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第二幕〜マティアス〜

80 拒絶

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馬車の用意ができておらず、待ちきれずに馬で下屋敷に向かった。
「ぼっちゃま、護衛が間に合いません」
「ついてこられるものだけ、来い」
私の芦毛を急ぎ用意させ、まっすぐに下屋敷に向かった。下屋敷の中年の家令は、先触れもなく訪れた私をみて腰をぬかさんばかりに驚き、転がり出るようにして私を迎えた。

「マティアス様、急な起こしで、何の準備もできておりませんが・・・」
「何もいらん。リュカと話がしたいだけだ」

家令に乗馬用の鞭と手袋を渡し、応接室にリュカを呼び出す。
本屋敷に比べれば随分と簡素な作りだ。
ただ、それはどうでもよかった。
イライラしながら待っていると、リュカが小さなノックの音とともに部屋に入ってきた。

「リュカ!」
今すぐ私の勘違いだと言ってくれ。どうか、間違いだと。先ほどから胸を突く痛みは私の思い過ごしだと・・・
「兄上」リュカが胸に手を当て、丁寧にお辞儀をした。
「ようこそおいでくださいました。急な起こしゆえ、十分なおもてなしもできず、申し訳ありません」
「リュカ、一体何を言ってるんだ?何故そんな他人行儀な・・・」

リュカの顔から一切の表情が消え、透明な幕が下りたようにすっと遠ざかった。

「当然の礼儀でございます」
「リュカ・・・」

ぎゅっと胸が締め付けられるように痛み、うなじの辺りに急にこわばりを感じる。

「そんな風に距離を置かないでくれ、リュカ」

私がリュカを抱き寄せようとそっと手を伸ばすと、リュカは目を細め、すっと後ろに身を引いた。

「おやめください」
「何故?何故なんだ、急に・・・」

無表情だったリュカの瞳に痛みが走り、頬が歪んだ。

「もう、嫌なんです。これ以上は耐えられません」
「リュカ」
「兄上が好きでした。あの冷たい家で優しくしてくれたのは兄上一人でしたから。ずっと、兄上が僕の世界の全てでした」
「リュカ、なら何故」

リュカは目をそらし、横を向いた。こんな時でもリュカの白い肌は美しく、夕方の日差しを弾いて、産毛が淡く光っていた。

「兄上には、僕以外にも世界がおありでしょう。それにもう、女の代わりにされるのはごめんです」
「誤解だ・・・!」
「いいえ!」悲鳴のようなリュカの声が遮った。
「もう結構。何も聞きたくありません。僕は知ってるのですよ。僕とイネスは同い年ですからね。いい練習台になったことでしょう。もうお役御免にさせていただきます」
「まさか、本気で言っているわけでは無いんだろう?」
「はっ!これ以上ないほど本気ですよ。なんなら廃嫡にしてくださって結構!二度と会いたくもなければ、話もしたくありません。僕だって自分の身を守るくらいのことは思いつくんですよ」

吐き捨てるように言った言葉は、私だけではなくリュカのことも傷つけているように思えた。
容赦のない言葉の刃が、私たちが大切にしてきたものを切り裂いていく。

「リュカ、聞いてくれ」
「嫌です!もうお帰りください。どうか。少しでも情けがあるのなら、どうか」

リュカの顔が怒りで真っ赤に染まり、そしてくしゃりと表情が崩れ、目に走った痛みとともに真っ白に変わった。
ポロリと涙が一滴落ち、リュカは顔を伏せた。
「どうか、どうか・・・」
リュカの声は大きく震え、涙声になっている。
俯いた顔は見えないが、足元にポタポタと涙の雫が落ちた。

「リュカ、どうか聞いてくれ。誤解だ。女の代わりになどしていない」

それとも、リュカに無断で体を触ったことがバレているのだろうか。
リュカは自分が女の代わりにされていると思い込んだ理由は、それか?
しくじった。もう少し自分の欲を抑えるべきだったのに。
つい、目先の欲に駆られてしまった。愚かな・・・

リュカの喉からはこらえきれない嗚咽が漏れている。
その痛みに満ちた姿に、ベネディクトが言った理由がわかった。この姿を見てしまっては無理強いはできない。

「リュカ、わかった。今日のところは、ここまでにしておこう。また少し落ち着いたら話をしよう」

私は精一杯冷静さをかき集め、なだめるようにリュカに言った。

「いいえ。二度とお会いしません」

リュカは顔を上げ、口元をぎゅっと引き締めた。にぎりしめた拳が震えている。
そしてその瞳には深い痛みと決意がはっきりと浮かんでいた。

部屋の中には重い空気が垂れ込め、息をするのも苦しかった。
まるで底なし沼に沈み込んでいくように。泥が目や鼻から入り込んでくる。口の中に溢れる苦い味は、きっと泥の味に違いない。
二人とも黙り込み、触れれば切れるほどの沈黙が部屋に満ちた。

「失礼します」ノックの音に空気が揺らいだ。そこには、ベネディクトがいた。
「マティアス様、今日のところは」
「そうだな」

ベネディクトは馬車を用意していた。
帰り道、騎馬では落馬の危険があると予想していたのだろう。
心の底から動揺していた私は大人しく馬車に乗り込むと、目を閉じ、屋敷まで口を開かなかった。
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