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第四片 明らかになる真実
第四片 明らかになる真実 6
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それから起こった出来事は、ある意味で夢のようだった。
汗に濡れた身体を丁寧にタオルでふかれ、手作りのおかゆを食べさせてもらう――そのあいだじゅう、カリンはずっとふわふわしっぱなしだった。
央霞の料理は、具材の数が極端に少なく、切り方も大雑把で、豪快という言葉がよく似合っていた。なんと言うか、実にらしい。
くすりと笑みが零れた。
(久しぶりに笑った気がする……)
腹が満たされると、いくぶん気分も落ち着いた。
それから、カリンは天井を見つめた。何度か深呼吸を繰り返す。息苦しさは、もうなかった。
こうしていると、昔、風邪をひいて寝込んだことを思い出す。
そういうときは、ふだん厳しい父も優しくしてくれたし、母はカリンが寂しくないよう、ずっとそばにいてくれた。
アルマミトラとの決戦のあとも似たような状況だったのに、どうして思い出さなかったのだろうと首をひねる。
(ああ、そうか……)
騎士となってからの彼女は、家族のために必死だった。
動けない自分がもどかしく、はやく治さねばと気ばかり焦っていた。
だから、子供が親に甘えるように、世話をすべて相手に任せるということもなくなっていた。
まさか、敵である央霞の手で、そんな気持ちにさせられるとは思ってもみなかったが。
「なにがあった?」
食器を片づけてもどってくると、央霞はカリンに訊ねた。
カリンが《欠片の保有者》として覚醒したことを告げると、央霞は「そうか」とだけ答えた。
「嬉しくないの?」
「なぜ?」
央霞は微笑する。
「なぜって――」
「他人の不幸を喜ぶ趣味はない。それがたとえ、みずきの敵であっても」
カリンがアルマミトラの側につけば、それは、これまで背負ってきたものに対する裏切りとなる。
そのことを、彼女はわかってくれているのだ。
「変わってないの」
天井を見あげたまま、カリンはくちびるを噛みしめた。
「私はカリン・グラニエラ――アビエントラントの騎士――その意識は、すこしも変わっていないのよ。損なわれた記憶も、たぶん、ない」
なのに――
「自分がアルマミトラだというはっきりとした意識や記憶も、おなじように私の中にあるの。どうして……! いっそ、記憶も人格も上書きされて、まったくの別人になってしまえばよかったのに……!」
悔し涙がつたい落ちて、枕を濡らした。
「……それとも、これからだんだんそうなっていくの?」
「みずきは否定していたな。基本的な人格は、あくまで当人のままだと」
「そう……」
央霞が、ベッドの横に椅子を持ってきて腰を降ろした。
頬のあたりに、視線を感じる。
「ねえ……私はこれから、どうしたらいい?」
「私がこうと言えば、きみはそれに従うのか?」
「どうかな……でも、あなたの言葉なら――」
言葉を濁したのは、ヤケになっているという自覚があるからだ。
しかし、自分自身が殲滅する対象であると知ったいま、使命を果たすことにどんな意味を見出せというのか。
しばらくのあいだ、央霞はじっと考え込んでいたが、やがて静かに口をひらいた。
「実を言えば……きみたちの戦いにはあまり興味がなくてね」
「はあ?」
「奈落人と《欠片の保有者》の戦いのことだよ。最終的に、みずきが無事でいてさえくれれば、私にとってはどうでもいい。だから、きみの去就について、私から言えることはなにもない」
「呆れた……どんだけあの子が好きなのよ」
「おっ。だいぶ調子がもどってきたな」
「茶化さないで」
すまない、と央霞は肩をすくめた。
「みずきが大切なのは否定しないよ――と言うより、できないし、するつもりもない」
「前から思ってたけど、それだけの力を持ってる割りに、あなたの望みってちっぽけよね」
本気になれば、どんなことでも叶えられそうなのに、央霞はひとりの少女の幸せが大事なのだと言う。カリンからすれば、あまりに不可解という他ない。
「ちっぽけでいいんだよ。私は、自分が規格外だという自覚がある。そういう人間は、大きなことを為そうとしないほうがいいんだ」
「どういうこと?」
「大きな力は、それが動くとき、かならず周囲との軋轢を生む。そして――身近にいる大切な者をも巻き込み、不幸にする」
他の誰かが言ったのなら、きっと自惚れが過ぎると思ったことだろう。
しかし、央霞に限って言えば、それがすこしも大げさに聞こえなかった。
央霞は、両手を膝のあいだで組み、なにかを考えるように、そこにじっと視線を落としている。
彼女が誰のことを言っているかは、訊かずともわかった。
「きみたちといっしょにいた奈須原綾女――彼女とは去年、剣道の大会であたった。大会には、自分にどの程度の力があるのか試すつもりで参加したんだが……」
央霞の顔が曇る。
「いまでも後悔しているよ。あのときは、幸福になった者より、不幸になった者のほうが明らかに多かった。奈須原が剣道をやめずにいてくれたのは、個人的には嬉しいが、それでも、私への恨みからきみたちに住居を提供し、巡り巡ってみずきや山茶花を危険に晒すことになった」
「それはあなたの責任じゃ――」
「災いは、いつ、どんなかたちで降りかかるかわからない」
その言葉には、カリンの知るどの央霞にも似つかわしくない諦念があった。
はじめて《アード》たちを使いこなせたときや、新たな能力を得たときに、酩酊にも似た万能感を味わった経験はカリンにもある。
だが、強さというものは所詮、力の一要素にすぎない。
央霞ほどの者であっても、あるいは彼女のように強いからこそ、身に染みて実感できるということもあるのだろうか。
「そう言えば」
カリンは、さっきからずっと気になっていた疑問を口にした。
「どうしてあなたはここに?」
「それは私のセリフだと思うぞ。どちらかと言うと」
「はあ?」
カリンは目を瞬かせる。
よく、意味がわからない。
「なにしろ、ここは私の家だからな」
「えっ」
一瞬、頭が真っ白になる。
私の家。私の家。私の家私の家。私の家私の家私の家私の家私の家わたわたわた――
はははこやつめ。いったいなにを言っているのやら。
「つまり、ここは私の家で、きみが使っていたのは私の部屋だ」
噛んで含めるようなその説明も、まったく頭に入ってこない。
「え――じゃ、じゃあ、陽平の二番目のお姉さんって……」
「やっぱり、気づいてなかったか」
央霞が、ふうっと息をつく。
「え……な、なんで? 央霞は知ってたの? ええっ? い、いつから……」
「居候がいるということは、電話で聞いていた。詳しいことは、家にもどったときに話してもらったんだが……ちょうど、きみがいなくなった日だよ。というか、私より先に気づいていてもおかしくなかったはずだぞ」
「そ、そんなこと言われても、そう判断する材料なんてどこに――!」
「名字がいっしょだったろう」
「桜ヶ丘なんて、よくある名字だと思ってたのよ!」
カリンの叫びを聞いた央霞は、渋い顔をして、ううむ……と唸った。
「思い込みというのは怖いものだな。……と言うか、きみが素直すぎるのか?」
「ちょっと! その哀れむような目、やめなさいよ!」
カリンは涙目になった。
あんまりと言えばあんまりな己の間抜けさ加減に、この場から消え去りたい気分だった。
「そ、そうだ! 陽平は? 陽平も帰ってきてるの!?」
「いや。いまはサッカーの練習にいってるよ」
「そう……」
カリンは胸を撫でおろした。
もちろん、陽平のいない時間を狙って来たわけだが、心の準備のできない状態で彼と再会するのは避けたかった。
「彼は、変わりない? 運動ができるなら、元気ではあるんだろうけど、言動や記憶におかしなところは……」
「いや、特にはなにも……なぜだ?」
「私、陽平に術をかけたの」
「………」
央霞の目つきが険しくなるのがわかった。
「操心術といって、その名の通り、人の心を操る術よ。最初に会ったとき、思わず使ってしまったの。『私の嘘を信じる』ようにって……」
カリンは、自分の二の腕に爪をたてた。
「いまはもう解除しているけれど、これはとても危険な術なの。本来の記憶や価値観と、術による刷り込みとの齟齬が大きいと、心を壊してしまうこともある……そんな術を、私は彼にかけてしまった……あなたの……あなたの大切な……家族に……ッ!」
いったん話しはじめると、言葉が次々に口をついて出た。
それは、ずっとカリンの胸の奥でくすぶり続けていた後悔の念であった。
言葉にすることで、はっきりとしたかたちとなり、抑えがたい感情となって溢れ出す。もう、どうしたらよいかわからなかった。
もしも央霞が、この場で自分を断罪するというのなら、甘んじて受けてもよいとさえ思えた。
「そうか」
央霞の声は、凍てついた刃のようだった。
当然だ。カリンだって、弟たちになにかあれば、おなじ反応をするだろう。
央霞の手が、こちらに向かってのびてくる。
カリンは覚悟を決め、目をとじた。
首をへし折られるか、あるいは頭をつかまれ、壁に叩きつけられるか。
ひと思いにやってくれ、などというのは虫のいい希望だろう。
ところが、実際に央霞がしたのは、カリンの目許に滲んだ涙をぬぐうことだった。
「なんで……」
カリンは本気で戸惑った。彼女に優しくされる資格など、自分にはないのに。
「陽平は大丈夫だ。ぴんぴんしているよ。むしろ、きみをいかせてしまったことのほうに傷ついているくらいだ。どうして、きみの苦しみに気づいてやれなかったのかってね。――これは推測だが、きみは術による負担をなるべく小さくするために、最低限の嘘しかつかなかったんじゃあないか?」
カリンが無言でいると、央霞は「やっぱり」と微笑んだ。
「で、でも……それでも私は、彼に酷いことを……」
「陽平は、幸せそうだったよ」
「え――?」
「落ち込んではいたが、きみとのことを話すときだけは、すこしだけ、弾んだ声をしていた。実際に見たことはなくても、きみとすごした日々が、アイツにとってとても大切で、得難いものだったということはわかる」
央霞の口許が、自嘲するように歪んだ。
「情けない話だが、私も含めてうちの家族は、これまでアイツをあまり構ってやれていなかったからな。だから、きみがアイツの面倒を見てくれたことに対しては、とても感謝している」
「そんな……私はなにも……」
「きみが出ていった理由も、だいたい想像がつく。巻き込みたくなかったんだろう?」
央霞の澄んだ黒い瞳に見つめられると、またしてもカリンは、なにも言えなくなってしまう。
「それが最善だったと、私も思う。だが、なんとかもう一度、陽平と会ってやってはくれないか?」
うなずいてしまいたいという激しい衝動に、カリンは駆られた。あまり、いい別れ方ができなかったという自覚もある。
だが、いまさら会ってなにを話せというのか。
「心の整理がついていないことはわかっている。しかし、だからこそ、アイツと会っておくという選択も、悪くないと思うんだが」
カリンはかぶりを振った。
「できないわ……よけいに苦しくなるだけよ」
そうか、と央霞は短く言っただけで、それ以上食い下がろうとはしなかった。
「そうだ、カリン。きみが《欠片の保有者》だという話だが、いまはまだ、誰にも言わないほうがいいだろう」
「それは……そうね。あのモルガルデンたちが知ったら、私を殺そうとするだろうし……」
「私も、このことは胸にしまっておく」
「みずきにも秘密にするつもり?」
「アイツは私の意思を尊重してくれるとは思うが、断言はできない。もうすこし状況を見極めてから判断すべきだと思う」
なによりもみずきが大切と言うクセに、そういう部分では恐ろしく冷徹だ――否、公正と言うべきか。
「ありがとう。助かるわ」
「気にするな。それと、これも忘れないうちに」
央霞が取り出したのは、紅く輝く宝石だった。
「カーバンクルの――! なんで……」
「陽平から預かったんだよ。空船公園できみが立ち去ったあと、これが残されていたそうだ」
やはり、あの場所だったか。
きっと、モルガルデンに殴られたときに落としたのだろう。
「アイツ……人のことを散々悪く言ったクセに」
「きみがこの家にもどってきたのは、これを探すためか?」
「そのとおりよ。……でも、いいの?」
「ないと困るんだろう?」
「そうだけど……」
考えてみれば、どの道もう、タイカに援軍を要請することなどできない。下手をしたら、カリンを狩ろうとする敵がさらに増えることになる。
もし使うとすれば、それは、彼女の任務が果たされたときだ。
「央霞。聞いて」
「うん?」
凛々しい眉がわずかに下がり、黒い瞳がカリンを見つめる。
「私には、アビエントラントを裏切ることはできない」
仮に家族のことがなくとも、きっと――
「臆病だと、笑ってくれていいわ」
「そうする理由がないな」
「だから、私はあなたと――あなたたちと戦うわ。こんなによくしてもらったのに、申し訳ないけど」
カリンの言葉に、央霞は深くうなずいた。
「わかった。いつでも来い」
ああ……そうだ。
央霞ならば、当然そう答えるだろう。
そんな相手だからこそ、私は――
「ありがとう」
カリンは目を伏せ、こうべを垂れた。
また、涙が零れたが、決して不快ではなかった。
汗に濡れた身体を丁寧にタオルでふかれ、手作りのおかゆを食べさせてもらう――そのあいだじゅう、カリンはずっとふわふわしっぱなしだった。
央霞の料理は、具材の数が極端に少なく、切り方も大雑把で、豪快という言葉がよく似合っていた。なんと言うか、実にらしい。
くすりと笑みが零れた。
(久しぶりに笑った気がする……)
腹が満たされると、いくぶん気分も落ち着いた。
それから、カリンは天井を見つめた。何度か深呼吸を繰り返す。息苦しさは、もうなかった。
こうしていると、昔、風邪をひいて寝込んだことを思い出す。
そういうときは、ふだん厳しい父も優しくしてくれたし、母はカリンが寂しくないよう、ずっとそばにいてくれた。
アルマミトラとの決戦のあとも似たような状況だったのに、どうして思い出さなかったのだろうと首をひねる。
(ああ、そうか……)
騎士となってからの彼女は、家族のために必死だった。
動けない自分がもどかしく、はやく治さねばと気ばかり焦っていた。
だから、子供が親に甘えるように、世話をすべて相手に任せるということもなくなっていた。
まさか、敵である央霞の手で、そんな気持ちにさせられるとは思ってもみなかったが。
「なにがあった?」
食器を片づけてもどってくると、央霞はカリンに訊ねた。
カリンが《欠片の保有者》として覚醒したことを告げると、央霞は「そうか」とだけ答えた。
「嬉しくないの?」
「なぜ?」
央霞は微笑する。
「なぜって――」
「他人の不幸を喜ぶ趣味はない。それがたとえ、みずきの敵であっても」
カリンがアルマミトラの側につけば、それは、これまで背負ってきたものに対する裏切りとなる。
そのことを、彼女はわかってくれているのだ。
「変わってないの」
天井を見あげたまま、カリンはくちびるを噛みしめた。
「私はカリン・グラニエラ――アビエントラントの騎士――その意識は、すこしも変わっていないのよ。損なわれた記憶も、たぶん、ない」
なのに――
「自分がアルマミトラだというはっきりとした意識や記憶も、おなじように私の中にあるの。どうして……! いっそ、記憶も人格も上書きされて、まったくの別人になってしまえばよかったのに……!」
悔し涙がつたい落ちて、枕を濡らした。
「……それとも、これからだんだんそうなっていくの?」
「みずきは否定していたな。基本的な人格は、あくまで当人のままだと」
「そう……」
央霞が、ベッドの横に椅子を持ってきて腰を降ろした。
頬のあたりに、視線を感じる。
「ねえ……私はこれから、どうしたらいい?」
「私がこうと言えば、きみはそれに従うのか?」
「どうかな……でも、あなたの言葉なら――」
言葉を濁したのは、ヤケになっているという自覚があるからだ。
しかし、自分自身が殲滅する対象であると知ったいま、使命を果たすことにどんな意味を見出せというのか。
しばらくのあいだ、央霞はじっと考え込んでいたが、やがて静かに口をひらいた。
「実を言えば……きみたちの戦いにはあまり興味がなくてね」
「はあ?」
「奈落人と《欠片の保有者》の戦いのことだよ。最終的に、みずきが無事でいてさえくれれば、私にとってはどうでもいい。だから、きみの去就について、私から言えることはなにもない」
「呆れた……どんだけあの子が好きなのよ」
「おっ。だいぶ調子がもどってきたな」
「茶化さないで」
すまない、と央霞は肩をすくめた。
「みずきが大切なのは否定しないよ――と言うより、できないし、するつもりもない」
「前から思ってたけど、それだけの力を持ってる割りに、あなたの望みってちっぽけよね」
本気になれば、どんなことでも叶えられそうなのに、央霞はひとりの少女の幸せが大事なのだと言う。カリンからすれば、あまりに不可解という他ない。
「ちっぽけでいいんだよ。私は、自分が規格外だという自覚がある。そういう人間は、大きなことを為そうとしないほうがいいんだ」
「どういうこと?」
「大きな力は、それが動くとき、かならず周囲との軋轢を生む。そして――身近にいる大切な者をも巻き込み、不幸にする」
他の誰かが言ったのなら、きっと自惚れが過ぎると思ったことだろう。
しかし、央霞に限って言えば、それがすこしも大げさに聞こえなかった。
央霞は、両手を膝のあいだで組み、なにかを考えるように、そこにじっと視線を落としている。
彼女が誰のことを言っているかは、訊かずともわかった。
「きみたちといっしょにいた奈須原綾女――彼女とは去年、剣道の大会であたった。大会には、自分にどの程度の力があるのか試すつもりで参加したんだが……」
央霞の顔が曇る。
「いまでも後悔しているよ。あのときは、幸福になった者より、不幸になった者のほうが明らかに多かった。奈須原が剣道をやめずにいてくれたのは、個人的には嬉しいが、それでも、私への恨みからきみたちに住居を提供し、巡り巡ってみずきや山茶花を危険に晒すことになった」
「それはあなたの責任じゃ――」
「災いは、いつ、どんなかたちで降りかかるかわからない」
その言葉には、カリンの知るどの央霞にも似つかわしくない諦念があった。
はじめて《アード》たちを使いこなせたときや、新たな能力を得たときに、酩酊にも似た万能感を味わった経験はカリンにもある。
だが、強さというものは所詮、力の一要素にすぎない。
央霞ほどの者であっても、あるいは彼女のように強いからこそ、身に染みて実感できるということもあるのだろうか。
「そう言えば」
カリンは、さっきからずっと気になっていた疑問を口にした。
「どうしてあなたはここに?」
「それは私のセリフだと思うぞ。どちらかと言うと」
「はあ?」
カリンは目を瞬かせる。
よく、意味がわからない。
「なにしろ、ここは私の家だからな」
「えっ」
一瞬、頭が真っ白になる。
私の家。私の家。私の家私の家。私の家私の家私の家私の家私の家わたわたわた――
はははこやつめ。いったいなにを言っているのやら。
「つまり、ここは私の家で、きみが使っていたのは私の部屋だ」
噛んで含めるようなその説明も、まったく頭に入ってこない。
「え――じゃ、じゃあ、陽平の二番目のお姉さんって……」
「やっぱり、気づいてなかったか」
央霞が、ふうっと息をつく。
「え……な、なんで? 央霞は知ってたの? ええっ? い、いつから……」
「居候がいるということは、電話で聞いていた。詳しいことは、家にもどったときに話してもらったんだが……ちょうど、きみがいなくなった日だよ。というか、私より先に気づいていてもおかしくなかったはずだぞ」
「そ、そんなこと言われても、そう判断する材料なんてどこに――!」
「名字がいっしょだったろう」
「桜ヶ丘なんて、よくある名字だと思ってたのよ!」
カリンの叫びを聞いた央霞は、渋い顔をして、ううむ……と唸った。
「思い込みというのは怖いものだな。……と言うか、きみが素直すぎるのか?」
「ちょっと! その哀れむような目、やめなさいよ!」
カリンは涙目になった。
あんまりと言えばあんまりな己の間抜けさ加減に、この場から消え去りたい気分だった。
「そ、そうだ! 陽平は? 陽平も帰ってきてるの!?」
「いや。いまはサッカーの練習にいってるよ」
「そう……」
カリンは胸を撫でおろした。
もちろん、陽平のいない時間を狙って来たわけだが、心の準備のできない状態で彼と再会するのは避けたかった。
「彼は、変わりない? 運動ができるなら、元気ではあるんだろうけど、言動や記憶におかしなところは……」
「いや、特にはなにも……なぜだ?」
「私、陽平に術をかけたの」
「………」
央霞の目つきが険しくなるのがわかった。
「操心術といって、その名の通り、人の心を操る術よ。最初に会ったとき、思わず使ってしまったの。『私の嘘を信じる』ようにって……」
カリンは、自分の二の腕に爪をたてた。
「いまはもう解除しているけれど、これはとても危険な術なの。本来の記憶や価値観と、術による刷り込みとの齟齬が大きいと、心を壊してしまうこともある……そんな術を、私は彼にかけてしまった……あなたの……あなたの大切な……家族に……ッ!」
いったん話しはじめると、言葉が次々に口をついて出た。
それは、ずっとカリンの胸の奥でくすぶり続けていた後悔の念であった。
言葉にすることで、はっきりとしたかたちとなり、抑えがたい感情となって溢れ出す。もう、どうしたらよいかわからなかった。
もしも央霞が、この場で自分を断罪するというのなら、甘んじて受けてもよいとさえ思えた。
「そうか」
央霞の声は、凍てついた刃のようだった。
当然だ。カリンだって、弟たちになにかあれば、おなじ反応をするだろう。
央霞の手が、こちらに向かってのびてくる。
カリンは覚悟を決め、目をとじた。
首をへし折られるか、あるいは頭をつかまれ、壁に叩きつけられるか。
ひと思いにやってくれ、などというのは虫のいい希望だろう。
ところが、実際に央霞がしたのは、カリンの目許に滲んだ涙をぬぐうことだった。
「なんで……」
カリンは本気で戸惑った。彼女に優しくされる資格など、自分にはないのに。
「陽平は大丈夫だ。ぴんぴんしているよ。むしろ、きみをいかせてしまったことのほうに傷ついているくらいだ。どうして、きみの苦しみに気づいてやれなかったのかってね。――これは推測だが、きみは術による負担をなるべく小さくするために、最低限の嘘しかつかなかったんじゃあないか?」
カリンが無言でいると、央霞は「やっぱり」と微笑んだ。
「で、でも……それでも私は、彼に酷いことを……」
「陽平は、幸せそうだったよ」
「え――?」
「落ち込んではいたが、きみとのことを話すときだけは、すこしだけ、弾んだ声をしていた。実際に見たことはなくても、きみとすごした日々が、アイツにとってとても大切で、得難いものだったということはわかる」
央霞の口許が、自嘲するように歪んだ。
「情けない話だが、私も含めてうちの家族は、これまでアイツをあまり構ってやれていなかったからな。だから、きみがアイツの面倒を見てくれたことに対しては、とても感謝している」
「そんな……私はなにも……」
「きみが出ていった理由も、だいたい想像がつく。巻き込みたくなかったんだろう?」
央霞の澄んだ黒い瞳に見つめられると、またしてもカリンは、なにも言えなくなってしまう。
「それが最善だったと、私も思う。だが、なんとかもう一度、陽平と会ってやってはくれないか?」
うなずいてしまいたいという激しい衝動に、カリンは駆られた。あまり、いい別れ方ができなかったという自覚もある。
だが、いまさら会ってなにを話せというのか。
「心の整理がついていないことはわかっている。しかし、だからこそ、アイツと会っておくという選択も、悪くないと思うんだが」
カリンはかぶりを振った。
「できないわ……よけいに苦しくなるだけよ」
そうか、と央霞は短く言っただけで、それ以上食い下がろうとはしなかった。
「そうだ、カリン。きみが《欠片の保有者》だという話だが、いまはまだ、誰にも言わないほうがいいだろう」
「それは……そうね。あのモルガルデンたちが知ったら、私を殺そうとするだろうし……」
「私も、このことは胸にしまっておく」
「みずきにも秘密にするつもり?」
「アイツは私の意思を尊重してくれるとは思うが、断言はできない。もうすこし状況を見極めてから判断すべきだと思う」
なによりもみずきが大切と言うクセに、そういう部分では恐ろしく冷徹だ――否、公正と言うべきか。
「ありがとう。助かるわ」
「気にするな。それと、これも忘れないうちに」
央霞が取り出したのは、紅く輝く宝石だった。
「カーバンクルの――! なんで……」
「陽平から預かったんだよ。空船公園できみが立ち去ったあと、これが残されていたそうだ」
やはり、あの場所だったか。
きっと、モルガルデンに殴られたときに落としたのだろう。
「アイツ……人のことを散々悪く言ったクセに」
「きみがこの家にもどってきたのは、これを探すためか?」
「そのとおりよ。……でも、いいの?」
「ないと困るんだろう?」
「そうだけど……」
考えてみれば、どの道もう、タイカに援軍を要請することなどできない。下手をしたら、カリンを狩ろうとする敵がさらに増えることになる。
もし使うとすれば、それは、彼女の任務が果たされたときだ。
「央霞。聞いて」
「うん?」
凛々しい眉がわずかに下がり、黒い瞳がカリンを見つめる。
「私には、アビエントラントを裏切ることはできない」
仮に家族のことがなくとも、きっと――
「臆病だと、笑ってくれていいわ」
「そうする理由がないな」
「だから、私はあなたと――あなたたちと戦うわ。こんなによくしてもらったのに、申し訳ないけど」
カリンの言葉に、央霞は深くうなずいた。
「わかった。いつでも来い」
ああ……そうだ。
央霞ならば、当然そう答えるだろう。
そんな相手だからこそ、私は――
「ありがとう」
カリンは目を伏せ、こうべを垂れた。
また、涙が零れたが、決して不快ではなかった。
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