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第二幕〜マティアス〜
51 8歳 マティアス
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「またお子を産ませるなんて、どういうおつもりですの!!」
母の金切り声が響き渡った。
母が父に声を上げることは滅多にない。しかし、いざ悋気が起きると、それは凄まじかった。
(また、子が産まれたのか)
屋敷にいた者たちは皆同じことを思ったはずだ。
今更、大声を出しても何も変わるまい。
しかも、母と父は普段から決して仲がいいとは言えない。
そもそも寝室すら離れている。
貴族の夫人は跡取りを産んだあと、夫以外の恋人を作るのが世の常だ。
いかに周りに崇拝者を集めるかを競っているとも聞く。
気の利いた夫人は音楽サロンや文学サロンを主宰し、若い才能を伸ばしつつ自分も楽しみ、ミューズとして崇められる。作品を捧げられれば、芸術の理解者として賞賛されるものだ。
仲のいい夫婦など幻想だと誰もが知っている。そもそも、結婚式の日に初めて顔をあわせた相手と愛し合うことなど滅多にあるまい。
なぜ母はいつも感情的になるのか、私には理解できなかった。
感情を乱し、しかもそれを他人に悟られるなど、高位貴族としてあるまじき行為だと、常に教えられていた。
政略結婚で結ばれた夫婦に生まれたたった一人の子供として、使用人たちに育てられた私は、父と母とはそれほど深い感情的なつながりを持たなかった。使用人たちにとっても、やはり私は主君の子であり、主従関係にある以上彼らとの間には常に透明な壁があった。
「旦那様、私の話を聞いてください!」
図書室から玄関ホールを渡り自室に向かう途中、母の怒鳴り声が聞こえてきた。
「旦那様はあの女に騙されているんです」
この後のパターンは見えている。
父は無言で家を出て愛人の家に避難し、母は何かに当たり散らす。
この間は、玄関に生けてあった花瓶の花を撒き散らした。
家宝の花瓶を割るほど正気を失ってはいなかったらしい。
その前は、なんだったか。そうそう、テーブルの上の茶器を全て床に落として叩き割ったんだった。
大騒ぎの後、3日間寝込み、世界で一番辛い思いをしているのは自分だと嘆く。
まあ、好きにすればいい、私もそしておそらく父もそう思っていた。
父は公務と愛人との逢瀬に、私は学業や鍛錬で常に忙しかったから。
父はこの私から見ても明らかなほど、愛人を溺愛していた。
次々に子を産ませ、私には見たことのない兄弟がすでに3人いるらしい。
愛人は公爵家のメイドだったそうだ。
使用人たちの間でヒソヒソと囁かれる噂によると、父は家のあちこちで彼女を犯していたらしい。
ただ、父は特別女好きというわけではなく、このメイドだけに異常なまでな執着を見せ、追い回していたそうで、結局のところ、偉大なる公爵様がたった一人の愛人で満足してくれるのなら、それは良いこととみなされたようだ。
もちろん、母は許さなかったが。
若いメイドを溺愛していた父は、敷地内に家を与えたかったようだが、それは叶わず、城壁内の別の屋敷に彼女を囲った。だが、ほどなくして隠すように小さな家に移したそうだ。
数ヶ月後、メイドは子を産んだ。
私の兄弟、第一号だ。
生まれた子は、男の子だと噂が流れてきた。
弟とは、兄弟とはどのような存在なのだろう。
想像もつかない。
でもこの世の中に血を分けた存在がどこかにいるという事実は、どこかむずがゆく、なんとなく心が浮き立った。
周りを見れば他人ばかり。
母は不平不満の塊だし、父は私に興味がない。学業と鍛錬をしっかりしていれば、あとはどうでもいいと思っているのが明らかだった。
そんな中、唯一私に近かったのは家令のベネディクトだった。
この頃はまだ執事の一人に過ぎなかったベネディクトは、その勤勉な仕事ぶりと優秀さでメキメキと頭角を現していったところだった。
私の教育も鍛錬もこなし、通常の業務も人並み以上にやってのけた彼の休んでいる姿を見たことがなかった。
髪の毛一筋も乱さず、常に髪をかっちりと後ろに流し、モノクルと黒の制服に身を包んだ彼は、常に仕事をしているか勉強しているかのどちらかだったそう。食事の時ですら、本を手放さなかった彼は、家庭の事情が許せば大成しただろうと言われていた。
一応婚約者もいた。次代にこの家を引き継ぐのが私の務めだからだ。
生まれた時から結婚することを決められていたイネス。
互いに距離を保ち、礼儀正しく、相手が不快にならないように。
大過なく跡取りを儲ければ、自由になれる相手。
二人ともそう思っていれば、親愛も友情も生まれるはずはなかった。
この世のどこかにいる兄弟はどんな子供なんだろう。
兄弟というのはどんなものなんだろう。
絵本や書物の中では仲良くしたり喧嘩したりする存在として描かれている。
そんなことができたら、楽しいんだろうか。うれしいんだろうか。
私はいつしか、まだ見ぬ兄弟に、ほのかな憧れを抱くようになっていった。
母の金切り声が響き渡った。
母が父に声を上げることは滅多にない。しかし、いざ悋気が起きると、それは凄まじかった。
(また、子が産まれたのか)
屋敷にいた者たちは皆同じことを思ったはずだ。
今更、大声を出しても何も変わるまい。
しかも、母と父は普段から決して仲がいいとは言えない。
そもそも寝室すら離れている。
貴族の夫人は跡取りを産んだあと、夫以外の恋人を作るのが世の常だ。
いかに周りに崇拝者を集めるかを競っているとも聞く。
気の利いた夫人は音楽サロンや文学サロンを主宰し、若い才能を伸ばしつつ自分も楽しみ、ミューズとして崇められる。作品を捧げられれば、芸術の理解者として賞賛されるものだ。
仲のいい夫婦など幻想だと誰もが知っている。そもそも、結婚式の日に初めて顔をあわせた相手と愛し合うことなど滅多にあるまい。
なぜ母はいつも感情的になるのか、私には理解できなかった。
感情を乱し、しかもそれを他人に悟られるなど、高位貴族としてあるまじき行為だと、常に教えられていた。
政略結婚で結ばれた夫婦に生まれたたった一人の子供として、使用人たちに育てられた私は、父と母とはそれほど深い感情的なつながりを持たなかった。使用人たちにとっても、やはり私は主君の子であり、主従関係にある以上彼らとの間には常に透明な壁があった。
「旦那様、私の話を聞いてください!」
図書室から玄関ホールを渡り自室に向かう途中、母の怒鳴り声が聞こえてきた。
「旦那様はあの女に騙されているんです」
この後のパターンは見えている。
父は無言で家を出て愛人の家に避難し、母は何かに当たり散らす。
この間は、玄関に生けてあった花瓶の花を撒き散らした。
家宝の花瓶を割るほど正気を失ってはいなかったらしい。
その前は、なんだったか。そうそう、テーブルの上の茶器を全て床に落として叩き割ったんだった。
大騒ぎの後、3日間寝込み、世界で一番辛い思いをしているのは自分だと嘆く。
まあ、好きにすればいい、私もそしておそらく父もそう思っていた。
父は公務と愛人との逢瀬に、私は学業や鍛錬で常に忙しかったから。
父はこの私から見ても明らかなほど、愛人を溺愛していた。
次々に子を産ませ、私には見たことのない兄弟がすでに3人いるらしい。
愛人は公爵家のメイドだったそうだ。
使用人たちの間でヒソヒソと囁かれる噂によると、父は家のあちこちで彼女を犯していたらしい。
ただ、父は特別女好きというわけではなく、このメイドだけに異常なまでな執着を見せ、追い回していたそうで、結局のところ、偉大なる公爵様がたった一人の愛人で満足してくれるのなら、それは良いこととみなされたようだ。
もちろん、母は許さなかったが。
若いメイドを溺愛していた父は、敷地内に家を与えたかったようだが、それは叶わず、城壁内の別の屋敷に彼女を囲った。だが、ほどなくして隠すように小さな家に移したそうだ。
数ヶ月後、メイドは子を産んだ。
私の兄弟、第一号だ。
生まれた子は、男の子だと噂が流れてきた。
弟とは、兄弟とはどのような存在なのだろう。
想像もつかない。
でもこの世の中に血を分けた存在がどこかにいるという事実は、どこかむずがゆく、なんとなく心が浮き立った。
周りを見れば他人ばかり。
母は不平不満の塊だし、父は私に興味がない。学業と鍛錬をしっかりしていれば、あとはどうでもいいと思っているのが明らかだった。
そんな中、唯一私に近かったのは家令のベネディクトだった。
この頃はまだ執事の一人に過ぎなかったベネディクトは、その勤勉な仕事ぶりと優秀さでメキメキと頭角を現していったところだった。
私の教育も鍛錬もこなし、通常の業務も人並み以上にやってのけた彼の休んでいる姿を見たことがなかった。
髪の毛一筋も乱さず、常に髪をかっちりと後ろに流し、モノクルと黒の制服に身を包んだ彼は、常に仕事をしているか勉強しているかのどちらかだったそう。食事の時ですら、本を手放さなかった彼は、家庭の事情が許せば大成しただろうと言われていた。
一応婚約者もいた。次代にこの家を引き継ぐのが私の務めだからだ。
生まれた時から結婚することを決められていたイネス。
互いに距離を保ち、礼儀正しく、相手が不快にならないように。
大過なく跡取りを儲ければ、自由になれる相手。
二人ともそう思っていれば、親愛も友情も生まれるはずはなかった。
この世のどこかにいる兄弟はどんな子供なんだろう。
兄弟というのはどんなものなんだろう。
絵本や書物の中では仲良くしたり喧嘩したりする存在として描かれている。
そんなことができたら、楽しいんだろうか。うれしいんだろうか。
私はいつしか、まだ見ぬ兄弟に、ほのかな憧れを抱くようになっていった。
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