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1章 彼女たちとの出会い

#2-3.魔王のお茶会

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 翌日。カルナスの街。
カルナディアスから馬車で半日ほどの場所に、この街はあった。
帝国の友好国の一つ、カレー公国の商業都市で、数多くの商人が集う黄金と物資の街でもあった。
街の所々に湖畔に繋がる水路が巡り、街並みも区画整理され整っている美しい街の為、観光に来る外国人も多い。

 魔王は、そんな観光客の群れに紛れ、アリスを片手にのんびりと街を散策していた。
やや背が高いもののぱっと見人間とそんなに違わない外見の魔王は、人の群れに紛れると実に人畜無害そうな上品な紳士に見えた。
魔王に気さくに話しかけ、道案内を買って出ようとする若い娘も居れば、積極的にみやげ物を売ろうとする商人達も居る。
魔王城に居るより、魔王にとってはよほど平和で楽しい一時だった。
「何より、活気があるのが良いね」
おもむろに呟く。アリスはただの人形のフリをしているので返さない。ただの独り言だった。

 カルナスの街は活気に溢れていた。
カレー公国は国を治める大公の意向で市民の生活を第一に考え、軍事予算を抑え目にしてその分市民の税金を他国と比べかなり低いまま維持していた。
結果帝国や他の同盟諸国に対して金銭や物資援助という方向で貢献する事になったのだが、そのおかげもあってかこの戦時下にあっても街の中は平和そのものであった。
何せ徴兵もないのだ。街の中から誰一人死者は出ていない。別世界である。
馬車で半日ほどの場所では、この地域全体の未来を決める戦いが行われていたなどと市民は露ほども関心を持たずに。
今日もやはり彼らは、賑やかに商売に精を出し、目の前の平和を謳歌していた。

「さてと……リーシアさんと待ち合わせの場所はもうすぐだが、ちょっと時間が早すぎたかな」
一人ごちる。まだ時刻は昼前で、予定の時刻まで二時間ちょっとある。
流石に初めて来る街での待ち合わせなので早めに来たが、それでも昼食を取るくらいの時間はあるはずだった。
「まあ、そんなに腹は減ってないが、お茶会の最中に腹の音が鳴るのは情けないからな……」
魔王は、そうは言いながらも、ノリノリでどこの店に入るか狙いをつけていた。

 カレーの名物は、『ハヤシライス』という奇妙なスープかけご飯。
店によってスープの味が違う逸品で、贅沢にも豚の肉を使っている。
豚とは最近養殖に成功した獣で、野生の物は口から破壊魔法を放つ凶悪な生物なのだが、養殖物は大人しい為飼育もしやすいらしく、最近になって急激に豚肉料理を扱う店が街角に増えていた。
それでも高級なのが豚肉である。
豚肉一切れあれば一週間分のパンが手に入るくらいには高い。そして美味かった。

「よし、あの店に入るか」
カルナスの街の一角にずらりと並ぶハヤシライス専門店。魔王はその中でも特にひなびた、古臭い店に入る事にした。
「こういう店の方がいかにもそれっぽくて美味しそうだしね」
等と食通ぶった素人考えで妙な確信を持ちながら、店に入っていく。

「うわ、あのおっさん、あの店入っちゃったぜ」
中年男がどの店に入るのか迷っていたのを、安くて良い店があるからと紹介すべきか迷っていた商人が呟いたのはその後。
「まあ、金持ちっぽかったし大丈夫かな」
魔王が入った店は、確かに味は良いがいわゆる高級店で、古くからある老舗しにせなので非常に高いのだ。
ぼったくりではないのだが、豚肉が野生のものを使っていたり、ご飯が外国産だったりでコストが高く、必然的に価格が跳ね上がっているという意味で。
魔王の目は間違いではなかったが、魔王の財布には優しくない結末となってしまっていた。
まあ、魔王というだけあって金には一切困っていないのだが。


 同時刻。街の宿屋にて。
エリーシャは、前日の夜のうちに馬車にてこのカルナスに移動し、休息を取っていた。
軽鎧も外し、白い柔らかな絹のルームドレスを着て、のんびりと寛ぐ。
髪を留める白いリボンを外し、腰ほどまで届く亜麻色のロングヘアーを、ゆったりとベッドにはべらせる。
上質なベッドに横たわり、軽く目を瞑り、宿屋の庭を覆う木々に集まる小鳥の鳴き声などを聞きながら。

 樹木の上の演奏をひとしきり楽しんだ後、おもむろに立ち上がり、ドレスをそっと脱ぎ捨てる。
乙女の身体には痕に残るような傷は一つも無い。肌のつやも良く、きめ細かい。
街娘が見たら嫉妬するような美しさで、実際街を歩けば手入れの仕方を尋ねてくる妙齢の娘も居るくらい。
胸はやや控えめだが、本人はモデル体型だと言い張っている。決して気にはしていない。

 鼻歌などを歌いながら、姿見で身体に恥じらいは無いか確認し、肌着を着けて化粧台の前に座る。
普段あまり飾らないエリーシャの、ここだけは飾るというのは亜麻色のロングヘアー。
肌の手入れなどはほどほどにしかしていないが、髪の手入れだけは戦場においても欠かさないのだ。
掌に植物の花から取った油を少し垂らし、それを良くなじませてから髪の毛に塗りこんでいく。
この油は髪のつやを良くするばかりではなく、髪に潤いを持たせ、枝毛等を予防するのにも役立つ優れもの。
まだあまり市場では広まっていないが、エリーシャはこの油の効能をいち早く見抜き、愛用していた。
油とは火をともしたり料理に使ったりするのが一般に知られた使用方法であるが、ものによってはこうした使い方もできるというのを知っている人間はまだあまり多くは無い。
髪にこだわりを持つ彼女だからこそ気づけた、創意工夫の賜物であった。

 そうして髪を愛で終わるや、クローゼットに入れているよそ行き用のドレスを取り出す。
スカート丈は長めで、手首から上も足首から上も見えない上品なドレス。エリーシャのお気に入りである。
彼女としては、このカルナスで街娘が着ているような可愛い系の服は、自分にはあまり似合わないと思っていた。
フリルがついていたり、スカート丈が短かったり、あまつさえ胸元が開けていたり等という若さを前面に押し出した格好は、確かにエリーシャくらいの年齢の娘が一番活かせるのだが、普通の娘とは色々違う部分についてしまった筋肉というオプションが、彼女にそれを着る事を躊躇わせていた。
実際には(胸以外は)プロポーションも悪くないので着れば相応に似合うはずなのだが、彼女に限らず戦う事を生業としている年頃の娘達には、街娘のような格好は憧れであると同時に、自分達を普通の娘とは違う存在なのだと認識させてしまう代物であった。

 そつなくドレスを着ると、髪に赤い髪留めをつける。
この髪留めもリボンと同じように高性能なシールド魔法が出るマジックアイテムだが、こちらの方がより見た目が可愛く、よそ行きのときは大体こちらをつけていた。
髪を縛る必要のない時は無理に縛らず、ストレートのまま髪飾りだけをつけるのが休息時の彼女のスタイルである。
また、化粧台の前に座る。
普段は化粧なんてほとんどしない。髪の手入れ以外でするなら、精々化粧水を使うだとか、それくらい。

 だが今日は大切な日なので、エリーシャはいつもより気合を入れていた。
女勇者とは言ってもエリーシャも年頃の娘である。化粧の仕方くらいは当然心得ていた。
ただ、肌が綺麗ならそこまで濃くする必要もないのは解っていたので、ほどほどに、うっすらと施して肌がより美しく見えるように。

 壁に掛けていた白い日よけ帽子をかぶり、ベッドの下に置かれたチェストから宝物を入れたバスケットを取り出す。
最後にもう一度姿見で全身に恥じらいが無いか確認して、ここで残り時間が30分ほどになった事に気づく。
「やだもう、急がないと」
掛けられた時計を見て、待ち合わせの時間が迫っている事に気づいて、エリーシャは宿屋から出たのだった。



 カルナスの街・中央区。
間欠泉のような巨大な噴水を中心に、街の中心部には美しい公園が広がる。
噴水を囲むように、小さな花売り露店やティーショップなどが並び、カップルや癒しを求める者達がベンチに座る。
もうすぐ約束の時間。
魔王はどんな相手が来るのかとワクワクしながら、今日はどんな話をしようかなどとこれからの展開に思いを馳せていた。
思えばこのように誰かと待ち合わせるなど初めてである。
誘うのにも勇気が要ったが、恐らく相手も恐る恐る受けてくれたに違いない。
そう思うに、魔王はそれを受けてくれたリーシアという女性とこれから過ごすであろう時間が掛け替えのない思い出になるのではないかと思えてきた。
胸の高鳴りは強くなる一方である。

「そろそろ来ても良い頃だな……」

 それがたとえ老婆であろうと、男であったとしても、それでも魔王は気にしないつもりだった。
リーシアはぱそこん内の手紙で、白い日よけ帽とバスケット、そして亜麻色のストレートヘアーが自身の目印だと伝えた。
魔王は、右腕に人形を抱き、外套を着た中年紳士であると相手に伝えていた。
視界の中に自分と似たような紳士はいない。というか通常人間の紳士は人形を抱いたまま歩いたりなんてしないのだが。
他の人が間違われる事はないな、と少しほっとするが、相手はまだこないらしい。
落ち着くために、噴水脇のベンチに腰掛ける。
ふぅ、と小さな溜息が出て、少しだけ落ち着く。
懐中時計を見て、約束の時間になったのを確認したちょうどその時。

「あの、もしかして――」




 その頃、魔王城ではラミアが勇者エリーシャの討伐の為の作戦を練っていた。
同時進行で他の地域でも起きている人間軍の反攻作戦の迎撃の指揮も執り、かつ魔界に攻め入られた際の防衛ラインの構築も急いでいた。
「あっ、あの、ラミア様――」
つまり忙しい。
あまりに忙しすぎて、自分に声をかけたウィッチのすぐ隣に、黒竜姫が居ることになど気づきもしなかった。
「よし、エルクランドに対する攻撃は一旦中止してその分の戦力を南方平原地域の防衛に――」
「……こら、私を前に無視するとはどういう事よ?」
「え……うぁっ!?」
声を掛けられ気づいた時には既に遅く、苛立つ黒竜姫に頭を小突かれる。人間なら即死しかねない威力で。
ラミアも魔族としてはそんなに強くないので脳震盪を起こす。ふらふらとしてしまう。
おかげでそれまで考えていた対人間軍最強迎撃プログラムは全て初期化されてしまった。
時としてフォーマットは大切かもしれないが、物理破損からの修復の結末としては余りにも悲惨で理不尽である。
「いたたた……ちょっと、何してくれるのよ!?」
不意打ちで小突かれたショックと、折角纏め上げた思考を破壊されたショックのダブルショックで、今のラミアは人も殺せそうな程の怨嗟の視線を黒竜姫にぶつけていた。
対して黒竜姫は、お気に入りの赤色のドレスをはらりとはためかせ、不機嫌そうにむくれる。
「折角私が直々に来てあげてるのに、迎えにすら来ずにこんな陰気な部屋で何やってるのよあんたは」
悪いのはあんたよ、とのたまい、可愛らしくむくれて見せるのだ。

 だがラミアは黒竜姫が来る事なんて知らなかったし、黒竜族からそういう話は全然伝えられていない。
それもそのはずで、黒竜姫はきまぐれに来ただけで、別段ラミアが知らないのはおかしくないのだ。
だというのに黒竜姫は不機嫌さをあらわにして、今も震えながら近くに座っているウィッチの帽子等を弄り回している。
ただ、以前ほどダイレクトに暴力に訴えてこないだけ、ラミアには相当大人しくなっているようにも感じられた。
それでも迷惑極まりない理不尽さなのだが。
「それで、あんたは何でここに?」
「陛下に会いにきたのよ、決まってるじゃない」
よくよく見れば黒竜姫はしっかりとめかしこんでいて、お供の侍女達にも以前登城したのと同じくらい色々な荷物を持たせている。
情熱的な赤のドレスは、それでいて胸元は大胆すぎない程度にしか開かれておらず、彼女の意外な純情ぶりが見て取れる。
口を開けば暴れさせろだの騒いでいた娘がここまで真剣になるのだから、恋というのは恐ろしいものである。
「それなら無理よ、陛下は今お出かけしているから」
「えっ……」
だが、アポもなしにいきなり会いにきたのだから、空振りになることくらい解りきってるだろうに、黒竜姫は予想外であると言わんばかりに唖然としていた。
「だから、陛下はいないの。なんか、どこかの街に行ったんじゃないかしら」
「どこかって……どこによ?」
唖然とするのも一瞬で、いぶかしげにラミアをにらみつける黒竜姫。
その態度に、ラミアも違和感を覚えながら答えるのだ。
「そんなの知らないわよ、大方どこかの制圧した街にでも――」
そう、知らない。言ってからラミア自身気づいたのだ。
「知らないって何よ。あんた陛下の側近でしょう!?」
「う……」

 あまりに忙しくて、無我夢中で、楽しくて。
肝心の魔王が今どこに居るのかの把握を、ラミアは完全に失念していた。
これは黒竜姫の所為ではなく、むしろ黒竜姫のおかげで冷静になって気づいたのだ。
先日の黒竜姫とのやりとりを見て、妙に魔王が強かったのを見た所為かも知れない。
ラミアは、どこかで『あの方なら放って置いても平気よね』と思い込んでいたのだ。

 だが、魔王とは魔界の盟主である。
魔界に数居る各種族の王や長達をまとめあげるカリスマこそが魔王である。
その魔王にもし何かが起こったなら。当然、魔王軍にも影響が出る。
今でこそあまり魔族たちに支持されていない魔王だが、それでも欲深でいさかいが絶えない魔族達は、魔王の顔を立て一丸となる。
魔王なしでの魔王軍など、文字通り烏合の衆でしかないのだ。
数に勝る人間軍に勝てる訳もない。

 その肝心な部分を、ラミアは事もあろうに忘れ去っていた。
許されるミスではない。顔を真っ青にし、部下達に向き直る。
「陛下の行き先を知ってる者はいないの!?」
フロアに響き渡るラミアの声は、しかし静まった部屋では虚しくこだまするばかりだった。
「くっ……」
「あの、陛下でしたら、確かカルナスに向かうと……」
ラミアが周りの反応の薄さに頭を抱えそうになる中、おずおずと、黒竜姫にいじられていたウィッチが顔を上げ、貴重な情報を漏らす。
「カルナスってどこよ?」
「最前線よ!!」
世間知らずな黒竜姫に、必死さを前面に押し出してラミアが叫ぶ。

 すぐに人間世界の大陸中央が部屋中央の四角いビジョンに写される。
高度な情報魔法で再現されるマップの中央にはアップルランドが映っていた。
「大帝国アップルランドの南西部の友好国・カレー公国の第二の都市よ。常備兵力250の弱小都市だわ」
「ですが、すぐ近くに勇者エリーシャ率いる大陸中央諸国の連合軍1万8千が控えていて、迂闊に手が出せない状況です」
しかもこの連合軍は、多くの名将と名だたる精鋭部隊が参加しており、ラミアが最も手を焼いている人間軍である。
ウィッチの説明を聞くまでもなく解っているラミアは、状況の不味さに唇を噛み切ってしまう。

「何でそんな所に陛下は向かってる訳?」
黒竜姫はと言うと、そんなラミアの苦境も気にせず、思ったままの疑問を口にする。
「た、確か、前線の状況を見に行くとかなんとか……」
「そんなの聞いてないわよ……」
ウィッチの言葉に、ラミアは顔を青ざめさせたまま、大きなため息をついた。
「ラミア様が盛大にスルーしていたので、流石に行き先を知らないままではまずいと思い、聞いておいたのです」
「そう、よくやったわウィッチ。こんな蛇女なんかよりあんたの方が役に立つじゃない」
満足そうに笑い、ウィッチの帽子を乱暴に撫で回す。
「あだっ、い、痛いですっ……」
ウィッチはというと、乱暴に頭をなで繰り回され、激痛に涙目になっていた。
ラミアも普段なら即座に言い返すところだが、状況の不味さに、黒竜姫の皮肉にも言い返せない程焦っていた。
「それで、どうするのよ。居場所は解ったけど、だからと言ってカルナスに攻めるわけにも……」
エリーシャ軍は強い。相当練りこんだ策略を用いらなければ後方のカルナスは攻められないのだ。
「どうするって、迎えに行くしかないでしょ。最前線なんて危険地帯にいるんだから」
答えは実にシンプルに、黒髪の暴君から発せられる。
「それなら、ちゃんと準備しないと。周辺の軍勢をまとめて……そうだわ、敗勢になってるエルフ達を捨て石にして陽動に使いましょう」
「そんな面倒な事してる間に陛下に何かあったらどうするのよ」
黒竜姫からは、思いっきり失望したかのようにため息をつかれる始末だった。
「簡単でしょ、私が飛んで、あんたが道案内するのよ」
「えっ……?」
そう言うや否や、黒竜姫はラミアの腕を掴み、つかつかと歩き出した。
「ちょっ、やめ、引っ張らないでったら!! 破れる!! 服がっ、スカートが!!」
「うるさいわよ、黙ってついてきなさい」
「いや、だからなんで引っ張――」
二人の姦しいやり取りは、すぐに聞こえなくなった。




 声をかけられ、見上げた魔王の前には、美しい亜麻色の髪の乙女が立っていた。
「君がリーシアさんかね?」
ぱそこんで聞いたとおり、白い日よけ帽子で亜麻色のストレートヘアー。手にはバスケットを持っている。
しかし魔王が驚いたのは、想像したのより数段上の美少女であった事だ。
「はい、そして、貴方がアルドおじさん……?」 
「ああ、そうだよ。今日は私と会ってくれてありがとう」
魔王は機嫌よく笑った。魔王城では人形達相手でもなければ見せないであろう優しげな笑顔で。
「いいえ、私も同じ趣味の人と会えるのは楽しみにしていましたから……」
娘も笑う。おしとやかそうな、大人しい笑顔だった。魔王は好感を持った。
「実を言うと私もそうなんだ。それにぱそこんで話していた中でも、リーシアさんは特に深い造詣を持っていたようだからね」
魔王とリーシアは同好の士である。それも、互いにその道において単なる趣味の領域を超えたこだわりを持つ求道者だ。
「ではアルドおじさん。早速――」
「ああ、では店に行こうか。近くのティーショップに席を予約してある。ゆっくり話そうじゃないか」
初対面であっても、この娘と魔王は既に意気投合していた。
事前に予約しておいた上品なティーショップに移動する。


 思った以上に小奇麗な格好の相手で、エリーシャは少しだけ戸惑う。
ドール・アンティーク。人形の愛好家とは女性が多く、また、男性であってもどちらかというと若い年齢層に広がっている分野である。
エリーシャもその道では知られた愛好家の一人であるが、自分と同じくらいに造詣が深く、また手持ちの人形の数も多いというこの中年の紳士に興味を持っていた。
人形だけではない。その他サブカルチャー的な様々なものに、この紳士は精通していた。
サブカルチャーといえば聞こえがいいが、言ってしまえば一般とはややかけ離れた趣味の世界である。
初めはどんなダメ人間かと思ったエリーシャも、品のある物腰や言葉遣いに他のそういった趣味の男性とは違うものを感じ、相手からのお茶会の誘いを受けたのだ。
このアルドおじさんという長身の中年男性は、なるほど見ればどこぞの貴族か資産家なのだろうと思わせる質の良い衣服を纏っている。
ただいいモノを着ているだけでなく、着ているモノに振り回されず、ぴしりと似合っているのだ。
エリーシャも同胞と会うのだからと相応にお洒落はしてみたが、それに釣りあうくらいには彼もきちんと見栄えに気を遣ってくれていた。
それだけでも嬉しくて、頬が緩んでしまう。

 程なくして会場たるティーショップに到着する。
観光客向けの騒がしい店であったり、若者が集まる明るめの店ではなく、どちらかというと落ち着いた、長居に向いたシックな店であった。
ここもエリーシャにはポイントが高かった。
これから自分達が話す事は、どちらかといえば静かに、ゆったりとした空気の中で話したいことなのだ。
好きなモノのことを話してる時くらい、平和で、幸せな時間でありたいというのはエリーシャはいつも思うことである。
「私もこの街に詳しくないのだが、こういう店の方が落ち着いて話ができると思ってね。ちょうどこの店があってくれて助かった」
予約しておいたという席は店の奥のほうにある窓際の席だった。
どこまでも行き届いた気遣いに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「素晴らしいお茶会になりそうですね」
「ああ、素晴らしいお茶会にしようじゃないか」
相手も良い笑顔だった。こんな楽しみなお茶会はそうそうない。来てよかった。
そう思ったエリーシャは、アルドおじさんに促され、席についた。
三人がけのテーブル。空いた椅子にバスケットを置いて。
程なくしてカップとポットが運ばれ、お茶会は始まる――


 乙女はカップを静かに唇につける。
ほのかなリンゴの香り。銘柄はティーチウィルムだっただろうか。
ここの紅茶はリンゴとの相性が抜群で、それをシフォンケーキだとかパイだとかにして一緒に食べると素晴らしく合う。
ただ、高級品なのでこういうちょっとした上品なお店や専門店じゃないと飲めない逸品でもあった。
このお店は更に行き届いていて、カップそのものにリンゴの香りがついていた。
どういう風にしてそうなっているのかは知らないが、エリーシャはその趣味のよさに感心する。

「球体関節は、どう思うね?」
そんな、愛好家としては他愛ない部類の話からおしゃべりは始まる。
「人らしさと人形らしさを分けるポイントだと思います。私は好きですよ。人形らしくてかわいいです」
それがあるだけで誰が見ても人形に見えるのだ。
これは球体関節人形だけが持つ個性であるとエリーシャは思っている。
同時に、人形として可愛いと思える、そんなチャームポイントだとも考えていた。
「私も好きだよ。あれは中々可愛らしく見えるものだ。彼女達としてはあまり見せたくない場所らしいがね」
「彼女達……?」
人形を人のように呼ぶ愛好家は珍しくもない。だが、いかにも人形本人から聞いたような話し方に、つい戸惑ってしまうのは、エリーシャとしてもこんな相手とは初めて会うからである。
「ぱそこんでお話ししていた時から思っていましたが、アルドおじさんは人形とお喋りできるみたいに話すのですね」
目の前の中年紳士が、少しだけ可愛らしく感じられる瞬間である。
年頃の普通の娘なら嫌悪感すら抱きかねない趣味だが、同好の士であるエリーシャはむしろ好感を持った。
「まあ、本人から聞いてるからね。ねえアリスちゃん」
「えっ?」
おもむろに、腕に抱いていた人形に話しかけるアルドおじさん。
するとどうだろうか、人形は顔を見上げ、主を見つめるではないか。
『はい、私はいつも旦那様とお話しさせていただいておりますわ』
そして喋る。これにはエリーシャも心底驚かされてしまった。
変な裏声などではない。魔法水晶などからの誰ぞかの声という訳でもない。
人形の口から出た、真実、人形の声だったのだ。
「えっ、あの、これって――」

 自動人形。愛好家の中でもまだお目にかかった者がほとんど居ないほどに稀少な、自在に意思を持ち動き回る人形である。
現代の人間世界においてこれを持つ者は存在しておらず、人間には再現が不可能なロストテクノロジーを用いて作られたマジックアイテムであるとも伝記されている。

「やはり、驚いたかね。いや、私も少し迷ったんだが、やはり私の大切な子達だからね。君にも見て欲しかった」
「本当、驚かされました。まさかこんな所で自動人形と出会えるなんて……」
愛好家であるならいずれはお目にかかりたい、そして手にしたいと思う程のレアアイテム。
それが目の前にあるのだ。目の色も変わるし、心だって躍らされてしまう。
「あの、お名前はアリス、でいいのかしら。もう少し近くで見せていただいても?」
乗り出したくなる気持ちを抑えて、必死に懇願する。
見たい。お喋りしたい。できれば触りたい。
可愛らしくも主同様上品な衣服を纏ったアリスは、主の方をそっと見つめる。
アルドおじさんは「いいよ」とばかりにニコリと笑い、アリスをテーブルに立たせる。
ちょこちょことテーブルの上を歩き、アリスはエリーシャの胸の前で立ち止まり、スカートの隅を持ってちょこんとお辞儀をした。
『初めまして。アリスと申します』
「ええ、初めましてっ」
思わず抱きしめたくなるほど可愛らしい仕草に、エリーシャのボルテージは跳ね上がった。
頬は真っ赤にそまり、瞳もやや潤んでいる。
人形として完成されたその美しくも愛らしい様に、完全に心を奪われてしまった。
「その、この子は、どのような経緯で……?」
「あまり人には言えないのだが、人ならざる職人に人形作りを依頼したら、このようになったのだよ」
「人ならざる……亜人の職人かしら。そんな方法があったなんて……」
こうしたサブカルチャー的なものは人間が作ると相場は決まっていて、他の種族には真似できない強烈な個性の一つであるはずなのだが、それ故に他の種族にそれを委ねるという発想は今まで誰も思いつかなかったのだ。
だが、それだけではないのは近くで見て気づいた。
「あの、この子の瞳……それに、肌とか……もしかして」
これは、あまり喜ばしくない部類の驚きだった。
この人形の材料は、目に見て取れる範囲だけで、いずれも人間世界では使われない類の材料ばかりだった。
それも、相当非人道的な手段を取らないと手に入らない代物である。
「あの、アルドおじさん。この子の材料は、貴方の指定で作られたのですか?」
「いいや、要件さえ満たせるならそれで構わんと言ったら先方が勝手にこの材料にしたようだね。私も最初驚かされたよ」
苦笑するあたり、本人も悪気があってのものではないらしく、胸を撫で下ろした。
「君も気づいたようだが……だが結果としてできたアリスちゃんには罪はないと私は思っている」
「ええ、そうですね。ごめんなさい。余計な事を気にしてしまって」

 ぱそこんで話した時からエリーシャはそのように感じていたが、このアルドおじさんという中年紳士は、そこまでがめつくなく、品もあって、どこか優しさも感じていた。
それでいて深い知識と見聞を持ち、こうして自分ですら見たことの無い自動人形の持ち主なのだという。
話していて自分と対等くらいの相手だとは思っていたが、それ以上にこの道にどっぷりと浸かっている上級者であるらしい彼に、エリーシャは感嘆した。
世界はまだまだ広い――
果てはあるだろうけれど、それを見たことの無いエリーシャは、やはり帝国という名の狭い世界の守護者であった。
ぱそこんというマジックアイテムで世界と繋がる事はできても、それによって多くの同好の士と会うことが出来ても、やはり、自分が知る世界等狭い物なのだ。

「……アリス、貴方は幸せ?」
自分の腕の前でじっと顔を見てくるアリスに、エリーシャはふと、そんな質問をした。

 幸せでない訳がない。こんな優しそうな主と一緒に居るのだ。
身に着けている衣服だって、多くの人形達が着たことすら無いような高級なシルクの可愛らしいドレスだ。
エリーシャだって帝国の勇者として相応の報酬は貰っているが、ここまで人形の衣服に金銭を費やすには相当の勇気が要る。
それほど可愛がられているのだ。髪の毛だって、サラサラとしていてちょっとした風に金髪が揺れるほど手入れがされている。
言ってしまうなら、アリスは新品そのもの、いや、愛情がかけられている分、それ以上に人形として美しかった。
だから、答えはわかりきっていた。

『はい、アリスは幸せですわ。旦那様に毎日大切にされて幸せです』
にこりと微笑む自動人形に釣られて微笑んでしまう。可愛い。
「愛されてるのね。良い主人にめぐり合えて貴方は幸せだわ」

 偏に人形好きと言っても色々といるのをエリーシャは知っていた。
自身やこのアルドおじさんのように大切にしてくれる主ならいい。
けれど、中には少し傷や汚れがついたらすぐに捨て、新しい人形を求める者もいる。
ひどいと、レアな人形じゃないからというだけで廃棄物のように扱い、ジャンク品のようにばらして改造や修繕の材料として使う事すらある。
それは、勿論人の趣味であってそれ自体に文句を付ける気は無いが、エリーシャには、人形がかわいそうに感じてしまう、そんな主人達だった。
このアリスのように意思がある人形がそのような目にあったら、これほど残酷なものはないだろうと思ってしまう。

「ところでリーシアさん、私は君のお気に入りの人形にお目にかかれると聞いて楽しみにしていたのだが――」
アルドおじさんはエリーシャの呟きに更に機嫌を良くしたのか、人の良い笑顔でエリーシャが椅子の上に置いたバスケットを見る。
年頃の娘が良く持つ手ごろなサイズのバスケットだ。
「あ……はい、アリスを見せていただきましたし、アルドおじさんにも、私の宝物を見ていただきましょうか」
はにかみながら椅子の上のバスケットに手を伸ばす。
そのままテーブルの上に置かれ、開く。
静かに入れられた両手には、掌には少し余る大きさの人形が収まっていた。
「あの……自動人形と比べれば、そんなに珍しくもなんともないんですけど……」
先にアリスを見てしまった所為か、エリーシャも少しだけ気後れがしていた。
それでも、この人なら大丈夫だと自身を奮い、人形をテーブルに座らせる。

 アリスより一回り大き目の、古めかしい人形がそこにあった。
球体関節。髪の毛は動物の毛だろうか。
顔立ちはやはり幼いものの、アリスと比べて作りは雑で、どうしても元々の造形の差が、美しいという印象から遠ざけてしまう。
モノの古さこそ相応に価値を感じさせるが、言ってしまえば古びた田舎人形だった。
「私の……私の大切なお友達です」
じっと、不安そうにアルドおじさんを見つめる。
目の前の中年のその視線は自身の人形に注がれていた。
「この子の名は?」
「トリステラと言います」
「そうか……トリステラか。可愛いじゃないか。手入れも行き届いている。愛されている証拠だ」
名を聞き、一瞬だけこわばらせていた表情が和らぎ、彼は笑った。
嘲笑するようなにやつきではなく、受け入れ愛で入る慈愛の微笑みだった。
「私はこのアリスちゃんが一番の友達だが、君にとってトリステラちゃんは同じくらい大切にされてるのだろうね」
「はい。そこだけは誰にも負けるつもりはありません」
今までトリステラを見せた人達は、優しく受け入れてくれた人も居たには居たけれど、どちらかと言えば見下したような、残念な笑顔を向ける人が多かったのだ。
価値観の違いもあるから仕方ないとは思いながらも、やはりその度に傷つき、他の人と会うのが怖くなってしまう。
だからこそ、彼が認めてくれたのが、エリーシャにはとても嬉しかった。
「結構。やはり君は、私の理解者になってくれそうだ」
「アルドおじさんは、周りに理解してくれる方が居ないと仰っていましたね」
「ああ、私の周りは……どうもその、この手のサブカルチャーに興味を持たないものが多くてね」
苦笑する彼に、エリーシャも思い当たる所があり、一緒に溜息をついてしまう。
「私もです。お給金を人形に費やしてる、なんて言うと、周りは皆苦笑いばかりしますわ」
趣味は人それぞれとは言っても、やはりサブカルチャーに大金を注ぎ込むのは、やりすぎな趣味なのだ。
そこまで行くほどのめりこんでいる求道者達は、社会においてつまはじき者。
国の勇者であるエリーシャであっても、それを周りに公言すれば買うのは失笑である。
だからこそ、この中年紳士の苦悩が、エリーシャには痛いほどよくわかっていた。
「大丈夫ですよアルドおじさん。こうして私達は出会えたんですもの。きっと、同じ趣味の仲間が広い世界に、もっと居るはず」
「そうだねぇ。私も、きっとそうなると――」
良い話は、そこで終わる事になる。


 ズン、と、何かを圧迫するような轟音が響いた。
それは止む事無く、繰り返し響き続ける。
「あれは何?」
魔王たちと別の席に座っていたカップルが、何事かと窓の外を見て立ち上がる。
次第に他の客もそれに気づき、静かだった店内がにわかに騒がしくなった。
「アルドおじさん、あれは……」
窓の外。空に、巨大な何かが居た。
遠くて何なのか解らなかったそれは、次第に近づいていき――
「ねぇ、あれ、ドラゴンじゃ……」
誰かがそう呟くと、店内は一瞬遅れてパニックに陥った。
「やだ、早く逃げなきゃっ」
「お客さん、御代はっ!?」
「きゃーっ、ドラゴンよっ、ドラゴンがきたわっ!!」
「もうおしまいだっ!!」
「え、エリカ、生きてたら僕と――」
どさくさまぎれに食い逃げする客、生真面目に代金を払ってから逃げる客。
混乱の余りお茶をズボンの上にこぼし悶絶する者や、何を勘違いしたのかトイレに駆け込む者も居た。
優雅なお茶会の雰囲気などではない。目の前に広がる光景はカオスそのものである。

「……よりによってこんなタイミングで来るとは。間が悪い」
街に近寄る竜の影。その上に乗っている者。
どちらも遠くて姿は良く見えないが、どちらも魔王の見知った魔力だった。
強大な魔力の持ち主は黒竜姫。そして微弱で人間より少しだけマシな程度なのがラミアのものであると。
ラミア情けないなあと思いながら、魔王は折角のお茶会を邪魔され軽い苛立ちを覚えた。
「まさかドラゴンが来るなんて……アルドおじさん、逃げてください」
「いや、私は良いよ。それよりリーシアさん、君こそ逃げなさい」
魔王としては、お茶会をしているところをラミア達にバレるのは体裁も悪いし、何より折角出会えた理解者が何かの間違いで殺されでもしたら悔やんでも悔やみきれないのだが、リーシアは気丈にも自身より先に魔王を逃がそうとした。
「私は大丈夫ですわ。私、こう見えても勇者ですから」
きりっとした面持ちで語るリーシアは、武器や鎧こそつけていないが、確かに街娘とは明らかに違う魔力の高さを誇っていた。
初見からそうなのではないかと思っていたが、やはりそうなのだと解ってしまい、少しだけ切なくなる。
非戦闘員なら殺さず捕虜にもできるが、戦闘員、それも指揮官である勇者はまず間違いなく戦争では殺されてしまう。
折角の出会いも、いずれは悲しい別れが待っているのだ。切なくもなる。
「リーシアさん、あそこにいるのは強大な黒竜だ。無理に挑まず逃げなさい」
それでも、今それが失われるのは避けたい魔王は食い下がった。大きな過ちを口走りながら。
「……黒竜? ブラックドラゴンではなくて?」
しまった、と、思った時には遅く、リーシアは怪訝な面持ちで魔王を睨み付けていた。

 人間は、黒竜族をブラックドラゴンと呼ぶ。
ドラゴンとはいわゆる今の黒竜姫がとっている巨大な翼の生えたトカゲの形態からつけられた人間側の名称。
そして人間はこの形態の黒竜族が本来の姿であるとし、人間と大差ない姿になる事を知らない者も多い。
故に、竜を見てドラゴンと呼ばない者は、魔族であると認識される。

「アルドおじさん、あまり考えたくないですが、貴方、もしや――」
「わ、私は魔族の専門用語にも精通しているからね。彼らの間ではそう呼ばれているのも知っている。それでだよ」
咄嗟に思いついた言い訳を、いかにもそれらしく語る。
何も言わないよりは良いと思いながら出たその場しのぎは、一応効果があったらしく、目の前の乙女は表情を変え、安堵したように笑った。
「人が悪すぎます。こんな時に言ったら、魔族なのでは、なんて疑われてしまいますよ?」
「ああ、すまなかった。どうにも私はそういった常識に疎いようでね」
人間は、常に注意を払っている。
魔族は決して遠い存在ではなく、いつどこにいてもおかしくない隣家の仇敵なのだ。
街を歩く人間のうち、何人か魔族が混じっていても不思議ではない。
それは古くから魔族が人間世界に入り込んで情報収集や破壊活動をしてきたからなのだが、それをうっかり忘れていた魔王は嫌な汗をかいてしまった。
「とにかくここを出ましょう。ドラゴンは北に向かったみたいですし、南に逃げれば安全なはず」
冷静に状況を分析する乙女に手を引かれ、魔王は店を出た。

 街は大混乱に陥っていた。
平和を甘受していた彼らは、自分達がいまだかつて晒された事の無い死の恐怖に怯え、戸惑い、逃げ惑っていた。
店の前に立つ二人は、街と空を交互に見、まだ戦禍が起こっていない事にとりあえず安堵する。

「私は宿屋で装備を整えてきますから、アルドおじさんは南に逃げてください」
「戦う気かね? いくら君でも、ドラゴンスレイヤー無しでは……」
「殺しきる事はできないと思います。でも、時間稼ぎくらいならできますわ」
驚かされたのは魔王だった。
竜族はそれそのものが人間にとって悪い冗談レベルの化け物であり、本来なら一個体相手に一個軍団で挑み、消耗戦によって疲弊させて倒すような相手なのだ。
ドラゴンスレイヤーを使った対竜兵器があれば少数の兵で殺すことも出来るだろうが、それはあくまで赤竜や青竜等の下級竜族に限っての話で、黒竜相手に、まして魔王軍最強の黒竜姫相手に個人で挑むのは自殺行為以外の何者でもない。
それこそ、魔王相手の方が遥かに難易度が低く確実なくらいである。
「やめたほうが良い。折角の大切な理解者だ、こんな所で失いたくないよ」
「大丈夫です。死ぬ前に逃げますから」
凛々しく微笑むこの乙女は、そんな魔王の心配も気にせず、宿屋に向かおうとしていた。
「リーシアさんっ」
「私だってやっと出会えた貴方を失いたくない。だから戦うのです。どうぞ南に」
振り向かず、背中で返す少女は、やはり魔王と同じ理由で、引くつもりがなかったのだ。
悲しいかな、彼女は勇者であって、その理解者を守ろうなんて考えに走ってしまった。



 リーシアと別れ、魔王は仕方なしにとぼとぼと歩いていた。
歩く方向は彼女に言われたのとは正反対である。彼が魔王であるが故に。
自然、自分とは逆の方向から逃げていく人間達は減っていき、すぐに周りには誰もいなくなった。
小さな沈黙が訪れる。
黒竜姫はどこかに降り立ったのだろうか。店を出た頃に聞こえていた翼膜の巻き起こす轟音は聞こえない。
やがて、街角に巨大なシルエットが見えた。
「ラミアか」
「陛下、よ、良くぞご無事で……」
見慣れたその蛇女は、割と満身創痍だった。
魔王は最初、人間達と戦ってそうなったのかと思ったのだが、どうやら違うらしく切り傷らしき怪我は見当たらなかった。
「……何があったのだ?」
「こ……黒竜姫の奴、いきなり上空で反転して、『陛下を探してきなさい』とか言って私を落としたんですよ……」
よく生きてたものである。普通の魔族なら即死していてもおかしくないところをまだ生きてるのだから、彼女のしぶとさはばかにならない。
「それで、私の所まで来たのは何故かね?」
「それはっ――それは、勿論、陛下が敵地に向かったと聞き、急遽こうしてお迎えに……」
「……そうか」
はぁ、と小さく溜息をつく。流石にずっとはスルーしてくれないかと。いつかはばれるかと。
まあ、リーシアと居るところを見つからなかっただけマシなのである。
残念な別れとなったが、見当たらない辺り、黒竜姫もどこかで待機しているのだろう。
このまま自分が素直に魔王城に帰れば、今回は何事も無く終わるはずであると魔王は考える。
「陛下、ここは危険ですわ。どのような目的でいらっしゃったかは解りませんが、一刻も早く――」

「陛下、ですって――?」
ラミアとは違う声が、静かに響いた。
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