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5章 『勇者に勝ってしまった魔王』のその後
#8-3.魔王様は恐ろしい方
しおりを挟む迂闊に拒絶でもしようものなら黒竜姫は深く傷つくだろう。
年頃の娘さんをこうも意識させて、袖にするというのはとてもひどい仕打ちである。
場合によってはショックのあまり引きこもったり自害したりしてしまうかもしれない。
魔王は前々から黒竜姫が自分に好意を抱いているのは知っていたし、時にはそれを利用したりもしていた。
今回彼女を連れまわしているのは必要があってのことだが、本来必ずといっていいほど一緒に連れて行くアリスを今だけ連れていないのは、単に日ごろの彼女の好意に少しは応えてやりたいという魔王自身の考えの上のことである。
ただ、どこまで応えるか、というのが問題であった。
魔王は別に、黒竜姫を愛している訳ではない。これだけは断言できた。
だが、ドライに部下としてしか見ていないわけでもない。
自分を慕ってくれている可愛い娘、位が魔王の考える彼女の立ち位置であった。
だからして、下手なことはできないのだ。
まかり間違って手篭めにでもしてしまえば、後は責任の問題にもなろう。
その瞬間に、ハーレムの娘たちも含め、今まで魔王が誰にも手を出さない事で保っていた魔王城内の均衡が崩れ去る。
そうなった場合に均衡を保つ為の選択肢は二つ。
文字通りハーレムをハーレムとして機能させるか、ハーレムを解散させて正式に黒竜姫を后として迎えるか、である。
魔王はそのどちらも選ぶつもりはない。今が楽しいのだ。
結果逆論的に、魔王はそういった道に進まないようにどうしたらいいかを考える。
傷つけてはいけない。だが手を出してもいけない。
こういった事に関しては純真な黒竜姫のこと、迂闊な事はできない。
だから、魔王はそもそも、そんなことにならないようなルートを選んだ。
「話をしようか」
「お話……ですか?」
黒竜姫の瞳が揺れる。期待が外れたというか、梯子を外されたというか。酷く失望した様子だった。
「私は君をとても魅力的だと思っている」
だからそんな黒竜姫に、魔王は真顔で口説きにかかった。
「そ、そんな、突然何を――」
「以前はただのわがままな娘だと思っていたが、今の君はそうではないからね……こう言ってはなんだが、今の君になら追い回されても悪い気はしない」
それは、魔王が感じていた一つの真実である。何一つ偽りは無い。
「正直、そう意識し出すと、油断すると君に襲い掛かりかねん。君に酷い事をしてしまいそうでね。私はこう見えて、結構容赦の無い性質らしい」
「そ、そうなのですか?」
黒竜姫の瞳が不安げに揺れる。明らかに先ほどとは違う方向性で動揺していた。
「ああ、きっと君も想像し得ない魅惑の世界が待っていること請け合いだ。深い泥沼にはまっていくようなもので抜けられなくなる」
経験の全く無いであろう彼女にはそんなことは想像できるはずも無く。
魔王が楽しげに笑いながら語る言葉に、黒竜姫は身を震わせた。
そんな黒竜姫の手を取り、魔王は自分の隣に座らせる。
「あ、あの……」
完全に萎縮してしまっていた。借りてきた猫のように。そして猫よりもか弱かった。
恐る恐る魔王の様子を窺う黒竜姫。魔王はそっと人差し指を向ける。
「えっ……?」
何をするつもりなのか。それがわからない黒竜姫は、ただそれを見るばかり。
やがて、魔王の指はゆったり黒竜姫へと近づき……とん、と額を突っついた。
「あっ――」
ただそれだけで、黒竜姫は力なく倒れこんでしまった。
特別な力などかかっていない。ただ、黒竜姫が力を入れなかったからそうなっただけである。
だが、そんな事今の彼女には分からず。
ただただ、自分が押し倒されたという事実に驚き、そしておびえていた。
「怖いかね?」
魔王はそれ以上何もしてこない。
じーっと、黒竜姫の瞳を見つめていた。
「……怖いです。陛下は、恐ろしい方だとずっと思っていました」
恐怖こそが、彼女の魔王への想いの根源である。
ただのわがまま暴力娘が、人並の恋愛感情を抱いたそのきっかけであった。
「私って、こんなに簡単に押し倒されてしまうものなのですね」
身をすぼめ、キュッと口元をかみ締める。目だけは魔王から逸らせず、しかし潤んで揺れていた。
「そうだ。君は無防備過ぎる。簡単に手篭めにできてしまう」
今の彼女を抱くことなど、魔王には実に容易かった。
だから、それを彼女に理解させた。認識させた。
「だが、私は君を抱かない」
「えっ……」
どうして、と。また不安げに揺れる瞳。魔王の言葉の意図が理解できなかった。
「面白くないからだ。そんな簡単に抱けるような小娘では面白くない。だから、君にはもう少し成長して欲しい、と思う」
抱くつもりが無い訳ではない。ただ、今抱くのは趣と違う。
そういう事なのだと思い込ませるための演技ではあるが、言ってから、魔王は自分がそういうのを求めているのかもしれないとも思ってしまっていた。
こんなにすらすらと言葉に出るのだ。そうでなくては自分はただの詐欺師か何かではないか、と。
「抵抗しろと言っている訳ではないよ? 暴れられたらそれこそ興ざめだ。だが、君はいささか自分に素直すぎる。もう少し、隠した方が良い」
黒竜姫は、魔王に対する好意を微塵も隠そうとしない。
一緒にいれば少しでも自分を見て欲しいとばかりにアピールするし、自分が魔王を慕っていることだって公言してはばからない。
それは、確かに純然たる好意の元、彼女の恋心がそうさせているのだろうが、このような時まで無防備極まりないのでは、面白くないのだ。
「隠してくれた方が良い。剥き甲斐がある。男は、そういうものをこそ好むのだと知りたまえ」
「は、はい……」
じっと真剣な面持ちで上から見つめられ、黒竜姫は困ったように水色の瞳をうろうろさせていた。
「よし、解ってくれたところで、私はもう休むことにする。アンナよ、私はもう寝るが、湯浴みをしたいなら店主の娘さんに声をかければ、案内してくれるらしい」
「えっ? あの、陛下……?」
黒竜姫は唐突に変わった話にばっと飛び起きる。見ると、魔王は黒竜姫の背中側に倒れこんでいた。ぼふりと。
「きちんと、『アルド公爵の後妻』で通すのだぞ」
ふかふかの枕に顔をうずめながら、魔王はそのまま黙り込む。
そのまま沈黙がいくばくかを支配したが、やがて静かな寝息が立つに至り、魔王が眠ったらしいのは黒竜姫にも伝わってきた。
「……はぁ、解りましたわ」
空気の流れにようやく理解が追いついた黒竜姫は、やたら寝つきの良いこの魔王を前に、やや恨みがましげにため息を吐き、湯浴みの支度を始めた。
「……そういえば、陛下の持っていたこの剣、なんなのかしら……?」
着替えなどをバッグから取り出していた黒竜姫であるが、布に包まれた長剣が目に入り、その手が止まる。
最初から魔王がずっと持ち歩いているのだが、なぜそんな事をしているのかもよく分からない。
「陛下は剣の類は使われなかったはずだけれど……」
魔界において知られているこの魔王の戦闘方法は、主に素手での格闘である。
普段はのろのろとしていて動きが鈍く、人間の攻撃などほとんどかわそうともしないが、その実まじめに動けば並の黒竜程度では反応が追いつけないほどの速度を誇る。
拳の破壊力もさることながらもっとも恐ろしいのはその握力で、一度掴まれれば黒竜姫ですら引き剥がすのは難しい。
通常の戦闘時は完全に人形任せであったり、攻撃に参加するとしても人間を掴んだり投げ飛ばしたり首を叩き切ったりというのが魔王の戦法なのだ。
少なくとも魔界で知られる限りは、彼が剣を使い戦うシーン等は存在せず、それが黒竜姫の違和感となっていた。
「…………」
何なのかはわからない。
ただ、触れてみたくなり、うずうずとしてしまい、つい、柄を触ろうとしてしまった。
「――あっ!?」
バチリ、と指先に電撃が走る。
思わず手を離してしまう。指先を見る。特に痕は無い。ただ、ひりひりとしていた。
(何なのこれ……)
こともなげに触っていた魔王はこんな衝撃を毎度受けていたのか。
そんなはずはないだろう、と黒竜姫は自問自答する。
(持ち主以外には触れない剣、とかなのかしら……?)
やがて出た結論は、しかし、尚更疑問が増えるばかりであった。
(解らないわ……陛下はなんでこんなもの持ち歩いているのかしら? ドラゴンスレイヤー……ではなさそうだし)
材質からしてドラゴンスレイヤー製の武器とは違うらしく、布の隙間から見える鈍い光は魔王の人形たちが持っていたモノとは異質なものであった。
(……後で聞いてみよう)
だが、一人で考えても何も浮かばない。
ただ、魔王が大切そうに抱えていたのもあって、何か大切なものなのだろうという気はした。
余計なことをして嫌われるのもばかばかしいので、黒竜姫はそれきり、また湯浴みの支度を再開することにした。
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