれ。父には気をつけるようにと。それも弟妹も含めてな。特にリュカだが」
「承りましてございます。私からしかと伝えさせていただきます」
「うむ」
目の奥はちくちくと痛み続けている。
でも、涙は出ない。
それが私の務めだから。
「部屋に戻る」
踵を返して屋敷に向かうと、後ろからベネディクトの控えめな足音が付いてきた。
あとはベネディクトがうまくやってくれるだろう。
もとの灰色の日々に戻るだけのことだ。
新学期が始まり、リュカが中等部に入学した。
新入生でごった返す式典の中、遠くからリュカの黒い頭が見えた。
リュカは始めて屋敷に来た時のように固く緊張しているように見えた。
私が生徒代表として挨拶するときも、リュカを目で追った。
だが、二人の目があうことはなかった。
高等部と中等部では、まず行動範囲は被らない。
もう少し年が近ければ、偶然会う機会もあっただろう。
だが、私たちの年の差は、やはりここでも大きな壁になった。
共に居られるはずの貴重な1年間は、話すこともなく、ただ静かに流れていった。
季節は巡り、春になっていた。
「兄上」
教室移動の際に、突然、リュカに声をかけられた。
ドキンと胸が跳ねる。
「あ・・・」
愛しいその名すら出てこない。リュカはニコニコと以前と代わりなく微笑みかけてくる。
だが、最後に別れた日から背は伸び、成長していた。あれほど待ち望んだリュカの成長も今はもう関係がなくなってしまっていた。
「にいちゃん、会いたかった」
リュカが私に一歩近づいた。
触れたら歯止めが効かなくなってしまう。
後ずさると、とん、と背中に何かが当たった。
「おい、どうしたんだ?」
背中に当たっていたのは友人の肩だった。「なんでそんな幽霊でも見たような顔をしているんだ?」
「え?」
振り返ると誰もいなかった。
「リ・・・あー、誰かそこにいなかったか?」
「いや?さっきから一人で一点を見つめてぼーっとしていたぞ?もしかして本当の幽霊を見たのか?それとも体調が悪いのか?」
私は頭を振った。「大丈夫だ。なんともない」
まだ、リュカを忘れられる日は遠いようだ。
リュカのまぼろしはその後頻繁に出て私を悩ませることになった。
だが、何度も繰り返されるリュカのまぼろしに、だんだんと慣れていった。
私たちの過去もいきさつも何もなかったかのように微笑みかけるリュカ。
まぼろしだろうが、そばにいてくれればそれでいい。
時には微笑みを返したくなる。
だが、まぼろしを相手に微笑みかけては、おかしな噂にもなりかねない。
いつしか、まぼろし相手にも動揺せず、冷ややかな視線を向けられるようになっていった。
本物のリュカは、はるか遠かった。
公爵家の兄弟は不仲だと噂されるほど接点がなく、目を合わせることもない。
高等部と中等部の交流の際も、リュカは後ろに控え、出てこない。
私を避けていることは明らかだった。
時は冷たく流れ、一瞬も戻ってはくれなかった。
だから、突然リュカに話しかけられたときもいつものまぼろしだと思った。
「兄さん」
また背が伸びたリュカが、緊張しておずおずと話しかけてくる。
その日は、私の卒業式。
もう、学び舎には戻らない最後の日、リュカが私に近寄り、話しかけてきた。
周りから全てが消え、二人きりになった。
とうの昔から望んでいたように、二人だけの世界。
まるで海の底。音も色もない世界で二人きり。
リュカ、お前と私のふたりだけ。
馬車から降りる時、使用人が傘を差しかけたが、断って少し歩いた。
今は雨に濡れたかった。
心だけではなく、体もずぶ濡れになれば、少しは楽になれるかもしれない。
「ぼっちゃま」
玄関先から私を追いかけてきたベネディクトが後ろから声をかけてきた。
「いつか」私は空を仰いだ。「痛みは消えるものか?」
「ぼっちゃま・・・」
沈黙が落ち、雨の音だけが響いた。
「私にはわかりません。ただ、大抵の場合は時が経てば痛みは薄れます」
「大抵ではない場合は?」
「ごく一部の者は、時が経てば経つほど辛くなるようです」
「そうか」
この痛みがいつか無くなる日が来るのか。
その日は、いつだ?
1年後?2年後?それとも10年後?
予想もつかない。ただ、その日は永遠にやってこないような気もした。
「もう、リュカには会わない」
「はい」
「何も聞くな」
「はい」
「だが、一つだけ。お前から伝えてくれ。父には気をつけるようにと。それも弟妹も含めてな。特にリュカだが」
「承りましてございます。私からしかと伝えさせていただきます」
「うむ」
目の奥はちくちくと痛み続けている。
でも、涙は出ない。
それが私の務めだから。
「部屋に戻る」
踵を返して屋敷に向かうと、後ろからベネディクトの控えめな足音が付いてきた。
あとはベネディクトがうまくやってくれるだろう。
もとの灰色の日々に戻るだけのことだ。
新学期が始まり、リュカが中等部に入学した。
新入生でごった返す式典の中、遠くからリュカの黒い頭が見えた。
リュカは始めて屋敷に来た時のように固く緊張しているように見えた。
私が生徒代表として挨拶するときも、リュカを目で追った。
だが、二人の目があうことはなかった。
高等部と中等部では、まず行動範囲は被らない。
もう少し年が近ければ、偶然会う機会もあっただろう。
だが、私たちの年の差は、やはりここでも大きな壁になった。
共に居られるはずの貴重な1年間は、話すこともなく、ただ静かに流れていった。
季節は巡り、春になっていた。
「兄上」
教室移動の際に、突然、リュカに声をかけられた。
ドキンと胸が跳ねる。
「あ・・・」
愛しいその名すら出てこない。リュカはニコニコと以前と代わりなく微笑みかけてくる。
だが、最後に別れた日から背は伸び、成長していた。あれほど待ち望んだリュカの成長も今はもう関係がなくなってしまっていた。
「にいちゃん、会いたかった」
リュカが私に一歩近づいた。
触れたら歯止めが効かなくなってしまう。
後ずさると、とん、と背中に何かが当たった。
「おい、どうしたんだ?」
背中に当たっていたのは友人の肩だった。「なんでそんな幽霊でも見たような顔をしているんだ?」
「え?」
振り返ると誰もいなかった。
「リ・・・あー、誰かそこにいなかったか?」
「いや?さっきから一人で一点を見つめてぼーっとしていたぞ?もしかして本当の幽霊を見たのか?それとも体調が悪いのか?」
私は頭を振った。「大丈夫だ。なんともない」
まだ、リュカを忘れられる日は遠いようだ。
リュカのまぼろしはその後頻繁に出て私を悩ませることになった。
だが、何度も繰り返されるリュカのまぼろしに、だんだんと慣れていった。
私たちの過去もいきさつも何もなかったかのように微笑みかけるリュカ。
まぼろしだろうが、そばにいてくれればそれでいい。
時には微笑みを返したくなる。
だが、まぼろしを相手に微笑みかけては、おかしな噂にもなりかねない。
いつしか、まぼろし相手にも動揺せず、冷ややかな視線を向けられるようになっていった。
本物のリュカは、はるか遠かった。
公爵家の兄弟は不仲だと噂されるほど接点がなく、目を合わせることもない。
高等部と中等部の交流の際も、リュカは後ろに控え、出てこない。
私を避けていることは明らかだった。
時は冷たく流れ、一瞬も戻ってはくれなかった。
だから、突然リュカに話しかけられたときもいつものまぼろしだと思った。
「兄さん」
また背が伸びたリュカが、緊張しておずおずと話しかけてくる。
その日は、私の卒業式。
もう、学び舎には戻らない最後の日、リュカが私に近寄り、話しかけてきた。
周りから全てが消え、二人きりになった。
とうの昔から望んでいたように、二人だけの世界。
まるで海の底。音も色もない世界で二人きり。
リュカ、お前と私のふたりだけ。
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