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41.モブ役者は一皮むけた成長を遂げる
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夜の高速道路をなめらかに走る車の窓からは、夜景の光が流れていき、遠くにまたたいて見える。
湾岸にあるテレビ局の収録スタジオから深夜に帰宅することになり、僕はマネージャーの後藤さんが運転する車に乗っていた。
「遅い時間までお疲れさまでした、羽月さん。いやはや、原作者の先生も絶賛されていましたね」
「ありがとうございます。後藤さんもこんな遅い時間までつきあわせてしまって、すみませんでした」
「いえいえ、これがマネージャーの務めですから、どうぞお気になさらずに」
テレビ局の開局記念と銘打たれた相田さん主演の舞台の幕があがってから数日が経ったその日、僕はとある連続ドラマの収録に臨んでいた。
もちろん主演やレギュラー出演ではなく、1回かぎりのゲスト出演にすぎないんだけれど。
人気のミステリー作家さんの小説を原作とした連続ドラマは、シリーズ化をするほどにそのテレビ局の定番作品となっていて、そこで僕は単話ゲストの犯人役を演じたのだった。
そして今日は、奇しくもその原作者の作家さんが収録現場に見学に来てくれたという幸運に恵まれた。
原作の推理小説は、僕もけっこう好きで読んでいたから、本当にこのお仕事はうれしくて。
前にちょっとそんな話をしたことがあっただけなのに、ピンポイントでそこの出演を勝ち取ってきてくれる後藤さんの、マネージャーとしての腕前は、やっぱり疑うべくもなかった。
「でも本当に、演じていてもめちゃくちゃ楽しかったです!僕もアイドルのかたがいる現場で、あんなに本気で演じたのは久しぶりで……やっぱり演じるのって楽しくて仕方がないですね」
身内を満たす充足感に、思わず満面の笑みが浮かぶ。
「フフ、あれには私も思わずふるえそうになりましたからね。空気がビリビリするほどの熱演、最高でした!やはりこの仕事、無理をしてでも取ってきて正解でしたよ」
それにつられるように、後藤さんまでもが笑顔でかえしてくれた。
後藤さんはいつでも僕の仕事ぶりを褒めてくれるけれど、それでも今日のお仕事は別格だった。
こんなに満面の笑顔になる後藤さんは、なかなか見られない貴重なものの気がする。
今回僕が演じたのは、主役の探偵役をギリギリまで追いつめる殺人犯の役だ。
言うなればサイコパスと呼んでもいいような快楽殺人犯でありながら、そんな自分に懊悩するという、原作の小説のなかでももっともむずかしそうな二面性を持つ犯人で───実はその原作を読んだときから、もし僕が演じるならどうしようかと夢想していたことのあるキャラクターだった。
つまりは、原作でもファンからの人気が高いエピソードで、犯人もわりと人気のあるキャラクターということだ。
だからこの連ドラがはじまった際、今期のエピソードのなかにそれがふくまれるのではないかと言われたときから、ひそかに注目をあつめていたらしい。
そしてそれはファンだけでなく、原作を書いた作家さんにとってもおなじだったようで、そのキャラクターを演じる役者の姿を見てみたいと言って、わざわざこの日に合わせて収録現場に駆けつけてくれたようだ。
もちろんいくつもの連載をかかえる人気作家さんだけに、〆切に追われていたらしいけれど、それでも無理にスケジュールを合わせて担当さんとともに見に来てくれた。
そして、そうしたゲストと多くのスタッフさんに見守られるなか、僕がこれまでの俳優人生でつちかってきたすべての技術と気合いを入れて臨んだ撮影は、ほぼリテイクなしの一発撮りに近い状態で終わった。
そう、事前に打ち合わせた結果、僕の演技プランは丸ごと受け入れてもらえたんだ。
当然ながら監督なりに今日のために、必死に演出プランはかんがえていたようだったけど、僕の熱演に本気でおびえ、ふるえあがる主役やヒロインたちの姿があまりにリアルだと絶賛され、撮りなおすことなく採用されることになったというのが真相だった。
それとともに苦悩する犯人の姿を見た主役の探偵役が、同情するシーンでは腕をつかむという演技になる予定が、なぜだかぎゅっと抱きしめられたのもまた、そのまま採用されることになったらしい。
原作や当初の演出予定とはちがうけれど、主演の人が『気がついたらそうしていた』と言ったように、自然と出てきた演技だったみたいで、それもまた監督と原作者から、ともに絶賛されていた。
「主演の方からも、羽月さんにつられたおかげで、いい演技ができたとお礼を言われましたもんね?」
「ありがたい言葉ですよね……」
そりゃあもう、こちらの演技に相手が巻き込まれてくれたなら、俳優冥利に尽きるしかない。
まして相手が、演技のプロではないはずの人だとしたら、なおさらだ。
ふだんから相手役の演技を受けて演じることに慣れていれば、だれかが熱演したらそれにつられるのは簡単なことかもしれないけれど。
でも主演の彼は、そうではない。
その彼は、演技経験はそこそこあるけれど、本職は俳優ではなくアイドルで、さらに言えば矢住くんのところの事務所の先輩でもあった。
でもたぶん僕から見たかぎりでも、ちょっとマジメに勉強したら、かなり俳優さんとしての素質がのばせそうなタイプに見える。
矢住くんもそうだったけど、本能的に演じる役の本質をとらえているんだと思う。
あの探偵役は、ほんのり自信過剰気味で、それでいてどこかお人好しで憎めない、愛すべきキャラクターだから。
人から好かれることが前提のアイドルだからこそ、変な演技をせずとも彼は全身で周囲の人を魅了する。
ドラマ化をするのなら、愛されキャラの人にやってもらいたいというのは、原作者からのオーダーだったみたいだけど、本当にぴったりの人選だったと思う。
はじめての舞台でがんばる矢住くんに触発されて、常に全力でぶつかることの大切さを思い出させてもらったばかりの僕にとっては、このタイミングでのこのお仕事は、とてもすばらしい出会いだったように感じられた。
合縁奇縁ってヤツなのかな、これも。
「今日撮影したお話が放送される日が楽しみですね。きっと東城も全力で録画予約をして、その日を待ち望むことでしょう」
「なんだかその姿、容易に想像がつきますね」
苦笑を浮かべる後藤さんに、僕も笑ってこたえる。
なんとなく、宮古さんもおなじような感じになりそうな気がしたけれど、それはさておくとしよう……。
そんな満足感に押しあげられ、少しだけ上を向けた、そんな夜だった。
* * *
それからのお仕事は、振り切ったように常に全力全開で臨むようにしていたけれど、そのどれもが正解だったのかと言えば、きっとそうではなかったものもあった。
なかにはあからさまに『主役より目立つな』と苦情を言われたこともあったし、『ちょっとちがうんだよなぁ~』とお茶をにごしつつも、さりげなくダメ出しをされたものもあったけど。
でも前みたいに、それに一喜一憂することはなくなっていた。
なんとなく、今の事務所───というよりは、ぶっちゃけマネージャーの後藤さんにたいする信頼が、なにかあっても対処してくれるはずだという安心感につながっていたから、ドンと大きくかまえていられたのかもしれない。
そして舞台のほうは、だいぶ矢住くんも慣れてきて、ときにはアドリブを入れる余裕なんかも見せられるようになっていて、ますます成長した姿を見せてくれていた。
それがまた、日々の成長を見守りつづけていた僕としては、なによりうれしいことでもあった。
約1ヶ月間にわたるロングランの舞台は、今日の公演をおえて、明日の休演日をはさんだところで折りかえしをむかえる、そんな日のできごとだった。
その日、朝からひとつの映像作品の撮影をおえた僕は、少し早めに楽屋へと入っていた。
「おはようございます!」
「おぉ羽月さん、おはようございます!」
声をかけて現場に入れば、気持ちのよいあいさつがかえされる。
よくかんがえてみるまでもなく、出演者でもないはずの僕まで、すっかりカンパニーの一員としてむかえいれてくれていた座組のおかげで、充実した日々を送っていた。
それこそ例をあげたら、キリがないくらいだ。
たとえばスタッフさんにまじって舞台の床みがきを手伝ったり、小道具の点検をしたり、殺陣師さんたちの立ち会いのもとに殺陣のかえし稽古に参加したりしていた。
音響さんが実際の役者の動きに合わせてSEと呼ばれる効果音を入れる場にも、本番中にそっと立ち会わせてもらったりもした。
こういうのは、直接の出演者じゃないからこそできる、特権のようなものだと思う。
あとは矢住くんの招待で観に来てくれた宮古さんに、楽屋あいさつついでにもみくちゃにされたり、ゲネプロを観に来ていたはずの東城もまたあらためて観に来て、楽屋に来てくれたと矢住くんが歓喜していたりとかもあったけど。
とにかく、今日の昼公演を乗り切れば、明日はお休みだからと、演者もスタッフさんもみんなが少しだけ浮き足立っていた、そのときだった。
楽屋口が急にあわただしさを増した。
「大変です!今、矢住さんの事務所から連絡があって、こちらに向かう途中で送りの車が事故に巻き込まれたらしいと……!!」
入り口のところにある事務室で、その電話をとったという事務員さんが駆け込んできて、息もたえだえな様子でそうさけぶ。
「なっ!?」
「なんだって!?それで、ご本人は無事なのか?!」
「事故って、えぇっ!?」
「待って、今ネットのニュースで高速道路で多重玉突き事故が起きた、って出てるけど……」
とたんに騒然とする楽屋付近に、個人部屋を持つ相田さんたち主役級の演者たちもふくめ、続々と顔を出す。
どういうことなんだ……??
矢住くんは無事なんだろうか?!
「連絡をくれたのは、だれからだい?それで本人は無事なのか?」
ざわつくばかりだったその場を、とっさに岸本監督が仕切る。
こういうトラブルのとき、その場を仕切るのは本来プロデューサーさんのお仕事なのかもしれないけれど、この場にはいなかったから仕方ない。
「ハイッ、ご連絡は事務所のスタッフさんからで、車には矢住さんのほかにも複数のメンバーとマネージャーが乗っていたようで、全員近くの病院に救急車で搬送されたって……」
事務員さんのセリフに、あたまのなかが真っ白になっていく。
救急車で搬送って……たしかにここへ来るときにもすれちがって、やけに今日は救急車を見るなと思っていたけれど……。
ひょっとして、その高速道路での玉突き事故とやらに巻き込まれたんだろうか?
「───つまり、その連絡を事務所に入れられる人が、搬送された人のなかにいたってことだね?」
岸本監督の発言に、ハッとなる。
そうだ、少なくともその人は電話ができるくらいの軽傷だったってことだ。
「後藤さん……」
「えぇ、わかっています。うちの事務所にも情報収集を頼みます」
気がつけば僕のそばに来ていた後藤さんにそっと背中を支えられ、そのことで自分がフラつきそうになっていたことに気づいた。
だって、舞台の本番前に事故に巻き込まれたとか!!
心配するに決まってるだろ!?
しかも救急車で搬送されたなんて聞いた日には、怪我の程度がどれほどのものか、心配で心配で……!
ドクドクと音を立てて脈打つ心臓に、手のひらはやけにひんやりとして冷たく、それでいて嫌な汗がジワリとにじむ。
お願い、無事でいて!!
けれどその場にいたわけでもない僕たちは、今はただ、矢住くんたちの無事を祈るしかできなかったのである。
湾岸にあるテレビ局の収録スタジオから深夜に帰宅することになり、僕はマネージャーの後藤さんが運転する車に乗っていた。
「遅い時間までお疲れさまでした、羽月さん。いやはや、原作者の先生も絶賛されていましたね」
「ありがとうございます。後藤さんもこんな遅い時間までつきあわせてしまって、すみませんでした」
「いえいえ、これがマネージャーの務めですから、どうぞお気になさらずに」
テレビ局の開局記念と銘打たれた相田さん主演の舞台の幕があがってから数日が経ったその日、僕はとある連続ドラマの収録に臨んでいた。
もちろん主演やレギュラー出演ではなく、1回かぎりのゲスト出演にすぎないんだけれど。
人気のミステリー作家さんの小説を原作とした連続ドラマは、シリーズ化をするほどにそのテレビ局の定番作品となっていて、そこで僕は単話ゲストの犯人役を演じたのだった。
そして今日は、奇しくもその原作者の作家さんが収録現場に見学に来てくれたという幸運に恵まれた。
原作の推理小説は、僕もけっこう好きで読んでいたから、本当にこのお仕事はうれしくて。
前にちょっとそんな話をしたことがあっただけなのに、ピンポイントでそこの出演を勝ち取ってきてくれる後藤さんの、マネージャーとしての腕前は、やっぱり疑うべくもなかった。
「でも本当に、演じていてもめちゃくちゃ楽しかったです!僕もアイドルのかたがいる現場で、あんなに本気で演じたのは久しぶりで……やっぱり演じるのって楽しくて仕方がないですね」
身内を満たす充足感に、思わず満面の笑みが浮かぶ。
「フフ、あれには私も思わずふるえそうになりましたからね。空気がビリビリするほどの熱演、最高でした!やはりこの仕事、無理をしてでも取ってきて正解でしたよ」
それにつられるように、後藤さんまでもが笑顔でかえしてくれた。
後藤さんはいつでも僕の仕事ぶりを褒めてくれるけれど、それでも今日のお仕事は別格だった。
こんなに満面の笑顔になる後藤さんは、なかなか見られない貴重なものの気がする。
今回僕が演じたのは、主役の探偵役をギリギリまで追いつめる殺人犯の役だ。
言うなればサイコパスと呼んでもいいような快楽殺人犯でありながら、そんな自分に懊悩するという、原作の小説のなかでももっともむずかしそうな二面性を持つ犯人で───実はその原作を読んだときから、もし僕が演じるならどうしようかと夢想していたことのあるキャラクターだった。
つまりは、原作でもファンからの人気が高いエピソードで、犯人もわりと人気のあるキャラクターということだ。
だからこの連ドラがはじまった際、今期のエピソードのなかにそれがふくまれるのではないかと言われたときから、ひそかに注目をあつめていたらしい。
そしてそれはファンだけでなく、原作を書いた作家さんにとってもおなじだったようで、そのキャラクターを演じる役者の姿を見てみたいと言って、わざわざこの日に合わせて収録現場に駆けつけてくれたようだ。
もちろんいくつもの連載をかかえる人気作家さんだけに、〆切に追われていたらしいけれど、それでも無理にスケジュールを合わせて担当さんとともに見に来てくれた。
そして、そうしたゲストと多くのスタッフさんに見守られるなか、僕がこれまでの俳優人生でつちかってきたすべての技術と気合いを入れて臨んだ撮影は、ほぼリテイクなしの一発撮りに近い状態で終わった。
そう、事前に打ち合わせた結果、僕の演技プランは丸ごと受け入れてもらえたんだ。
当然ながら監督なりに今日のために、必死に演出プランはかんがえていたようだったけど、僕の熱演に本気でおびえ、ふるえあがる主役やヒロインたちの姿があまりにリアルだと絶賛され、撮りなおすことなく採用されることになったというのが真相だった。
それとともに苦悩する犯人の姿を見た主役の探偵役が、同情するシーンでは腕をつかむという演技になる予定が、なぜだかぎゅっと抱きしめられたのもまた、そのまま採用されることになったらしい。
原作や当初の演出予定とはちがうけれど、主演の人が『気がついたらそうしていた』と言ったように、自然と出てきた演技だったみたいで、それもまた監督と原作者から、ともに絶賛されていた。
「主演の方からも、羽月さんにつられたおかげで、いい演技ができたとお礼を言われましたもんね?」
「ありがたい言葉ですよね……」
そりゃあもう、こちらの演技に相手が巻き込まれてくれたなら、俳優冥利に尽きるしかない。
まして相手が、演技のプロではないはずの人だとしたら、なおさらだ。
ふだんから相手役の演技を受けて演じることに慣れていれば、だれかが熱演したらそれにつられるのは簡単なことかもしれないけれど。
でも主演の彼は、そうではない。
その彼は、演技経験はそこそこあるけれど、本職は俳優ではなくアイドルで、さらに言えば矢住くんのところの事務所の先輩でもあった。
でもたぶん僕から見たかぎりでも、ちょっとマジメに勉強したら、かなり俳優さんとしての素質がのばせそうなタイプに見える。
矢住くんもそうだったけど、本能的に演じる役の本質をとらえているんだと思う。
あの探偵役は、ほんのり自信過剰気味で、それでいてどこかお人好しで憎めない、愛すべきキャラクターだから。
人から好かれることが前提のアイドルだからこそ、変な演技をせずとも彼は全身で周囲の人を魅了する。
ドラマ化をするのなら、愛されキャラの人にやってもらいたいというのは、原作者からのオーダーだったみたいだけど、本当にぴったりの人選だったと思う。
はじめての舞台でがんばる矢住くんに触発されて、常に全力でぶつかることの大切さを思い出させてもらったばかりの僕にとっては、このタイミングでのこのお仕事は、とてもすばらしい出会いだったように感じられた。
合縁奇縁ってヤツなのかな、これも。
「今日撮影したお話が放送される日が楽しみですね。きっと東城も全力で録画予約をして、その日を待ち望むことでしょう」
「なんだかその姿、容易に想像がつきますね」
苦笑を浮かべる後藤さんに、僕も笑ってこたえる。
なんとなく、宮古さんもおなじような感じになりそうな気がしたけれど、それはさておくとしよう……。
そんな満足感に押しあげられ、少しだけ上を向けた、そんな夜だった。
* * *
それからのお仕事は、振り切ったように常に全力全開で臨むようにしていたけれど、そのどれもが正解だったのかと言えば、きっとそうではなかったものもあった。
なかにはあからさまに『主役より目立つな』と苦情を言われたこともあったし、『ちょっとちがうんだよなぁ~』とお茶をにごしつつも、さりげなくダメ出しをされたものもあったけど。
でも前みたいに、それに一喜一憂することはなくなっていた。
なんとなく、今の事務所───というよりは、ぶっちゃけマネージャーの後藤さんにたいする信頼が、なにかあっても対処してくれるはずだという安心感につながっていたから、ドンと大きくかまえていられたのかもしれない。
そして舞台のほうは、だいぶ矢住くんも慣れてきて、ときにはアドリブを入れる余裕なんかも見せられるようになっていて、ますます成長した姿を見せてくれていた。
それがまた、日々の成長を見守りつづけていた僕としては、なによりうれしいことでもあった。
約1ヶ月間にわたるロングランの舞台は、今日の公演をおえて、明日の休演日をはさんだところで折りかえしをむかえる、そんな日のできごとだった。
その日、朝からひとつの映像作品の撮影をおえた僕は、少し早めに楽屋へと入っていた。
「おはようございます!」
「おぉ羽月さん、おはようございます!」
声をかけて現場に入れば、気持ちのよいあいさつがかえされる。
よくかんがえてみるまでもなく、出演者でもないはずの僕まで、すっかりカンパニーの一員としてむかえいれてくれていた座組のおかげで、充実した日々を送っていた。
それこそ例をあげたら、キリがないくらいだ。
たとえばスタッフさんにまじって舞台の床みがきを手伝ったり、小道具の点検をしたり、殺陣師さんたちの立ち会いのもとに殺陣のかえし稽古に参加したりしていた。
音響さんが実際の役者の動きに合わせてSEと呼ばれる効果音を入れる場にも、本番中にそっと立ち会わせてもらったりもした。
こういうのは、直接の出演者じゃないからこそできる、特権のようなものだと思う。
あとは矢住くんの招待で観に来てくれた宮古さんに、楽屋あいさつついでにもみくちゃにされたり、ゲネプロを観に来ていたはずの東城もまたあらためて観に来て、楽屋に来てくれたと矢住くんが歓喜していたりとかもあったけど。
とにかく、今日の昼公演を乗り切れば、明日はお休みだからと、演者もスタッフさんもみんなが少しだけ浮き足立っていた、そのときだった。
楽屋口が急にあわただしさを増した。
「大変です!今、矢住さんの事務所から連絡があって、こちらに向かう途中で送りの車が事故に巻き込まれたらしいと……!!」
入り口のところにある事務室で、その電話をとったという事務員さんが駆け込んできて、息もたえだえな様子でそうさけぶ。
「なっ!?」
「なんだって!?それで、ご本人は無事なのか?!」
「事故って、えぇっ!?」
「待って、今ネットのニュースで高速道路で多重玉突き事故が起きた、って出てるけど……」
とたんに騒然とする楽屋付近に、個人部屋を持つ相田さんたち主役級の演者たちもふくめ、続々と顔を出す。
どういうことなんだ……??
矢住くんは無事なんだろうか?!
「連絡をくれたのは、だれからだい?それで本人は無事なのか?」
ざわつくばかりだったその場を、とっさに岸本監督が仕切る。
こういうトラブルのとき、その場を仕切るのは本来プロデューサーさんのお仕事なのかもしれないけれど、この場にはいなかったから仕方ない。
「ハイッ、ご連絡は事務所のスタッフさんからで、車には矢住さんのほかにも複数のメンバーとマネージャーが乗っていたようで、全員近くの病院に救急車で搬送されたって……」
事務員さんのセリフに、あたまのなかが真っ白になっていく。
救急車で搬送って……たしかにここへ来るときにもすれちがって、やけに今日は救急車を見るなと思っていたけれど……。
ひょっとして、その高速道路での玉突き事故とやらに巻き込まれたんだろうか?
「───つまり、その連絡を事務所に入れられる人が、搬送された人のなかにいたってことだね?」
岸本監督の発言に、ハッとなる。
そうだ、少なくともその人は電話ができるくらいの軽傷だったってことだ。
「後藤さん……」
「えぇ、わかっています。うちの事務所にも情報収集を頼みます」
気がつけば僕のそばに来ていた後藤さんにそっと背中を支えられ、そのことで自分がフラつきそうになっていたことに気づいた。
だって、舞台の本番前に事故に巻き込まれたとか!!
心配するに決まってるだろ!?
しかも救急車で搬送されたなんて聞いた日には、怪我の程度がどれほどのものか、心配で心配で……!
ドクドクと音を立てて脈打つ心臓に、手のひらはやけにひんやりとして冷たく、それでいて嫌な汗がジワリとにじむ。
お願い、無事でいて!!
けれどその場にいたわけでもない僕たちは、今はただ、矢住くんたちの無事を祈るしかできなかったのである。
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