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4章 死する英傑
#3-3.バナナマフィンとストレートティー
しおりを挟む「やっぱり、貴方は面白いです。ラズベリィ」
「そう言っていただけたのは、姫様が初めてですわ。何せ、顔見知りは皆『いい加減落ち着け』とか『必死すぎる』とか言ってからかってきたもので」
大きな溜息をつきながら、侍女は苦笑いをする。
この、見た目同い年位の侍女は、自分が思ったよりも色々と面倒なしがらみに囚われているのでは、なんて思ってしまっていた。
「特に毎回のように会う相手が居りまして。もう最悪な奴で、事あるごとに私の事をからかうのですよ? 困ってしまいます」
「男性の方?」
「いいえ、同性ですわ。多分」
「多分って……」
「確認しておりませんもの。玉虫色ってご存知ですか? とても曖昧な奴でして、その場その時で二転三転、立場や態度を変えるのです」
ひどくひねくれたものの見方をするなあ、と思いながらも、トルテにもその彼女と相手との関係があまり良好ではないらしい事は、言葉の端から感じられた。
「性根の腐った女って性質が悪いですわ。自分の娯楽の為だけに、人に重い枷をつけて笑ってるんですもの」
ぐぬぬ、と悔しそうにややぶちゃいくな顔をしてしまう辺り、よほど相性が悪いらしい。
聞いてる限りその関係はかなり一方的で、そして被害は主にこの侍女に降りかかっているらしいのもよく解った。
「そんなに嫌な相手なら、関係を断てないのですか?」
「断てるなら断ちたいですわ。断てないから悩みの種なんです」
最早侍女の目には諦観が漂っていた。
嫌いだけど、絶対に会いたくないけど、遭遇してしまう災難。災厄。そんな存在なのである。
「まあ、あまりお知りにならない方が良いですわ。噂をするとどこからか聞きつけて現れるような奴ですから。結構ミーハーというか、物好きというか、自分が愛されたいっていう奴だから、自分のことになるとすごく耳が敏感になるらしいです」
等と言いながら、部屋の隅々をあっち見たりこっち見たりして警戒する。
まさか、こんな場所に突然現れるとでも言うのか、それともそういうポーズなのか。
トルテは面白くなって笑ってしまった。
「不思議な人ですわ。こんなわずかな時の間に、色々な貴方が垣間見えて。人って、色んな面を持っているものなのね」
それは一つの真理であった。
それがそんな深遠なモノであるなどとトルテは気づきもしないが、大切なことなんじゃ、と思い始めていた。
人とは、決して一面的な生き物ではない。
様々な方向、角度から見れば、それは全く別の人間に感じるほどに多面・多角的な生き物で、見る側・見られる側、どちらの心の状態が違っていても、決して同じようには見えないようになっている。
忘れられがちだが、トルテにも普段の大人しい面もあれば、アルム家特有の過激で暴走しがちな面もあり、そして、とても暗い心の闇を抱えてもいる。
彼女を想うラムクーヘンの王子にしてみればその時その時でトルテの性格は違うようにも映るかもしれない。
国民は彼女を可憐で博愛的な皇女だと思っているようだが、それはあくまでトルテが体面的に取っている皇族としての姿勢にすぎず、普段のトルテは割と偏執的で、人見知りが激しく、そして一人がとても苦手である。
トルテから見たこの侍女も、そんな風に場面場面によって彼女の見え方が異なるのだから、世の中の全てが、一方向からだけでは全てを見る事が出来ないでは、と、思い始めていた。
「その通りですわ。全ての事象が、決して一元的なものの見方では把握しきれないのです。人は、多くの場合、他人の事を完全には知りえない」
物事を多元的に見るというのは、とても難しい。
人に心というものが在る限り、人と人の間に個性が存在する限り、それは不可能に等しい。
言いながら、侍女は机の上に転がったままの眼鏡を手に取る。
「人は、眼鏡をかけているものですから。自分の眼に映るものを、そのままに直視することが出来ないのです」
優しく微笑むその様は、まるで教師のようであり。
どこか達観したような、全てを知ってしまっているような顔であった。
「姫様には、私はどのように映っているのでしょうか? 私は、姫様がご自身で思っているままの姫様を、この眼で見ることができているのでしょうか?」
「……解りません。まだ、難しい事は、私には解らないのです」
侍女の言おうとしている事は、トルテにもなんとなしに解っていた。
だけれど、侍女の言葉に答えられるような、説明できるような言葉を、トルテは持ち合わせていなかった。
本の虫だというこの侍女の、深遠な思考回路。
どれだけの数の本を読めば、どのような経験を重ねていけば彼女のような言葉を紡げるようになるのか。トルテには想像もつかない。
だが、答えられないトルテに、侍女は心底嬉しそうに目を細め、頬を緩めていた。
「それでいいのですわ。人の本質を、全てを知る事は、案外何も知らないよりも辛い事なのかもしれませんし」
「何故ですか……? それができれば、きっと、今まで以上にいろいろな事を理解できるようになりそうなのに」
「話は戻りますが、先ほどの知り合いが言っていたのです。『そんなつまらないものは、かなぐり捨ててやりたい位だわ』と。とても辛そうな顔で、言うのです」
馬鹿な奴ですよね、と苦笑する侍女であったが、そんなに嫌う相手だというのに、哀しそうな表情をしていた。
「知らない方が良い事も、世の中には沢山ありますわ。知ってしまったが故にその世界を生きるのが辛いと感じる事もあるかもしれません。全てを知るという事は、知りたくないことまで知ってしまうという事に他なりません。それを、全てを受け入れられる覚悟がない者は、知るべきではないのかも――」
「……私には、まだその覚悟はありませんわ。だって、わずかな人の心の闇が怖いですもの。親しい人が、もし私の事を疎んじていたのだとしたら。その人にとって、私が枷となってしまっていたのだとしたら。ラズベリィ、私には自信がありません。大好きな人達が、私の事を本当に愛してくれているのかも、解らないのです」
不安げに、紅茶は揺れる。
食べかけのマフィンは冷めてしまっていて、部屋を覆っていたあの良い香りはもうしなくなっていた。
「だから、もっと知らないといけないと思って。世界の事を、姉様の役に立てる、『何か』を探す為に、私は勉強しなくてはいけないのです」
「貴方は、とても恵まれているように感じますわ。そう思える相手が、姫様には居るのですから。人は、恋をすると不安になると言います。それは、決して異性相手ではなくとも、同性相手であっても、恋愛感情ではなく、恋というのは存在するのです」
「恋……?」
「一方的な気持ちですわ。相手のことを想い、だけれど、相手が自分をどう思っているのか解らない。自信をもてない。胸を張って『私は愛されている』と思えない。それは誰が相手であっても恋と呼ぶのだと、私の故郷では知られています」
あくまで故郷での話ですが、と付け加えながら。
侍女は冷めた紅茶とマフィンを下げ、いつの間に淹れたのか、温かな香り漂うカップをトルテの前に差し出す。
「相手の辛い事まで、知って欲しくない事まで知り、そして、相手が知りたいと思う、知りたくないと思う事まで相手に知られる。全てを受け入れ、受け入れてもらい、そして相思相愛となって、初めて愛が生まれるのです。私たち人間は、そうまでしないと、真に分かり合えない、とても不便な生き物なのですわ」
「……私は、そういう愛を知りません」
「私も知りませんわ。多分、一生解らないままでしょう。結婚していたって、夫は妻の事を全部知りえる訳ではないですし、妻は夫の好きな事嫌いな事、その半分も解れば良いほうなのでは?」
だから人は愛したいと思いながら愛されたいと思いながら人に恋をするのです、と、侍女が綺麗にまとめた。
カップを持った手は温まり、トルテの鼻元にはまた、マフィンの甘い香りが漂っていた。
「二個も食べられませんわ。太ってしまいますもの」
「そうでしょうか? 不思議と、一つでは食べた気がしないのでは、と思ったのですが」
「……確かに、そんな気もしますが」
言われて見れば妙なもので、食べかけていたとはいえ、一つのマフィンを食べたばかりだというのに、お腹の中にものが収まっているように感じない、不思議な感覚があった。
「さあ、難しいお話はもうやめにして、今度こそ、美味しいバナナマフィンと紅茶を味わってくださいませ」
それに違和感を感じる暇もないまま、澄ました顔で微笑む侍女に言われるまま、トルテは再び、温かなマフィンを小さく手で割り、口に運んでいったのだった。
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