兄さん、あんたの望みを教えてくれよ。

藍音

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前奏曲〜プロローグ〜

1 半地下の部屋

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 今しかない。

 リュカは隣に眠る男に目をやった。
 ついさっきまでリュカの中を蹂躙していた男は眠りこみ、深い寝息をたてていた。
 いつも男の眠りは浅く、こんなふうに無防備に眠りこむことはめったにない。

 小さな明かりとりの窓からは、夜明けの光がさしこみ、土と水のにおいが雨の訪れを告げていた。

 ここは、石壁に囲まれた冷たくほの暗い半地下の部屋。
 長く閉じ込められぼんやりとした頭は、考えることを拒否し、ただここから逃げ出したいとそれだけを願うようになっていた。
 部屋には最低限のものしかない。粗末なテーブル。その上には、ランタンと食べ物が入ったバスケット。床には水の入ったたらい、数枚のリネンと質素な服・・・それなのに、中央には大きなベッドが置かれ、この部屋をしつらえさせた男の目的を雄弁に物語っていた。
 ベッドのすぐ側の壁からは太い鋼鉄製の鎖。その先にあるかせは、ぽっかりと口をあけたまま床に放置されている。

 窓の外からは走り出した雨の音が聞こえてきた。ついよみがえりそうになる思い出を恐れて耳をふさぐ。
 だが、足かせの冷たい感触を思い出すと、ゾクリと背中に震えが走り、心が冷えた。



 ”愛してるよ”


 まるでそれが本当のことであるかのように男はささやき、リュカを抱く。
 その度にリュカの心はえぐられたように血を流し、痛んだ。

 情事が終わればすぐかせがリュカの足首を食む。
 まるでヘドロの海でもがく魚。どうやったってここから逃れることができない。
 眼の前に横たわるのはこのまま男の欲望の餌食になり、いつしか飽きられて息絶えるだけの暗い未来。

 息を殺し、そろそろと男から身を離す。眠りをさまたげないように、ゆっくりと。
 少しずつ遠ざかり、床に足の裏が触れると、ほっとため息がでた。
 だが同時にひんやりと寒さを感じる。そんな自分が嫌だ。そのとき、後ろ穴からドロリと情事のなごりが流れ出し、我に返った。体中に飛び散った二人分の体液も落とさないと。ため息をつきながら、ゴシゴシとリネンでぬぐい落とした。

(もう、無理だ。俺も、あいつも、もう無理なんだ)

 こころのなかでつぶやき、服を探すため、部屋の中を見回した。

(こんな機会、次、いつ巡ってくるかわからない。立ち去らないと)

 未練を断ち切るように男の寝顔を見ると、降り出した雨が激しさをました。


 殴られた尻も乱暴に貫かれた後穴も、痛い。
 ただ耳に残るうつろな愛の言葉とわずかなぬくもりだけが、リュカを迷わせた。
 力なく首を振り、音を立てないように服に袖をとおす。昨夜、男が乱暴にあつかったせいで袖は破れ、ボタンも飛んでいる。だが、何も着ていないよりはマシだ。

 この部屋ではシャツだけを身にまとっていればよかった。だが、外に出るにはズボンも必要だ。
 クロゼットからズボンを引っ張り出したが、痩せすぎたせいで腰からすべり落ちてしまった。
 ズボンを留める紐は男に取り上げられてしまったため、ここにはない。
 たったそれだけなのに、妙に効果的な逃亡防止策が腹ただしい。
 思わず舌打ちし、それが思わぬほどの大きな音に聞こえた。男を起こしてしまったのではないかと、自分にぎょっとする。

 おびえて男を見ると、相変わらず深く眠っていた。
 落ちそうになるズボンを引っ張り上げ、クロゼットの奥に隠しておいた靴を音を立てないように細心の注意をはらい、取り出した。


「う・・・ん」

 男が寝返りを打ち、思わず床にうずくまった。
 目を見開き、息も止めて男を見つめる。
 耳の奥をガンガンと血が流れる音が聞こえた。

 そんなリュカの思いに気付きもせず、男は気持ちよさそうな寝息をたてた。

(はっ・・なんだよ)

 小さく息を吐くと、リュカは扉に向かった。

 大丈夫。寝ている。
 この部屋から出るためには今が絶好のチャンスなんだ。

 明かり取りの窓からはうっすらと朝陽が射し込み始めている。
 さっきまで激しく降っていた雨はやんだらしい。

 笑みが浮かぶ。
 足音を立てないように部屋を横切り、そっとドアノブに手をのばした。
 全身から汗が吹き出している。

(焦るな。静かに、静かに・・・)

 扉は、キィと抗議するように小さくきしみ、あっけなく開いた。
 あの慎重な男も、昨夜は冷静さを欠いていたらしい。

 振り返って男を見る。
 男の胸は規則的に上下を繰り返していた。
 穏やかに眠っているようだ。

 ふう。

 リュカは安堵の息を吐くと、身体をそっとドアの隙間に滑らせた。
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