白雪帝と7人の個性的な人々

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白雪帝と7人の個性的な人々

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上等の絹のような銀紫の髪に、緑に金を散りばめたような、角度によって金にも見える瞳、白雪のような一点の曇りもない肌。神の奇跡とも評される、この世の者とは思えないほどの美貌。文句のつけようもない、均整のとれた肢体。聞くものを魅了し、慣れた者でも気を強く持たなければ言いなりになってしまうという、魔性の声。

すべてが完璧だと。
物心ついた時から、毎日のように言われた容姿を鏡に映し、グレイジャーランド帝国第19代皇帝、スヴェトラーナ・レミング・チティリ・バリーノペラ・グレイジャーランドはため息をついた。

ついに、この日がやってきてしまった。

前皇帝の第一子として生まれた瞬間から決まっていた、皇帝という位に就くことはいい。そう言われて育ったし、自分もその名に恥じぬよう研鑽してきたつもりだ。
だが17という若さでこの座に就くとは。前皇帝である父はまだ若かったので、考えもしていなかったのだ。
それに帝位継承者としての義務を果たすにしても、あと2、3年の猶予はあると思っていた。だからそれまでの間に心の準備をしておこうと、そう思っていたというのに・・・。

老年期ではないが、青年と言う時期はとうに過ぎた父が、年甲斐もなく励んだ末に腹上死したというのは、極めて絶対的超級特別最重要国家機密であった。
相手は前皇帝の第三子であるソスラン・アンブロ・トゥリ・バリーノペラの母で、寵愛されているのをいいことに、父へ継承順位を変えろと唆そそのかす普段からいけ好かない女だった。まあ、精神を病んでしまった今となっては、気の毒に思わないでもないこともやっぱりないかもしれない。

しかしそう思えるのもどうにか落ち着いてきた今であるからで、御殿医から父の死因を耳打ちされた時は、突然父を亡くした悲しみも、それによって起こったごたごたも、すべてがなんでもない事のように感じられ、淡々と執務をこなせるくらいに恥ずかしかった。

それはもう、いい。
死者に文句を言ったところでどうにもならないし、現状が変わるわけでもない。

女帝、スヴェトラーナは目の前の鏡に映る、薄く透けるレースを何重にも重ねた夜着に身を包んだ自分の姿を見て、再びため息を漏らした。

「一分の隙も無くお美しくございます。皇帝陛下」

肩を落とした自分へ、柔らかな手触りの毛皮のマントを羽織らせながら、侍女のベラがうっとりとほほ笑む。鏡越しに苦笑してみせると、笑みを消したベラが他の侍女に聞こえない声で囁いた。

「ご安心ください。すぐ隣の控えの間におりますので、もしもの時はすぐにお助けいたします」

セバス族であるベラは、武芸にも長けている。そして暗部も真っ青なほど暗器の扱いが上手い。
礼を言う変わりに、肩に置かれたままだった彼女の褐色の手へ自分の手を重ねると、ベラが嬉しそうに茜色の目を細めた。

彼女と出会い、その主となれたのは、まことに僥倖であった。

まだ10歳になったばかりの頃、自分へ心酔したある貴族の男が貢物として差し出してきたのが、まだ名がなく、髪色からこけと呼ばれていた15歳のベラだった。
この貴族の男。表向きは気の優しい、子供にも好かれる人畜無害な人物だったが、実は小児性愛者で、さらに人身売買に手を染めているという疑いがあった。
そして、どうにかスヴェトラーナを手に入れられないかと画策していたようだ。
男はセバス族の少女を餌に、自分の屋敷へスヴェトラーナを招き入れた。・・・というか目的の為、スヴェトラーナは自らを餌に、男の屋敷へ乗り込んだ。

後ろ手に縛られた状態で、罪人のように連れてこられたベラを前に、彼女の扱いに対する苦言を呈するスヴェトラーナ。
その言葉を真摯に聞くふりをして、男は美少女の華奢な肩へと魔の手を伸ばし・・・たのだが、触れられた瞬間に身の危険を感じたスヴェトラーナは、反射的に男から距離を取り、すでに屋敷を制圧しているはずの騎士団を呼ぼうと口を開きかける。そこへ縄抜けしたベラによる金的が炸裂した。
悶絶する男へ、さらに容赦ない一撃が加えられ、男はついに意識を手放す。

その流れるような一連の動作に、スヴェトラーナは感嘆のあまり声を大にして称賛しながら拍手をした。
しばらく驚いた顔をしていたベラは、はにかむように笑うと深々と一礼。そして自分を縛っていた縄で男を縛り上げてから、スヴェトラーナの前に跪き、主となってくれるよう乞うたのだった。

しかし、どんなに頼もしい味方がいても、これから臨むことが憂鬱であることに変わりはない。
またため息をついたスヴェトラーナがベラ以外の侍女へ下がるように言うと、入れ替わりに1人の青年が入ってきた。

「俺も、控えの間は無理だが、廊下にいる。耐えられなければ呼べ」

そうは言っても、そんなことをすれば彼の首が飛ぶだろう。どんなに嫌でも皇帝としての義務だ。逃れられはしないし、彼を犠牲にしてまで逃れようとは思わない。

「大丈夫だよ。ギデオン」

安心させるように微笑んではみたが、うまくできなかったらしい。ギデオンの瑠璃色の瞳が不快気に細められた。
そんな表情でも美しい、とスヴェトラーナは思う。
人外と評されることもある自分の美しさとは違い、ギデオンの美しさは力強く息吹く、生命を感じさせるものだ。

このギデオン。件の貴族の男が囲っていた少年の一人だった。

金色の、猫のように柔らかな髪と、透き通った瑠璃色の瞳。まさに天使といった風貌の少年は、余程のお気に入りだったのか。屋敷の最も奥まったところ、格子窓のある豪奢な一室へ監禁されていた。
ベッドへ長い鎖で繋がれていたギデオンに、これといった目立つ怪我はなく、栄養状態も良好。しかし手負いの獣かというほどに攻撃的であった。

スヴェトラーナの命で踏み込んできた騎士に敵意を露わにし、手を伸ばそうものなら嚙み付いて逃げる。少年を傷つけるわけにもいかず、扱いに困った騎士たちが、証拠集めの指示を出していたスヴェトラーナに助けを求めた。

その時、初めてギデオンを目にしたスヴェトラーナは、雄々しく、また全身に生きようという気力が溢れるその姿に、心を奪われる。そして自分の姿を見、声を聞いてもひれ伏さない、異母兄弟以外の人間に狂喜した。

騎士たちへは敵意を露にしていたというのに、相手が女であるスヴェトラーナだったからだろう。過分に警戒しながらも少年は大人しくなった。そして羽化したての雛鳥のように付いてくる。

自分と同じか、もしくは1つ2つ上くらいの歳だと思われる少年を、スヴェトラーナは連れ帰った。そして自分の従者にすることにした。
次期皇帝の従者に身元不明な子供を据えるなんて、いろいろ問題ありまくりだったが、自分の魅力と地位を最大限に利用して押し通した。

元々孤児だったらしい少年は、それまでの名を捨てたがり、新しい名を欲したので、ギデオンと名付けた。

ギデオンは勤勉で、努力家だった。
あっという間に侍従として必要な知識以上のものを頭に入れ、近衛騎士も舌をまく程の武術も身に付け、名実ともに次期皇帝の侍従として認められてしまった。

ギデオンを手に入れられたのも、また僥倖であったと思う。

「そろそろ行こうか」

扉へ向かうスヴェトラーナを、ギデオンがじっと見つめてくる。
きっと震えるほど嫌がっていたのなら、彼は力付くでも止めたのだろう。しかし完全でなくとも、前皇帝が亡くなってから今日までに、ある程度の心の準備はできたのだ。
毅然とした姿勢で扉の前まで来れば、ギデオンが恭しく扉を開けてくれた。

今日向かうのはスヴェトラーナの母の出身地、チティリ出身のマルセル・ルルー・チティリという男のところだ。
実年齢よりも低く見える可愛らしい身長と容姿とは裏腹に、なかなか腹黒い人物らしい。ここへ至るまでに、容赦なく幾人も蹴落としてきたと、ベラに聞いた。
ベラは武芸に優れているが、諜報活動にも長けている。彼女が憧れ、目指す「にんじゃ」とは、かなり高度な技術を有する諜報集団らしい。正直、味方で良かったと本当に心の底から思う。

ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。本当はあと10人前後の侍女を連れていくのだが、気が散るからと同行を断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。一息飲んで気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。

青髪に瑠璃色の瞳の美少年・・・に見えるが、自分より6つ上のはずだ。笑みの形に反っている薄い唇が、なんとなくギデオンに似ている気がする。

「待たせたか」
「・・・っいいえ」

出迎えた姿勢のままこちらを見ていた外見少年は、弾かれたようにスヴェトラーナの足元まで来ると跪いた。

「・・・っチティリの族長が四男。マルセル・ルルー・チティリでございます」

深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
確かソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移るのだったか。だが出来ることなら歓談などすっとばして、一思いにやって欲しい。
そう思って、茶器の用意をしていたマルセル付きの侍女たちへ視線をやった。

「さがれ」

マルセル付きの侍女たちは戸惑いつつも、いまだ跪いたままの主が異を唱えなかったので、控えの間へ下がっていく。後に残ったのはスヴェトラーナとこの部屋の主であるマルセル、そして扉横で気配を消しているベラだけだ。
ギデオンは非常時でない限り部屋へ入ることが許されないため、廊下に控えている。

それにしてもこの男。いつまで跪いているつもりなのだろうか。

動かしてはならないと思えば思うほど、体というのは不思議なもので、動かしたくなってくる。意識しないと勝手に動いてしまいそうで、足へ力をいれて踏ん張った。
そうしてじっと耐えていたが、ついに痙攣するように爪先が動き、額を軽く蹴り上げてしまった。己の失態に、ついため息が漏れる。

「はぁ・・・」

謝罪からどうやって寝室へ誘えばいいのかと、半ば絶望していると、マルセルの体が傾いだ。

「ひっ?!」

反射的に身を引く。受け身もとらず、パタリと力なく倒れたマルセルの傍らにはいつの間にかベラがいて、手首を握り、鼻へ手をかざしていた。

「大丈夫です。気絶しているだけでございます」

ほっとしてマルセル付きの侍女を呼ぼうとすると、ベラが何かをマルセルの口へ放り込んだのが視界の端にうつった。

「なにを―――」
「お静かに。陛下」

華奢な少年風の体格とはいえ、それでも並みの女性程度には大きいマルセルの体を、ベラは事も無げにひょいと担ぐ。そして人差し指を唇へ当て、黙ってついてこいと言うように隣の寝室へと向かって行った。
大人しくついて行くと、ベラは丁寧にマルセルを寝台へと下ろし、スヴェトラーナへ扉を閉めるように視線で示す。扉が閉まってしばらくは気配を窺うようにベラが鋭く辺りを見回していたが、やがて力を抜くとスヴェトラーナへ向き直って口を開いた。

「大丈夫です。先程飲ませたのは、ただの「聞くだけで実体験した気になる」催眠薬と、ただの「2時間ほどいい夢を見る」睡眠薬です」
「・・・どの辺りが「ただの」なのかわからない」
「人体に害はなく、常習性もないので問題ありません」

何をする気だというスヴェトラーナの視線を受けたベラは、にんまりと笑む。そして扉近くの棚からワインとグラスを取り出し、窓辺の小さなテーブルへとスヴェトラーナを誘った。
素直に従ったスヴェトラーナから毛皮のコートを脱がせると、ベラはどこからともなく取り出したガウンを肩へかけてくれた。
寝室は今晩行われる行為のために、程よく温められている。ちょうどコートが熱く感じてきていた頃だったので、さすがベラだと心の中で褒め称えた。

「30分ほどで済みます。こちらでお待ちいただけますか?」
「構わないが・・・何をするのだ?」

再びにんまりとしたベラはスヴェトラーナの質問には答えず、一礼すると、寝台へ仰向きに横たわっているマルセルの枕もとへ跪く。そして自分の懐をごそごそと探ると、一冊の本を取り出した。
ベラが何をする気なのか全くわからないスヴェトラーナは、その一挙手一投足を見逃すまいというようにじっと窺う。
パラパラと本のページをめくっていたベラは、目的のところを見つけたのか、その手を止めると姿勢を正して口を開いた。

「小鳥がついばむような軽いキスを何度か繰り返すうち、次第に互いの息が上がってきた。そしてそれに比例するように、キスが深いものへと変わっていく。・・・マルセルはおずおずと差し込まれた・・・スヴェトラーナの舌を己のそれで絡めとり―――」

ベラの手元にある本は、官能小説らしい。
登場人物の名をスヴェトラーナと、横たわったままのマルセルへと差し替えて、臨場感あふれる朗読を始めた。
唖然として硬直したままのスヴェトラーナをそのままに、内容はだんだん過激になっていく。そして物語の中で行為が終わり、真実味満載なその事後処理まで読んだところで、ベラが本を閉じた。

「よし。」
「待て。何が「よし」なのかわからない」

満足げに微笑むベラは、スヴェトラーナの質問に答える事なく、隣にある湯殿の戸を開く。そして事後でも十分温かいようにと、熱めにはられた湯を、湯船から辺りへ撒くように捨て始めた。

「ベラ!何を・・・」
「お静かに、陛下。まったく・・・そんな血の気をなくすほど嫌なら、こうなる前にとっとと抱かれとけば良かったんですよ。誰に、とは言いませんけれども。・・・白雪帝って、永遠の処女って意味かっての」

白雪帝というのは、スヴェトラーナの渾名のようなものだ。一応、処女という意味ではなく、銀紫の髪と日に焼けたことなど無いというような肌の白さから来ているらしい。

ぶつくさ言いながら湯船の湯を半分ほど捨て、戻って来たベラはいつの間にか手にシーツを持っていた。ばさりと広げられたそれには一部、点々と赤いものが付いていて、さらに別の何かによる染みもある。

「まさか・・・」
「嫌ですよ。勘違いしないでください。私のではありますけど、指を切った血です」

ほっとするスヴェトラーナをよそに、ベラは一度広げたシーツを無造作に丸め始める。そしてふと、その動作を止めると、スヴェトラーナへ向かってにいっと笑った。

「アレはちゃんと今晩採取してきた新鮮なものですから、ご心配なく」

今日もほぼ一日中一緒にいたベラが、今晩と言うからには、きっとどこかの物陰で短時間でささっと・・・と、いうところまで想像したスヴェトラーナは、顔が赤くなるのを自覚しつつ声を落として抗議した。

「ベラ!なんという不純な!」

主人の叱責もどこ吹く風で、ベラは寝台へ近づいてマルセルの様子を窺ってから、スヴェトラーナがいる窓辺へとやってきた。

「陛下」
「なんだ?」

ふてくされながらワインを飲み切ると、ベラは新しいグラスへワインを注いで差し出す。意図が読めたスヴェトラーナは、空のグラスを自分の向かいへ置くと、新しいそれを受け取った。

「マルセル様は陛下の熱狂的な信奉者で、緊張が限界に達すると気を失う癖がある方です。まさか最敬礼しただけで気絶するとは思いませんでしたが・・・しかし陛下、次もこうなるとは限りません」
「・・・わかっている」

それにマルセルを乗り切ったとしても、他にあと4人いる。つまり問題を先延ばしにしたにすぎないのだ。
ため息をひとつついて、スヴェトラーナはワインを一気にあおる。

義務だとわかっているのに、どうしてこうも嫌なのか自分でもわからない。
自分は皇帝なのだから、無体な真似をされるわけでもなし。ただベッドに横たわり、されるがままに受け入れればいいだけだというのに。

なんとなく空のグラスを眺め続けていると、横から伸びてきた褐色の手にそれを奪われる。もう一杯注いでくれるのだろうかとベラを見上げれば、呆れたような表情の彼女がグラスについていた紅をぬぐった。

「偽装するには十分な時が経ちました。お部屋へ戻りましょう」

グラスをテーブルへ置いたベラが、手を差し出してくる。その言葉にほっとしてしまった自分に苦笑しつつ、スヴェトラーナはゆっくりと立ち上がった。


**********


「陛下。本日のお相手はミハイル・ハル・ドゥヴァ様です。自己愛が過ぎる方ですが、害はありません」

ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。今日も二人以外の侍女の同行を断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。今日こそはと気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。

金髪に瑠璃色の瞳のきらきらとして眩しく感じる容姿の美男が立っていた。すっと整った鼻筋が、なんとなくギデオンに似ている気がする。

男はきらきらしい笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。

「ドゥヴァの族長が次男。ミハイル・ハル・ドゥヴァございます」

深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。

「あぁ・・・美しい私こそやはり、陛下のような神の奇跡に相応しい」

何やら呟いているミハイルを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
昨日はそれどころではなかったが、まずソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移るのだったか。だがやはり、出来ることなら歓談などすっとばして、一思いにやって欲しい。
そう思って、茶器の用意をしていたミハイル付きの侍女たちへ視線をやった。

「さがれ」

顔を上げたミハイルがどういうことかとこちらを見ているが、無視して寝室へと向かう。ちらりと視線をやれば、困惑しながらも素早く立ち上がって付いてきた。
寝室は調度品が違うものの、大まかな配置は一緒で、窓辺の小さなテーブルにワインが用意してある。スヴェトラーナは毛皮を無造作に脱ぎ捨てると、これ幸いとテーブルについてワインをあおった。
扉の方を横目に見ると、相変わらず困惑した表情のミハイルが後ろ手に扉を閉めたまま立っている。

面倒くさい。
スヴェトラーナは心の中で悪態をついた。嫌で嫌で仕方がないのだから、気遣う気もおきない。
そのまま手酌でワインを5杯も口にすると、いい感じに酔ってきた。

後は好きにすればいい。
そんな投げやりな気持ちでベッドへ横になる。少しずつミハイルの息が上がってきている気がするが、もうどうでもいい。きっとこの後、あの荒い息をしながら圧し掛かってくるのだろう。

「・・・っは・・・はぁ・・・ふっ・・・」

一気に飲んだせいか、頭がぼんやりしてきた。そのふわふわと心地よい感覚に、スヴェトラーナは身を委ねる。
ミハイルの荒い息遣いを聞きながら、開けているのが億劫になってきた目を閉じた。



ベッドが軋み、隣へ誰かが横たわった気配に、スヴェトラーナは目を開ける。見知った天蓋とは違う事に驚いて飛び起き、すぐにここが今晩のお相手であるミハイルの寝室だと思い至って自嘲した。

「そうか。私はついに・・・」
「まだ、ですよ」

隣から聞こえたきらきらしい声に、ぎくりとする。まだ、ということは、これから事に及ぶということだろう。
恐る恐るそちらを見て、一気に気が抜けた。

「・・・声真似はやめろ、ベラ。お前のは完璧すぎて洒落にならん」

多才なベラは、一度でも声を聞けば完璧に真似ることができる。
ミハイルがスヴェトラーナの横で、昨日のマルセルと同様に幸せそうな顔で目をつむっていることから、きっと同じ薬を盛られたのだろう。
苦々しい表情のベラは、昨日と同じく丸めたシーツを持っている。なんとなく湿気を感じることから、もうすでに湯船の湯を撒いた後なのだと予測した。

「いえ・・・私もまさか、自他共にナルシストだと認めるミハイル様は放置プレイがお好きだなんて、夢にも思いませんでした。ちょっと様子がおかしいなと天井裏から窺いましたら、「この私を無視するだなんて!」と、非常に興奮されたミハイル様がドアの前に立ったままアレをしご―――」
端折はしょれ。」
「ミハイル様は、完全に無視して眠ってしまわれた陛下の横で、さらに2度ほどすっきりされて、そのままベッドへもたれかかるようにおやすみになられました。それはまあ、気持ちよくお休みなので、ついでに睡眠薬を盛りまして、お体を清め、ベッドへお連れしたところでございます」

どうやら盛ったのは睡眠薬のみで、湿気を感じるのは汚れたミハイルを風呂へ入れたかららしい。
と、いうことは昨日のような偽装はしていないという事だ。つまり、ミハイルが目覚めれば当然、義務を果たさなければならないわけで・・・。

「陛下・・・」

よほど情けない顔をしたのか、ベラが沈痛そうな声で呼びかけてくる。
大丈夫だ、と力なく彼女へ笑いかけたスヴェトラーナの視界に飛び込んできたのは、錠剤をミハイルの口へ押し込むベラの姿だった。

「おい。」

そんな流れだったかと咎めるスヴェトラーナをよそに、ミハイルの鼻をつまんで薬を飲みこませたベラは、胸元から取り出した本のページをめくる。

「ベッドの軋む音に・・・ミハイルは眠りから一気に目覚める。ぱちりと目を開ければ、そこには・・・ミハイルの上に跨がり、ただそこにある物へ何気なく向けるような、何の感情も浮かばない瞳の・・・スヴェトラーナが―――」

その後、昨日とは違った趣向の朗読を終えたベラと共に、スヴェトラーナは自室へと戻るのだった。


**********


「陛下。本日のお相手はムフ・ググ・アヂーン様です。脳みそまで筋肉で出来ていそうな人物ですが、害はありません」

ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。今日もまた二人以外の侍女の同行は断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。するとわずかの間もなく、扉が内側へ開かれた。ぐっと拳を握って気合を入れ、部屋の中へ入ると、正面のソファの前で立って出迎えてくれるはずの部屋の主がいない。
さらに普通2、3人はいるはずの侍女もいない。

ふっと笑う気配に後ろを振り向けば、後ろ手に扉を閉めた男が笑みを浮かべていた。侍女が開けるはずの扉を開けたのがこの部屋の主だったのだ。

赤髪に瑠璃色の瞳の、がっしりとして凛々しい美丈夫が立っていた。精悍な面立ちの眉が、なんとなくギデオンに似ている気がする。

男は暑苦しい笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。

「アヂーンの族長が六男。ムフ・ググ・アヂーンという」

深々と頭を下げて、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
昨日はすっ飛ばそうとして失敗した。今日は手順通りソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移ろう。
そう思って軽く頷いていると、立ち上がったムフに手を取られ、指先へぶちゅっと口づけられた。驚いている隙に、もう片方の手を腰に回され、引き寄せられる。

「どれほどこの時を待ちわびたか!」

感極まっているらしいムフが、鼻息荒く顔を寄せてくる。
思わず仰け反った時、ムフに抱きしめられているせいで少し浮いていた足が滑ってしまった。そのまま後ろへ倒れそうになり、とっさに滑った足を振り上げる。すると図らずも、ムフの股間に足が入り、金的を喰らわせてしまった。

「ぐうっ」

即座にスヴェトラーナを解放し、呻いてその場にうずくまる、ムフ。小刻みに震える肩越しに、赤く染まっていく頬が見えた。
これは不味い。きっと怒りのあまり、頭に血が上ってきているのだろう。

「だ、大丈夫か?!」

声をかけると、素早くムフが立ち上がった。震える拳を握り、顔を真っ赤にして睨むようにこちらを見下ろしてくる。
その今にも暴行を働きそうなのを押さえているといった形相に、スヴェトラーナは恐怖のあまり、扉横に控えているベラへ助けを求めた。

「ベラ!」
「はい。陛下」

加勢しろと言うつもりで呼んだのに、ベラは彼女愛用の鞭を投げてくる。
一度、なぜ鞭を好むのかと聞いたことがあるが、「ベラと言えば鞭なのです!」と力説された。よく解らないが、そんなわけでスヴェトラーナも、鞭の扱いには長けている。

武器を手にしたことがムフの怒りを煽ったのだろう。完全に血が上り切った耳まで赤い顔で、スヴェトラーナを拘束しようというように両手を大きく広げた。

「陛下!!」

ムフの大きな声に、スヴェトラーナの恐怖は最高潮に達する。衝動のままにムフの脛すねを狙って鞭を振るった。

「はあうっ」

ムフが大きな体を震わせながら、脛を押さえて蹲る。そして潤んだ目でスヴェトラーナを見上げてきた。

「・・・?」

なんだろう。痛がっているにしては様子がおかしい。
反応に戸惑いつつも、反撃を恐れたスヴェトラーナは鞭を構える。するとムフが両手を床に付き、体を斜めに崩した姿勢で呟いた。

「・・・っと」
「は?」

実は聞こえてはいたが、聞き間違いかと聞き返したのだが・・・。

「もっと」
「・・・・・・・・・」

聞き間違いではなかったようだ。うるうるとこちらを見上げてくるムフの瞳には、期待がこもっている。
瞬間的に心が凪いだスヴェトラーナは、望みを叶えてやることにした。

「あっ!くぅっ!あぁ!!」

できる限り鬱血するような痕が残らないようにと、力を調整しながら、服の上を狙って鞭を振るう。
目前で大の男が鞭で打たれてよがっている様は、徐々にスヴェトラーナの精神を無の境地へと誘っていく。それでも残った理性が、痛みを感じにくい体の部分を狙わせた。
どうやらムフは尻を打たれるのがお気に召したらしい。四つん這いになってスヴェトラーナへ差し向けてきた。

「はああぁぁぁぁんんん!!!」

数回尻を打ったところで、ムフが嬌声を上げながらびくびくと痙攣し、床に伸びた。
重い沈黙の中、満足そうに目を閉じているムフの、ゆったりとした呼吸音が、やけに大きく聞こえる。

「はぁぁぁぁ・・・」

盛大なため息をついたスヴェトラーナの手から、音もなく近づいてきたベラが、そっと鞭を回収する。その後、ムフの傍らへ跪くと、自然な動作で何かを飲ませた。
無表情でこちらを見上げるベラへ、スヴェトラーナもまた無表情で頷く。

体の大きいムフの足を掴んで引きずるベラの後を追い、寝室へ入って重たい体をベッドへ上げるのを手伝う。そして官能小説の朗読を始めたベラを待つ間に、スヴェトラーナは湯船の湯を半分、浴室の床に撒いた。



「また、か?」
「・・・あぁ」

自室へ戻ってぐったりとソファへ身を沈める、スヴェトラーナ。
そんな疲れ切った表情の彼女へ、就寝の準備をしているベラに変わり、ギデオンが紅茶を入れてくれた。その香りから、少々ブランデーを垂らしてくれたのだと分かる。それを口に含むと、程よい酒分と甘み、温かさが、心地よい眠りを誘ってきた。

「ギデオン」

ぽんぽんと自分の隣をたたいて示せば、ギデオンが素直にそこへ腰かける。
彼の重みでソファがそちらへ沈み込んだ。それに伴って傾ぐ体を、そのままギデオンの方へとゆっくり倒していく。
こてん、とギデオンの肩へ頭を預けると、ほんの少し体をこわばらせた彼が心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫か?ラーナ」

就寝前の、わずかなくつろぎの時間。
この間のみ、スヴェトラーナを皇帝ではなく、ただのスヴェトラーナとして扱うようにと、二人には頼んでいる。互いに幼少期からの長い付き合いな二人。ベラは嬉々として、ギデオンは苦笑しながら、その願いを受け入れてくれた。

「大丈夫、ではない」

そう言って盛大なため息をつくと、ギデオンがスヴェトラーナの頬へかかっていた髪を、丁寧に耳へかけてくれる。そのままするりと頬を撫でられたのがくすぐったくて、スヴェトラーナは小さく笑った。

「ギデオン。私を攫って逃げてくれないか?」

張りつめていた気分が安らいだ隙に、願望がふと口をついて出てしまった。

なにもかも捨てて逃げる。
それはなんて甘美な選択なのだろうか。

だがそれを実行しようと真剣に考える前に、無理だと、できないと思ってしまう自分がいる。

スヴェトラーナが退位すれば、現在第一帝位継承者である異母弟、ゼノベルト・オルカ・ドゥヴァ・バリーノペラが皇帝となる。
黙っていれば芸術品のように美しい容姿の異母弟が、「お前の治世の為に「夜の女神」を篭絡してやる!待っていろ!」とか言って、隣国へ留学という名の人質として旅立ったことは記憶に新しい。
あれは我が強いが、馬鹿ではない。皇帝となっても問題なく国を治められるだろう。
しかし問題は妃だ。ゼノは幼馴染みであり、また護衛でもあるダリアを心底愛している。だが残念なことに、ダリアの家格は妃とするには弱すぎるのだ。
例えごり押しでダリアを妃にできたとしても、彼女以外の女に見向きもしないゼノが、後宮の他の妃の元へ真面目に通うとも思えない。おそらくダリアのところへ入りびたり、それはやがて争いの種となるだろう。

では第二帝位継承者である、ソスラン・アンブロ・トゥリ・バリーノペラはどうかと言うと・・・あの毒でしかない母さえいなければ、まともかもしれない、こともないか。
かなり好戦的な性格なので、敵を作りまくって内乱が起きるか、隣国へ戦争を仕掛ける恐れがある。あまり皇帝の座を与えたくない人物だ。

以下の異母弟妹たちに関しては、まともなのもいるかもしれないが、歳の若いものほど帝王学を修めているのかさえ、怪しくなっていく。母であるチティリ妃には自分しか子がいないため、他の異母弟妹たちのことはよくわからない。

問いかけたものの考え込んでしまったスヴェトラーナに、ギデオンが寂しそうに微笑んだ。

「ラーナが本当にそう、望むのなら」

スヴェトラーナが義務を疎みつつも国を捨てきれない事を、ギデオンはわかっているのだろう。労るように、慰めるように、優しくスヴェトラーナの頭を撫で始めた。

「ラーナはもっと欲張ってもいいと思うよ」

眠気を誘う心地よさに目を閉じかけていたスヴェトラーナは、つと顔をあげる。ぼんやりした頭に浮かんだ望みを、素直にそのまま口にした。

「それなら・・・・・・キスして。ギデオン」
「いいよ」
「え?」
「え?」

間髪を容れず返ってきた答えに思わず声を漏らすと、答えたはずのギデオンもまた驚いたような声を出した。どうしたのかと目を開ければ、どこかを睨んでいたギデオンが、慌てたようにスヴェトラーナへ視線を落とす。

「い、いいよ。ラーナがそう望むのなら」

ギデオンはスヴェトラーナに甘い。
それは、危険を伴う事でさえも始めは止めてくるが、それでも食い下がれば入念な下準備の後ならばと許してくれるくらいだ。
まあ、今回の望みは命に関わるような危険ではないし、ギデオン自身の感情などそっちのけで叶えようというのだろう。

スヴェトラーナは得体のしれない後宮の主たちよりも、旧知のギデオンに初めてのキスをと願った。しかしさすがに気が乗らないキスをして欲しいとは思わない。
ふっと自嘲するような笑みを漏らして、スヴェトラーナは俯いた。

「無理にとは」
「無理じゃない!!」

言うが早いか、ギデオンがスヴェトラーナの額に唇を押し付ける。そしてすぐに離した。
驚いて顔を上げたスヴェトラーナの視線から逃れるように、ギデオンが顔を背ける。彼の耳が赤く染まっていることから、不快であったわけではなく、照れているのだとわかった。
その横顔に何故だかきゅんときて、スヴェトラーナはもっと大胆なお願いを口にした。

「ギデオン。できれば唇へお願いしたいのだが」
「はっ?!」

一瞬、ソファから浮いたのではないかというくらいに体をびくつかせたギデオンが、言いたいことがあるのに声がでないという様で口をぱくぱくさせながら、スヴェトラーナを見下ろす。
きっと普段の、皇帝としての振る舞いに重きを置いているスヴェトラーナならば、絶対に口にすることなどない言葉だからなのだろう。
どうやら紅茶に混ぜられたブランデーが、思ったよりよく回っているらしい。頭がぼんやりと霞みがかっている感じで、心がふわふわと浮ついて心地いい。少量でここまで酔うなんて、ここ数日、心労でよく眠れない日が続いているせいかもしれない。

「ギデオン」

強請ねだるように名を呼び、目を閉じる。ギデオンの喉がひゅっと鳴った音が聞こえた。閉じた瞼に影を感じて、ギデオンが顔を寄せてきていることが分かる。
自分から強請ったくせに、今更ながら緊張してきた。うるさく騒ぐ心臓の音に紛れて聞こえる、ギデオンの息遣いがかなり近い。

「・・・っう」

互いの唇がそっと掠めるように触れ、すぐにまた重なる・・・なんてベラが朗読する本のように甘くはなく。

互いの歯をぶつけ合い、二人とも涙目で口元を押さえた。

「・・・」
「・・・」

暫くそうして見つめあっていたが、緊張からき放たれた反動か、笑いが込み上げてきてしまった。そして、どちらからともなく笑い始める。
くすくすと笑う二人の前へ、ベラが優しい香りのする紅茶を差し出した。

「お二人とも目を閉じるからですよ。そういう時は薄目で距離を確かめながらするものです」

スヴェトラーナは苦笑して、ギデオンは顔を真っ赤にしてベラを睨みながら紅茶を受け取る。
程よく冷めたそれをゆっくりと口にすれば、ぼんやりしていた頭が急にすっきりした。その横ではギデオンが紅茶を一気飲みしている。

「・・・何か盛ったな?」
「まさか!先程、紅茶をいれたのはギデオンです。きっとお疲れのせいで、きっと気分が開放的にきっとなっただけですよ。きっと。」

スヴェトラーナは勝手に向かいのソファへ腰かけ、自分へも入れた紅茶を口にするベラをじっとねめつけた。しかしそんなスヴェトラーナの視線も何のその。ベラは涼しい顔で優雅に紅茶を飲んでいる。
この上なく怪しいが、ギデオンがお茶を入れたのも確かだ。ずっと目で追っていたのだし。そしてギデオンは薬を盛るといったはかりごとはしない。と、いうかすぐ顔に出るのでやったとしてもすぐわかる。

ほうっとため息をついて、スヴェトラーナは事実を明らかにすることを諦めた。

「ベラ。残りの二人はどんななんだ?」

相変わらずベラを睨みながら、ギデオンが訊ねた。
ギデオンとベラは、ギデオンが護衛、執務の補助といった表の仕事を。ベラが身の回りの世話、諜報活動といった裏の仕事と、分担して行っている。
ベラはカップをソーサーへと静かに置いて、にっこりとほほ笑んだ。

「明日、伺う予定のメレル・レング・ピャーチ様は、少々変わった方ですが、わた・・・陛下に忠誠を誓っておりますから、害になることはしません」
「・・・どう変わっているのだ?」

これまでの流れからして、最も重要な所を聞き咎める。ベラは小さく首を傾げると、人差し指を顎へ当てた。

「ピャーチは去年、内乱をさせ・・・しまして」
「おい。何を言いかけた?」

言葉をかぶせたスヴェトラーナの問いに、ベラは微笑むだけで答えない。

ピャーチの内乱についてはスヴェトラーナももちろん知っている。ピャーチの前族長は領民へ重税を課し、飢えていく民を横目に豪遊するような、腐った男だった。
いつ民が蜂起してもおかしくない状況だったが、反乱軍へ手を貸すにしても、前族長を失脚させるにしても、次期皇帝という立場でしかなかったスヴェトラーナには力が足りなかった。
それがどこから資金を得たのか、反乱軍がついに前族長を打ち取り、先々代族長の庶子の孫という人物を新たな族長にすえたのだ。
ベラは言う気がないようだが、おそらく反乱軍に手を貸したのは彼女なのだろう。

どこで得た知識なのかわからないが、ベラはいくつか変わった事業を起こして軌道に乗せている。正直、なぜまだスヴェトラーナの侍女をしているのかわからないほど、稼いでいるはずだ。
さらに事業を起こしたことにより、必要になったらしく、ある程度の私兵も抱えている。つくづく味方でよかったと本当に心の奥底から思う。

侍女が有能過ぎて何とも言えない気持ちになっていると、ベラが続きを話し始めた。

「そんな訳でピャーチは、前族長一族が末端まで処刑されました。それにより後宮へ上げられるほどの身分を持つ男性が、現族長様とその弟君であるメレル様しかおりません。現族長様にはすでに奥方も御子もおみえですので、必然的にメレル様が後宮入りされました。つまり選択肢が他にないということですね。それを踏まえて、おおらかなお気持ちで対処してください」
「・・・で?どう変わっている人物なのだ?」
「それは、お会いになれば分かります」

にこにこと意味ありげに微笑むベラに、スヴェトラーナはげんなりする。こういう時のベラは懇願しようが、脅そうが教えてはくれない。
いや。「解雇する!」と脅せば教えてくれるが、嘘とは言えないようなぎりぎり事実のような事を言って、余計に混乱させてくるので、無理に聞かない方が身のためだ。

「もう一人は?」

メレルの情報を早々に諦めたスヴェトラーナは、もう一人について聞くことにした。すると今までにこにこしていたベラの笑顔が凍り付く。

「ダイジョウブ、ダヨ。ハハッ」

ベラは鼻にかけた妙な声で笑って、立ち上がった。
今までにないベラの反応に、ただ事ではないとスヴェトラーナとギデオンは焦る。

「ちょっと待て!」
「逃げるな、ベラ!」

素早くベラの逃げ道を塞いで、ギデオンは身構えた。
手数はベラの方が多いが、膂力はギデオンの方が上。不意打ちなしで丸腰ならば、ギデオンの方へ軍配が上がる。
そこまで考えたのか、元から本気で逃げる気などなかったのか、ベラがスヴェトラーナへ向かって跪き、真剣な顔で言った。

「腐れ眼鏡の事は私にお任せください。無駄に有能なせいで後宮入りを許してしまいましたが、明日までに何とかいたします」
「・・・穏便にな」

不穏な空気を感じ取ったスヴェトラーナが釘を刺す。きっとスヴェトラーナが想像した通りの事をするつもりだっただろうベラが、不満げに眉をひそめた。

「わかりました。視界へは入ってしまうでしょうが、決して陛下に触れさせないようにいたします」
「・・・そんなに危険なのか?」
「はい。精神的に。」

ということは、身体的な危険はないという事だ。まあ、そうならば後宮へ入った後であっても、ベラが何とかしていてしまっただろうし。
なんだか一気に疲れてきたスヴェトラーナは寝室へ向かう。その扉を開ける前に一旦振り返って、心配そうにこちらを見ているギデオンへ微笑んだ。

「おやすみ。ギデオン」


**********


ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。やはり他の侍女の同行は断った。
目的の部屋まで来てベラがドアをノックすると、少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。深呼吸をして気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。

緑髪に瑠璃色の瞳の穏やかな、なんとなく母性を連想させる柔らかな雰囲気の男。華奢な顎の形が、なんとなくギデオンに似ている気がする。

男は穏やかな笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。

「ピヤーチの族長が弟。メレル・レング・ピャーチでございます」

深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
今日こそはちゃんとソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移ろう。そうしよう。

「メレル殿」

とりあえずソファへ移動しようと声を掛ければ、メレルが顔を上げる。しかしその綺麗な顔はみるみる歪み、ついに涙を流し始めた。

「申し訳ございません!陛下!!」

再び頭を下げ、床へ額を擦り付けるようにして謝罪されて、何のことだかわからないスヴェトラーナはメレル付きの侍女へ助けを求めようとした。

「申し訳ございません!!」

しかし頼みの網の侍女たちもまた、跪いて頭を床へ擦り付けていた。

「ベラ・・・」

困ったスヴェトラーナは唯一立っていた、扉横のベラへ助けを求める。すると仕方ないという感じにため息をついたベラが、ゆっくり近づいてきた。

「メレル様。陛下が困っておいでです。とりあえずソファへ座っていただいて、それから訳をお話しください」
「あいあい、まむ!」

しゅたっと立ち上がり、遠くを見る時に日の光を遮るかのような、右手を額へ掲げる不思議な動作をしてから、メレルはスヴェトラーナをソファへ座るように促した。

「どうぞ、おかけください。陛下」
「あ、あぁ」

つい先程までめそめそ泣いていた人物と同一とは思えないほど、爽やかに笑んだメレルに若干怯えつつ、スヴェトラーナはソファへ腰かけた。
メレルはというと、向かいのソファへ座ると思いきや、スヴェトラーナの斜め向かい辺りへまた跪く。何が始まるのかとびくびくしていると、今一度深く頭を下げてすぐ上げたメレルが真顔で告げた。

「私は同性愛者です。陛下は神の奇跡と言えるほどお美しいとは思うのですが、残念ながら私は女性に全く反応しないのです。ですから誠に申し訳ございませんが、殿下の夜伽のお相手をすることができません」

成る程。ベラが言っていたのはこの事らしい。
想像していたより大したことがないな、と思いながらスヴェトラーナは自分の考えを口にした。

「わかった。私としては無理に義務を果たそうとせずとも、構わない。しかしピャーチとしてはどうなのだ?族長はなんと?」

元々乗り気でないスヴェトラーナには願ってもない幸運だ。しかし後宮と言うものは政の影響を受けるし、また影響を与えるものでもある。
グレイジャーランド帝国の帝位継承は出生順であり、後宮では継承順位に伴った力を有することになる。そして政でも発言力が増す。だから皆、次期皇帝の父という座を欲するのだ。
それを心配して問えば、緊張して息を止めていたらしいメレルはほっと息をつくと、晴れやかに笑った。

「陛下のお許しさえいただければ、問題ございません。兄は私の性癖を知っていますし、ピャーチとしては今後しばらく領内の安定に力を注ぐ必要がございます。後宮の覇権争いに割く余力は無いのです。よって陛下が私の代わりをお望みで無ければ、よいのでこざいます」

互いに納得したところで、メレルにソファへ腰掛けるよう勧める。
その後、ピャーチの現状や、ベラとの関わりなど、穏やかでない場面もあったが比較的穏やかに話し、スヴェトラーナは自室へと帰った。


**********


「陛下。決してヤツの半径2メートル以内へ近づかないよう、お気をつけください。最敬礼も許してはなりません」

非常に緊張した面持ちのギデオンと、警戒心を露わにして鋭く周囲を探るベラと共に、スヴェトラーナは後宮へと渡る。
他の侍女たちは、同行を断る前に皆、体調不良で倒れてしまった。ベラが苦々しい顔で告げてきたので、仮病ではなく、本当に体調不良のようだ。
余程、今晩のお相手は恐れられているらしい。

「わかった。」

スヴェトラーナが神妙に頷いたのを確認して、ベラが扉をノックしようとする。しかしその手が触れる前に、扉が音もなく開いた。

「何の真似ですか?」
「お前こそ。誰に向かって刃を向けている?」

ベラに喉元へ短剣を突き付けられ、スヴェトラーナへ手を伸ばす姿勢で動きを止めた、茶髪で眼鏡の男が偉そうに言う。その眼鏡の向こうにある、瑠璃色の瞳がなんとなくギデオンに似ている気がする。

ちらりとスヴェトラーナを見やったベラは、どうやら主の前で血を流すことを躊躇っているようだ。ほんの少しだけ短剣を押し付ける手を緩める。
それに気づいた男が、喉元へ短剣を食い込ませながら、スヴェトラーナへと一歩近づいた。
その男とスヴェトラーナの間へ身を置いていたギデオンが、無言ですらりと剣を抜く。それを見ても全く怯むことなく、男が高圧的にわらった。

「どけ。番犬。お前の出番はない」
「陛下へ許可なく触れようとする者に、道を譲る気などない」

剣を構えて相手を見据えるギデオンと、笑みを消してそれを睨み付ける男。
しばらく二人は睨み合っていたが、再び嗤って足を進めかけた男の首から、ついに一筋の血が流れ落ちた。
それなりに痛かったのか、男の眉間に皺がよる。

「・・・いいだろう。入室を許してやる。その目で己の主が、我がものとなる様を見るがいい」

やや涙目で首を押さえながら、男が後ろへさがった。
男との間に十分な距離が開いてから、ギデオンとベラが刃を収める。男の発する妙な空気に飲まれたら負けだと、スヴェトラーナは既に萎えかけていた気力を奮い立たせた。

「モイセイ・レイ・トゥリ。私はものではない。これ以上不快な態度をとるならば、このまま帰るぞ」
「・・・申し訳ございません、陛下。どうぞ、お入りください」

扉を大きく開けて恭しく頭を下げる、モイセイ。
先行したギデオンに続き、警戒したまま部屋へ足を踏み入れたスヴェトラーナは、目の前の光景に足を止めた。

「ひぃっ」

手手手手手手手手手手手手手手手手手――――――。
壁も、床も、天井も。部屋を埋め尽くすのは、数えきれないほどの手。肘から上、様々な格好をした手が、整然と並んでいた。

「ご安心ください。本物ではありません。木製です」

硬直して動けないスヴェトラーナへ、モイセイが壁の手の1つに触れながら言う。その表情は恍惚としながらも、どこか残念そうな様子に、鳥肌が立った。
人の手の剥製なんて洒落にならない。

「ギデオン!」

最後に部屋へ入ったベラが、スヴェトラーナの背をその前にいたギデオンの方へと押す。
即座に響いた金属音に振り替えれば、ベラが2メートル四方の檻へ捕らわれていた。

「貴様!」

斬りかかったギデオンの剣を、モイセイがひらりとかわす。
勝手知ったるモイセイに対し、足元の手を避け、壁や天井の手にも気を遣いながらのギデオンの動きは悪い。ついに手の1つに足を捕られ、膝を付いてしまった。ギデオンの名誉のために言っておくと、本当に足を捕られ・・・捕まれている。

「どうだい?その仕掛け、気に入ってくれたかな?」

かなりの自信作だったのか、モイセイが満足げな笑みを浮かべる。そしてそのままスヴェトラーナの方へ、近付いてきた。

熱を帯びたモイセイの瑠璃色の瞳が、じっとりとスヴェトラーナを見つめている。その狂気さえ感じる視線に、スヴェトラーナの全身があわ立った。確実にスヴェトラーナの手しか見ていない視線に。

「さぁ、その神の寵愛を受けし御手みてをもって、我が聖剣を抜き、熱き情熱を解き放つのだ!」
「・・・」

意味がよく解らなかったが、ギデオンとベラの反応から、卑猥な意味を持つことは予測できた。

じりじりと近付いてくるモイセイから、スヴェトラーナもまたじりじりと後退しながら距離を確保しようと試みる。その背がついにベラを捕らえる檻に触れ、スヴェトラーナははっと息を飲んだ。
絶体絶命である。

「陛下。伏せてください」

その時、スヴェトラーナにしか聞こえない大きさでベラが言った。瞬時に伏せれば、スヴェトラーナの頭上に甲高い金属音が響く。
驚いて振り向いたスヴェトラーナの目に入ったのは、ベラの腰の高さで真っ二つに切られ、ちょうど上部が床へ落ちる瞬間の檻だった。

「小刀で居合い切りなんて初めてしましたよ。刃こぼれしてしまったではないですか。トゥリの候補の中ではマシな方でしたし、ただの手フェチだからと多目に見ていれば、調子に乗って・・・もう手加減なんてしませんからね」

ゆらり、と表情を無くしたベラが立ち上がる。
そこから彼女が何をしたのかわからなかった。

気がつけば、目の前にいたはずのベラの姿がなく。モイセイの悲鳴に振り返れば、彼は後ろ手に、亀の甲羅を思わせる不思議な縛り方をされていて。
床の手から解放され、呆然と佇むギデオンの前に、モイセイがぶら下げられていた。

「ベラ?」

とうとう床にへたりこんでしまったスヴェトラーナへ、ベラがにっこりと微笑む。
そしてぱちりと指を鳴らした。

「カモーン、メレル!」
「はっ」

突如として現れ、ベラの足元へ跪くのは、昨日会ったばかりのメレル・レング・ピャーチ。昨日の穏やかかつ、きらびやかな衣装とはうってかわって凛とした、体にぴったりとした黒装束である。

「はい。これ陛下愛用の香油。突っ込むのは同意を得てからにしてね」
「・・・はい」

何処に、とは聞くまい。
恭しく、しかしやや不満げに小瓶を受けとるメレルに、ベラが苦笑する。

「そんな不満そうにしないの。今度、ご褒美あげますから」

そう言って頭を撫でると、メレルが蕩けるように笑み、それを隠すように頭を垂れた。

「御意」

昨晩、メレルから「ベラずぶぅときゃんぷ」とやらの壮絶な話を聞き、半分以上は冗談だろうと笑いながら聞き流していた。
しかしどうやら事実だったようだ。途中でベラが止めたため、すべては聞けなかったが、それでもすごい内容をうっとりと語っていたので、相当ベラに心酔しているらしい。
やはりベラが味方でよかったと、純然たる心の奥の奥底から思う。

「何をする気だ!侍女の分際で我をこのような目に合わせるなど、赦されるものか!」

遠い目で悟りを開きかけていたスヴェトラーナの意識を乱暴に現実へ引き戻したのは、天井からぶら下がったままのモイセイの声だった。
ぎゃんぎゃんと吠えるモイセイの口に、ベラが何やら放り込む。そしてメレルの手をとって立たせると、見せびらかすようにその手を掲げた。

「大丈夫ですよ。貴方にも利のあることです。ほーら。ちゃんと貴方好みの手でしょう?」
「まさか・・・それは我が魂の伴侶である証、聖なる御手!なぜそこに!」

本当にそうなのか、薬の影響なのかは解らないが、嬉しそうに興奮し始める、モイセイ。
にいっと口角を上げたベラが、そちらを指差した。

「さあ、やっておしまい!」
「あいあい、まむ!」

直立したメレルが、指を伸ばした右手を額へ掲げる。そしてその手を大きく横へ広げ、焦らす様にゆっくりとモイセイへ近づいて行った。
「やめろ!」とか言いながら、悦びに口角が上がっている、モイセイ。その声が嬉しい悲鳴に変わった時、急に後ろから視界を遮られた。

「ギデオン?」

目を塞いだ手は慣れた感触だったので、スヴェトラーナは落ち着いて問いかける。するとやや緊張している声が降ってきた。

「・・・帰ろう。手を外すけど、目は閉じておいた方がいい」

きっと耐え難い光景が繰り広げられているのだろう。耳に入ってしまう内容だけでも現実を逃避したくなっているし。
素直に頷いて目を閉じれば、目の前にあったギデオンの手が離れていった。
そっとスヴェトラーナの手を取ったギデオンのそれを握り返し、立とうと試みて、上手く力の入らない自分の足に顔をしかめる。すると気遣うように優しく、ギデオンがもう片方の手でスヴェトラーナの背に触れた。

「抱えるよ」
「頼む」

ギデオンがスヴェトラーナの背と膝裏へ手を差し入れて、全く重みを感じさせない動きで立ち上がる。すぐに扉の閉まる音がして、モイセイの嬌声が遠のき、ほっと息をついた。
モイセイの部屋への滞在は、思ったよりもスヴェトラーナの精神を圧迫していたらしい。開放感からか妙に甘えたくなり、ギデオンの首元へ額を押し付ける。ギデオンは少し体をこわばらせたが、足を止めることはなく、周囲に人の気配がないからか、咎めることもなかった。
誰かに見咎められそうならばギデオンが警告してくれるだろうから、それまでこの状況を楽しもうと、時折額を擦り付けるようにして甘えてみる。しかし珍しい事に誰とも鉢合わせることなく、スヴェトラーナの自室へ到着した。

「ね、ギデオン。このまま寝室へ連れて行ってくれないか?」

散々甘えたにもかかわらず、ギデオンは嫌がるそぶりを見せなかった。それに気を良くしたスヴェトラーナは、彼女をソファへ下ろそうとするギデオンへ、少し大胆なお願いをしてみる。
一瞬で首まで真っ赤になったギデオンが、信じられないものを見るような目をスヴェトラーナへ向け、すぐに視線を彷徨わせた。

男であるギデオンが寝室へ足を踏み入れたことなど、ただの一度もない。
だが今、いつもならば寝室まで付き添うベラはいないし、他の侍女たちは体調不良で臥せっている。ベラがいるのだからいいかと、代わりの侍女を呼ばなかったのは、スヴェトラーナにとって幸運だったようだ。

他にスヴェトラーナを寝室へ連れていける人間がいないのだから、とギデオンが考えたかどうかはわからない。それでもあまり間を置くことなく、ギデオンが頷いた。

「い、いいよ。ラーナがそう望むのなら」

明らかに緊張している様子のギデオンが、スヴェトラーナを横抱きにしたまま寝室へと足を踏み入れる。そしてゆっくり、宝物を扱うようにゆっくりとスヴェトラーナを寝台へ横たえた。

「ギデオン」

ほっと息をついて、すぐに離れようとするギデオンの首へ手を回し、スヴェトラーナはしっとりと彼の名を呼んでみる。
そして、ぎくりと動きを止めて硬直したギデオンの唇へ、自分のそれを重ねた。噛みつくようになってしまったのは、逃がすまいという気持ちの表れなのかもしれない。

「ラーナ!」

ギデオンの抗議を無視して、スヴェトラーナはもう一度、唇を重ねた。がちりと互いの歯が当たったが、それを気にとめることなく、2度、3度と貪むさぼるように唇を重ねる。
ギデオンはスヴェトラーナの肩を掴んで引きはがそうとしてくるものの、乱暴にはできないようで、ほぼされるがままだ。

止めようとはしても、嫌がるそぶりのないギデオンの態度は、スヴェトラーナの昂たかぶる心の中に僅わずかな満足感を生む。

自分の欲望に忠実な、モイセイ。
義務を放棄した、メレル。
性癖を隠そうともしない、ムフ。
自分勝手な、ミハイル。
愛を体現する、マルセル。

個性的な5人に出会い、それぞれを知ったことで、スヴェトラーナは自分だけ我慢していることが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

自分は皇帝だ。少しくらい好きにしたっていいではないか。
初めてくらい、好きな人に抱かれたいと思うことの何が悪い。
それに自分は女だ。誰の子を産もうと、皇帝が産んだ子ならば出自の証明など不要だろう。
それにもし問題があれば、ベラへ頭を下げてでも、靴を舐めろとか変態的な要求を飲んででも、どうにかしてくれるよう頼もう。

いや、自分でしたことの結果ならば、自分で何とかしてみせる。誰にも文句を言わせないほどに、完璧な皇帝になればいいのだ。

「駄目だ!ラーナ!」

ギデオンの首へ回した腕をそのままに体の力を抜き、後ろへ体重をかけると、彼は焦った声をあげながら力ずくでスヴェトラーナの体を引き離した。

「お願い。ギデオン」

後ずさるギデオンを呼び止め、スヴェトラーナはベッドの上で夜着を脱ぎ捨てた。

「ラーナ!自棄を起こすんじゃない!」

自分の上着を脱いで包み込んでくるギデオンの胸に、スヴェトラーナはすがり付く。視界がぼんやりしているのは、胸の痛みと共に浮かんできた涙のせいか。
スヴェトラーナは涙ながらに懇願した。

「誰でもいいわけではないよ。ギデオンがいいんだ」

耳元で、ギデオンがひゅっと喉を鳴らす。彼の心臓が自分のそれと同じくらいの速度で打っているのを感じ、もう一息だ、とわずかに残った冷静な部分でスヴェトラーナは思った。

「好きだよ、ギデオン。今晩だけでいい。私を貴方のものにして。お願い」

スヴェトラーナは顔を上げ、戸惑いの奥に熱を孕んだ瑠璃色の瞳を覗き込む。こくりとギデオンの喉が上下した途端、息が詰まるほどぎゅっと抱きしめられた。

「ラーナ!ラーナ!俺も―――」

言葉を切ったギデオンが、苦しそうに顔を歪めながらスヴェトラーナの頬へキスを落とす。徐々に口へと近づいてきた唇へ、スヴェトラーナは自ら唇を重ねた。ちろりと彼の唇を舐めて誘うと、それを捕えようとするように舌を絡め付けてくる。

「・・・っふ・・・」

少し離れて呼吸しては、また舌を絡め、唇を合わせる。
ギデオンが身を乗り出し、ベッドへ足をかけたあたりで、スヴェトラーナは自分の体を後ろへ倒した。ベッドへ横たわり、両手をギデオンへと伸ばす。
そのスヴェトラーナの体を目に収めたギデオンの顔が、ぎらりとした雄々しいものへと変わった。
それは全身に気力が溢れる、生命力を感じさせるもので。まさにスヴェトラーナが心を奪われた、あの時のギデオンの姿そのもので。
胸いっぱいの歓喜に押し出されるようにして、スヴェトラーナの瞳から涙がこぼれる。

しかし望んだぬくもりが訪れることはなかった。

「ギデオン?」
「すまない・・・俺はなんてことを・・・」

真っ青な顔でギデオンが後ずさり、突き当たった壁へ背を預けた。

それを目にしたスヴェトラーナはがっくりと脱力して、ベッドへ体を投げ出す。
失敗だ。ギデオンが我に返ってしまった。
いったい、何がいけなかったのだろう。やはりギデオンの理性と言う名の強固な枷を解くには、自分では役不足だったのか。せっかく恥を忍んでベラに借りた、官能小説を参考にして事を進めたというのに。

震えながら顔を両手で覆っているギデオンを横目で見ていたら、何の前触れもなく扉が開いた。

「ギデオン!!」
「っベラ!」

怒りを露わに入ってきたベラが、ギデオンの胸倉を乱暴につかむ。
主に手を出した事への叱責を覚悟したギデオンは、その怒りに燃える茜色の瞳をまっすぐに見つめた。

「すまな・・・」
「なんでやめた?!女から誘う事が、どんなにハードル高いのかわかってんの?!」
「は?」

予想と違った叱責に、ギデオンがあっけに取られた様子でベラを見返す。
その表情がベラの怒りに油を注いだらしく、掴んでいたギデオンの胸倉を引き寄せて、思いっきり頭突きした。

「いっ!!」
「いいか!耳の穴かっぽじって、よーく聞け!!この世界にはな、DNA鑑定なんてものは存在し無いし、血液型という概念があるかどうかも怪しい!しかも髪色は加護を受けた精霊で決まるから遺伝しないし、肌色は一緒だから問題なし!そして好都合なことに、なぜか貴族階級が高い方の瞳の色が優勢遺伝する!でも絶対とは言い切れないから、念のため瞳の色を揃えて、似たパーツを持つ男を集めてやった!」

そこでベラはぐっと胸倉を持ち上げ、頭痛の為に俯きかけていたギデオンの顔を上げさせる。

「・・・っな・の・に!このヘタレ!!これだけお膳立てされて、さらにスヴェトラーナ様にあそこまで言わせておいて、何様なのお前!!えぇっ?!何とか言いなさいよ?!」

胸倉をつかんで持ち上げたまま、がくがくとギデオンの頭を揺する、ベラ。
ギデオンはされるがままだ。うめき声さえ漏らさな・・・いや、あれは息ができていない。

「あ・・・あの、ベラ?首絞まってないか?」
「っち」

舌打ちしたベラが、ギデオンをベッドの上へ放った。信じられない力で投げられたギデオンは、ベッドボードへ背中を打ち付けてうめき声を上げる。
ゆらり、と立ち上がったベラは半裸のスヴェトラーナと、ぜいぜいと息をするギデオンを見て、ぞっとする笑みを浮かべた。

「お二人とも。リアルな描写が売りの作家が書いた官能小説で予習させたのですから、手順はわかっていますね?」
「「はい!」」

恐怖のあまりベッドの上で寄り添いながら、返答をするスヴェトラーナとギデオン。
ベラはつ、とシーツを人差し指でさして言った。

「明日の朝、証がなければ・・・」

指していた指を握りこむと、今度は親指を立てて水平に動かし、首を切るような動作をした。
震えあがる二人に満足したらしいベラが、背を向けてゆったりとした足取りで扉へ向かう。

「ちゃんとフォローしますから、難しい事をごちゃごちゃ考えずに、楽しみなさい」

扉を閉める直前にそう言って、ベラは寝室を出て行った。

暫く抱き合ったまま扉を見つめていた二人は、どちらからともなく視線を合わせる。互いの強張った顔が笑いを誘い、同時に吹き出して笑い始めた。
笑いながらギデオンがベッドへ横になり、スヴェトラーナの腕をつかんで引き寄せる。笑いに震えるギデオンの胸に頬を寄せたら、彼の心臓が早鐘のように打っていた。

「ラーナ」

優しく呼びかけられて、スヴェトラーナは上半身を起こし、ギデオンへ覆いかぶさるようにして彼を見下ろす。その頬をギデオンがそっと掌で包んだ。

「愛してる。ラーナ。いろいろ問題はあるが、何とかしてみせる。君を俺のものにしてもかまわないか?」
「もちろん。愛しているよ。ギデオン」

額を合わせて、互いに軽い笑いを漏らす。そしてゆっくり慌てることなく、薄目で距離を確認しながら、キスをした。


**********


「ベラ・・・ベラには意中の相手がいたりしないのか?」

翌朝、上機嫌で夜明けの紅茶を出してくれたベラに、ソファへ脱力気味に座るスヴェトラーナが問いかける。そんな彼女の横には、いつもよりべったりと寄り添って座るギデオンがいて、彼もまた興味深そうにベラを見上げていた。

「私は仕えると決めた主に名を与えられたら、一生忠誠を誓うセバス族です。ですから何があっても、陛下の御傍を離れるなんてことはありません」

胡散臭い笑顔で言ったベラへ、スヴェトラーナはじっとりとした視線を向けた。

「本音で言え。」
「あー。・・・前世まえに置いてきた魔法使いになりかけの息子をまだ愛してるし、旦那とかいらないので、この18禁乙女ゲームの世界かって現状を堪能したい」

真顔で聞いたことの無い単語を交えながら言う時のベラは、嘘を言わない。きっと本心なのだろう。
だからといって意味が分かったわけでもないが。

結局、理由がわからないことに眉根を寄せると、ベラがふわりと笑う。新しい紅茶をスヴェトラーナの前へ置いて、とんと自分の胸を叩いた。

「そう心配されなくても、お二人の事は私が何とかしますから、大丈夫ですよ。後宮の男どもも、対応済みです。陛下が望まない限り、指一本も触れさせません」

優し気な笑みの中に仄暗いものを見つけて、スヴェトラーナはぎくりとする。ギデオンも見てしまったようで、カップをソーサーへ戻そうとした姿勢で硬直していた。
ふふふ・・・と、声を漏らして笑うベラを見て、スヴェトラーナは思う。

ベラが味方で本当に良かった。




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