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6章 時に囚われた皇女
#2-1.ダリア防衛ラインの危機
しおりを挟む水の流れは、命を運ぶ。
無数の水達はやがて『そこ』へと流れ込み、大地を形成する一へと、あるいは、その世界を生きる何がしかの生物へと収まり、ひと時の『生』を謳歌する。
人も獣も神ですらも、その『常識』からは逃れられない。
全てを支配する常識の鎖が、泉からあふれ出た水達を支配していく。
人として生まれた彼らは、やがて欲を持ち、生き、生まれながらに持つ『もっとも強い欲』を果たし、あるいは果たせずに死に、やがてまた一滴の水となり、大地に染み込んでいく。
大地からまた水が溢れ、零れ落ちる。次の『そこ』へと行く為、川は大地から流れ、落ちていく。
この一戦。この地で倒れるかもしれない彼らも、いずれはそのようになるのだろう。
既に大地の一へと戻った戦友を、部下たちを思いながら、彼は苦笑する。
――滑稽なものだな。と。
大陸北部、ダリア要塞。
迫り来る魔王軍を幾度も撃退し続けていた鉄壁の防衛ライン。
北部の希望とも言えるその強固な壁は今、危機を迎えようとしていた。
カルバーンがベルクハイデに入り一月も経たぬうちに、魔王軍はダリア要塞の主要兵装『ハンド・カノン』の対抗策を練り始めたのだ。
彼らを危機に追い込んだのは、強大な魔法でも、絶大な力を持つ上級魔族でもない。
魔法ではどうする事も出来ない『天候』によって、ハンド・カノンはその弱点を魔王軍の前に露呈させる事となる。
迎撃戦の最中突如降り出した雨。やがて夏の不安定な大気の元それは嵐となり、一帯を水浸しにしていった。
それでも戦闘は継続されたが、ここでハンド・カノンはその効果を発揮する事が出来ず、あわや魔王軍の要塞内部への侵入を許してしまうところであった。
その時は司令塔であるバルバロッサが機転を利かせ、防衛ラインを前進させて敵の退路を断つことにより混乱させ、これを撤退に追い込む事が出来たが、当然のようにこの一件は撤退した魔王軍の現地指揮官により、上層部、そして参謀本部へと伝わる事となる。
何も、ハンド・カノンは水に弱い訳ではなかった。
多少の雨風によって効果を発揮しないでは大よそ確実性に欠け、主力兵器としては論外である。
当然ながら雨に対しての対策は考えられており、材質面・用方面の工夫により豪雨の中でもほとんどが故障することなく発射出来る状態であった。
何が難点だったのかといえば、豪雨により視界をさえぎられた事である。
近接する敵に対しても十分な火力を発揮するハンド・カノンではあるが、当然射手自身は無防備となる為、接近されればそれだけ敵の攻撃に晒されるリスクは高くなる。
まして敵は魔王軍。何も魔族に限らずとも、魔物兵士ですら魔法を扱える者は少なくない。
本来これらに接近される前に倒すのが定石であり、平地での防衛ラインにおいて、ハンド・カノンの直線的攻撃力は効果的な防衛装置として機能していた、はずであった。
だが、これが豪雨によって視界がさえぎられ、敵軍の動きが読めなくなってくると話は変わってくる。
長距離からハンド・カノンによって狙いをつけることは不可能に等しくなり、その分だけ敵軍の接近を許す事となった。
ようやく見えた頃には既に敵の魔法や投擲武器の射程範囲内。こちらが火薬に火をつけ撃つよりも早く、あちらは魔法や武器を投げつけてくる。
要塞側にもグラナディーアというカウンター要員は十分な数用意されていたが、それでも魔王軍の近接を許した際の被害は相当なものであった。
撃退には成功したものの、要塞及び防衛ラインは大きな課題を突きつけられる事となる。
対する魔王軍では、現地指揮官よりの情報によってハンド・カノンの欠点を見抜いたラミアが即座に作戦を考案していた。
これは妖精族の幻惑魔法を活用した幻惑作戦の応用であり、三段階に分かれて推移していくものである。
妖精族の幻惑魔法によって広範囲に霧を放ち、敵軍の視界を妨害するという第一段階。
霧の発生によって視界が妨げられ敵が神経を尖らせる中、兵に突撃前の喚声を上げさせたり、霧に乗じて単独行動の得意な者を内部に紛れ込ませ混乱させるといった、いわば神経戦を展開する第二段階。
これにより疲弊しきった要塞及び防衛ライン上の敵を、頃合を見計らって本隊によって一斉攻撃、撃破するという第三段階。
作戦そのものはやや中長期的な、時間のかかるものであったが、むやみな突撃によって消耗していた北部方面軍をこれ以上浪費したくもなかったラミアは、これをダリア要塞への最後の手として実行に踏み切った。
こうして、濃霧に覆われたダリアの地は今、その静けさとは裏腹に、最後の時への道を少しずつ、だが確実に歩もうとしていた。
魔王軍の思惑通りに警戒を続ける防衛部隊は、時たま侵入してくる魔王軍の手の者によって混乱し、ろくに休む時間すら与えられず、持ち場から離れる事を許されないままその心を磨り減らしていく。
戦地における不眠不休とはなんとも過酷なもので、過大なストレスによって心を病んでいく兵士、またそういった兵士を見て心理的に追い詰められる兵士なども現れ始め、次第に鬱屈とした雰囲気に包まれていく事となる。
「……旨くないな。今はまだ宗教的心理が働いて辛うじて規律を保てているが。それも長くは保つまい」
要塞内指揮所では、現状の報告と今後の作戦行動を考える為の会議が行われていた。
兵たちの士気の低さを目の当たりにしたバルバロッサは、状況の不味さに苦虫を噛み潰したような表情をする。
「ナイトリーダー。このままこの霧が続けば、我等は敵の本隊に……」
部隊指揮官の一人が、不安そうな面持ちで訴えかける。
このままでは不味い。打開しないと、敵に飲み込まれる、と。
その場にいた誰もがそう思っていたのか、わずかの間、沈黙が支配する。
「この霧は明らかに魔法によるもの。こちらも魔法でなんとか晴らせないものでしょうか?」
指揮官の一人が手を挙げ、現状突破の為の意見を述べる。
しかし、これはそう建設的なものでもなく、バルバロッサは首を横に振った。
「残念だが、この霧が魔法であるとしても、破壊魔法などと違って幻惑魔法は魔術師の障壁によって打ち消す事はできないのだ。一度発生した霧は既に魔法ではなく、その場に発生する普通の霧と何の違いもない。我等の魔法では、環境そのものをどうこうする事はできない」
メテオやサンダーストームといった破壊魔法は、その事象そのものが魔力で構築されている為に魔法による打消しが可能である。
だが、幻惑魔法はあくまで『幻惑させる為の物質を発生させる事』のみに魔力を使うものであり、発生した物質そのものは魔力的な要因を持たない。
現状要塞周辺を覆っている濃い霧も、それそのものはただの小さな水の群れであり、これを魔法でどうこうする事は不可能であった。
「いっその事奇をてらい、この霧に乗じて敵本隊を叩くというのは……?」
「敵本隊の位置がどこにあるのかもわからないのにか? まして敵は人間と違って、この霧の中でも先が見通せるかもしれないというのに」
状況は明らかに不利であった。このまま戦えば、まず間違いなくこちらは壊走する。
士気の高い時なら兵たちも必死に応戦し、撃退する事もできようが、日増しに下落していく兵達のやる気を見れば、そんな事は不可能ではないかすら思えてしまう。
こうして指揮所に集まった指揮官たちも正直お手上げで、自身の部隊の兵員の扱いに困惑している者も少なくない。
まともな意見も挙がらない中、バルバロッサは指揮所を軽く見渡し、そして、大きなため息を吐いた。
「無理だな。このままここで待っていれば敵の思う壺だ」
時間さえ稼げれば増援も期待できたかもしれない。
だが、それは儚い希望である。
今日、明日にも敵は総攻撃を仕掛けてくるかもしれないのに、そんな悠長な期待はできない。
兵たちも限界が近い。
このまま時を稼ごうとしても、やがて自棄を起こした兵士が暴発するリスクもある。
バルバロッサは、苦渋の面持ちで次の言葉を搾り出す。
「遺憾だが、この要塞を放棄する。後方のザクロ要塞に移り、そこで防衛ラインを構築するのだ」
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