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9.毎週のように休日も会うようになった頃
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日曜日の昼前は、公園。
のんびりとベンチに座っていると、突然目隠しをされ、視界が遮断される。
「ふふっ、だーれだ?」
柔らかくてすべすべしていて、そして春の陽射しのように温かな感触が目元に触れ、驚きよりは胸の高鳴りの方が強いのを誤魔化すように、その手に触れる。
「わわっ」
「その反応さては――」
さては、なんて言ったが椎名なのは解りきっていた。
元々今日は椎名と公園で過ごすつもりでこうやって待っていたのだから。
だが、即答してしまうのはなんとも味気ない。
椎名自身はそういうきゃっきゃうふふな展開を望んでるのかもしれないが、そんな事は毎度のようにやれば多分飽きてしまうに違いない。
たまにはそう、変化球も必要なのだ。
「あれ? 言い淀んでる……?」
「――くくく、俺は騙されんぞ! さてはお前、椎名のねーちゃんだな!?」
「違うよ!?」
まさかの返答に椎名も驚きの声をあげる。
これだ。この展開を待っていたのだ。
「なるほど、つまりそういうフリなのだな。おのれ武田!」
「なんでそこで武田君の名前が出るの!?」
「なんだ武田じゃなかったのか。妙に椎名みたいな声を出すなと思ったが」
「解ってるでしょ。絶対解ってるでしょイシイ君」
「くくく、さぁてな」
ちょっとだけワルっぽく、ニヒルに笑ってみる。
眼元は隠れてるから口だけだし、多分後ろにいるであろう椎名には見えていないだろうが。
「はー、もう、イシイ君ったら、折角驚かせていちゃいちゃしようとしたのにぃ」
ぱ、と手を離されてしまう。
もうちょっと隠していてくれても良かったのだが、俺の反応はお気に召さなかったらしい。
明るくなる視線、当然ながら目の前には誰もいない。
「誰もいないだと……?」
「いや、後ろだよ、うーしーろー!」
こっち見てよ、と、耳を引っ張られてしまう。
強制的に後ろを振り向かされ、見てみれば当たり前のように椎名。
ベレー帽なんて被ってて、ミニスカートとキュロットというちょっと時代的な服装だった。
さりげなくミニバックを背負ってるのもポイントが高い。
「うぉっ、まさかお前、椎名か!?」
「どこからどうみても私だよ!? まさかも何もないよ!?」
「いやー、罠の可能性もあると思ったんだが」
「何の罠だよぅ……もう、イシイ君ってば」
困った人だなあ、と、眉を下げながらも俺の隣に腰かける。
ちょこん、と、スカートを手で押さえながら座るその仕草。
これだけでもうご飯何杯だろうとイケてしまいそうですごくかわい普通。
「たまにはこういうのもアリかと思ってな」
「かなり意味解んないノリだったよ」
「マンネリ解消のために頑張ったつもりだったんだが」
「流石にそれは気が早すぎると思う……そういうのはその……も、もっと先のお話でいいの」
「そうか?」
「そうだよ」
今気にする事じゃないよ? とちょっと照れながらにはにかむ。
さっきまではふてくされたような顔をしていたが、一応機嫌を直してくれているらしい。
というか、こいつの不機嫌ってあんまり長続きしない気がする。
大体すぐに笑顔に戻ってくれるので、今みたいにちょっと選択ミスったような時でもすぐにリカバリーできるという。
まあ、だからこそ安易に変な思い付きを実行に移せてしまうのだが。そして怒られるのだが。
「――それで、どうする?」
機嫌よく笑いかけてくれる。
今日これからの予定。それが気になって仕方ないらしい。
まあ、場所が公園だし、そんな大したことはやらないのだが。
「普通に座ってのんびりしてようかと思ったんだが」
「うん、いいよー」
俺にとって幸いなことに、椎名はそんなに遊びに金を使いたがる奴じゃなかった。
勿論映画とかショッピングとかで使う事だってあるが、こうやって遊ぶ場所のないようなスポットでも、ただのお喋りだけでも笑顔で付き合ってくれる。
本当は、休日に折角会うのだから、もうちょっと色気のある場所を選べればいいのだが、学生の身には金の無さが厳しすぎた。
少し早めの時間ではあったが、陽射しはぽかぽかとしていて、のんびりするには最適。
ただベンチに座っているだけでも、ほう、とため息が漏れてしまうほどに気持ちがいい。
「じゃ、今日は一日のんびりおしゃべりしてますか」
「ああ、そうしたいな」
する事が決まったのだから後は話題を出したり椎名の話に相槌を打つだけである。
だが、決して楽なものだとは思うまい。
何気なく会話を流したりしている事もあるにはあるが、椎名とのこういう機会を無為に過ごすのはもったいない。
全力で。全力で楽しむくらいの気概で行かなくてはいけない。
最近はそう思うようになった。
「何がいいかなー……あ、そうだ、イシイ君ってさ、嫌いな食べ物ってある?」
「んー、紅ショウガとかにんにくだな」
「おー、渋いところ突くねえ」
「好き嫌いに渋いも何もないと思うが。どうもあのなんとも言えない味が苦手なんだよな。どっちも独特の風味と匂いがあるというか」
「そだねー。私もにんにくは苦手かなあ。紅ショウガは焼きそばにはアリだと思うけど」
「あいつは丼物にたまに乗ってるのがなんとも腹立たしいんだ」
「おー、あのご飯が赤っぽくなっちゃうやつ?」
「うむ。あのご飯が赤っぽくなっちゃう奴だな」
以前クラスの野郎どもとそういう話題になった時、あの酸っぱくなったご飯が美味いという奴もいくらかはいたので、案外ありだと思う奴も多いのかもしれない。
だが、俺はあれが嫌いだ。折角の丼物のご飯の味が酸っぱくなる。
酷いとカツ丼の味が変わってしまう。これは許されざる暴挙だと思う。
「しかも細かく切ってあると箸でどけるにも一苦労なのだ」
「我慢して食べちゃえばいいのに」
「食べられなくもないんだがな。できれば食べたくないんだ」
折角のカツ丼の味を楽しもうとしているのに、口の中が酸っぱくなって台無しになる。
カツ丼を食べる時は、こう、口の中はニュートラルになっていないといけない気がするのだ。
酸性に偏らせてはいけない。中性こそが正義だ。
「カツ丼の事考えてるイシイ君はいつ見ても微妙だなあ」
「えっ、紅ショウガの事ばかり考えてたぜ?」
「最近顔を見るだけでイシイ君が何を考えてるのか大体想像つくようになった椎名さんです」
「マジかよエスパーに目覚めたのか」
「イシイ君相手専用のエスパーかも?」
「つまり俺の心に秘めた椎名への想いも駄々洩れか」
「っ……そ、そういう事は、解らないようになってるのです」
超適当設定のエスパーだった。
まあ、確かにカツ丼愛が強すぎて若干そちらに舵を切りそうになっていたので、椎名が歯止めを利かせてくれたと思っておこう。
照れたようにほっぺたを抑えながら視線をそらす椎名めちゃかわ普通普通普通普通。
「……思ったんだけど、カツ丼じゃなくちゃダメなの?」
「うん?」
「だからその、例えばカツカレーとか」
「カツカレーとカツ丼は全然違うだろ」
「カツ煮とか」
「あれはカツ丼になれなかった哀れな料理なんだ」
「ソースカツ丼とか……」
「絶対認めねぇぞ!? カツ丼は卵とじしてあるからこそ美味いんだからな!? ソースとかめっちゃ甘酸っぱくなるだろうが!! キャベツの所為で飯が水っぽくなるし!」
「……そんな必死になって語ってくれなくてもいいんだけどなあ。でもそっか、卵でとじてあるカツ丼じゃないとダメなんだね」
「まあ、俺に関してはそうだな」
別に他の奴がどんな形のカツ丼を食おうが俺は否定もしないし馬鹿にもしないが、俺が食うカツ丼は常に一種類だ。
それ以外のものはカツ丼とは認めないし、カツ丼として食べたくはない。
誰にだって一つくらい絶対に譲れない拘りというものがあるだろう。
俺の場合、それがカツ丼だったというだけの話だ。
「じゃあ、今回のお弁当はなしで」
「うん?」
「なしで」
ちょっと残念そうに眉を下げながら、それでいてちょっと拗ねたように唇を尖らせてもいる。
どういうことなのか。弁当? なんでそれが無しになった?
謎が謎を呼ぶ。だが、弁当、食えないのは辛い気がする。
「今日はね、ていうか最近ずっとだけど、お昼に食べる用にお弁当持ってきてたの」
「ああ、そうだな」
最近の椎名は一緒に遊びに行くときに弁当を持ってくるようになっていた。
それも手作り。俺の分まで作ってくれるのだから家庭的な奴である。
以前は「腕には自信がないけど」と言っていた気がしたが全然そんな事はなく、味もちゃんと頑張りが伝わる俺好みの味で有り難いと思っていたものだ。
「イシイ君、あんまりカツ丼カツ丼言ってるし、『それならたまには作ってあげるかー』って作ってあげようと思って」
「ほう、ようやく椎名も俺の好物に着手した訳か」
「うん。着手したんだけど。お弁当にするなら、卵とじの方だとべちゃってなっちゃってあんまり向かないでしょ?」
「まあな。あれは出来たてだからこそ美味いもので、冷めてしまうと微妙に……うん?」
「そうなんだよね。だから、冷めても美味しいソースカツ丼の方が良いかなあって、私、カツ丼ならどっちでも好きなのかなあって思ってたんだけど、そういうこだわりがあったなんて知らなくって」
残念だけど仕方ないね、と、眉を下げたまま無理に笑顔になる。
ズキリと胸が痛くなる。何気ない会話ではあるが、椎名は俺の好みを探ろうとしていたのだろう。
それで普通に俺がソースカツ丼が食えるのだと答えていれば、椎名はそれを好機と受け取って「実は」なんてはにかみながら弁当を出したのではないか。
最初のアレもそうだが、椎名としては普通にイチャイチャしたくて始めた事が俺の受け答えによって台無しになる、というパターンが連続して続いてしまったことになる。
これではテンションも下がる事だろう。駄々下がりだろう。
それはちょっと困る。かなり困る。
「……いや」
「むむ?」
「実はソースカツ丼もめっちゃ好きなんだ」
「認めないんじゃないの?」
「俺は天邪鬼らしいからな。思ってもいない事を口走る事もあるはずなんだ。ツンデレって奴だ」
「カツ丼にツンデレ?」
「今この瞬間デレが表に出た。ツンはしまったので当分出てこない」
「なるほど。つまりソースカツ丼も認めますか?」
「認める認める」
「ソースカツ丼も愛せる?」
「愛せる愛せる」
「椎名さんが作ったから愛せる?」
「愛せる愛せ……うん?」
何かちょっとずつ誘導されていたような気がしたが、まあ、よしとしよう。
こんな事で椎名が機嫌を直してくれるなら安いものである。
俺の譲れない何かなんて、隣に座ってるこいつの手作り弁当に比べれば軽石のようなもの。
俺は簡単に拘りを捨てられるような軽い男なのかもしれないが、何が一番大事なのかは自分では解っているつもりだ。
そしてそれはカツ丼ではない。
「じゃあ、お昼にしよっか♪」
満面の笑みに戻ったこの椎名にやられてしまえば、食い物の好みの差異なんてたかが知れてるものであった。
のんびりとベンチに座っていると、突然目隠しをされ、視界が遮断される。
「ふふっ、だーれだ?」
柔らかくてすべすべしていて、そして春の陽射しのように温かな感触が目元に触れ、驚きよりは胸の高鳴りの方が強いのを誤魔化すように、その手に触れる。
「わわっ」
「その反応さては――」
さては、なんて言ったが椎名なのは解りきっていた。
元々今日は椎名と公園で過ごすつもりでこうやって待っていたのだから。
だが、即答してしまうのはなんとも味気ない。
椎名自身はそういうきゃっきゃうふふな展開を望んでるのかもしれないが、そんな事は毎度のようにやれば多分飽きてしまうに違いない。
たまにはそう、変化球も必要なのだ。
「あれ? 言い淀んでる……?」
「――くくく、俺は騙されんぞ! さてはお前、椎名のねーちゃんだな!?」
「違うよ!?」
まさかの返答に椎名も驚きの声をあげる。
これだ。この展開を待っていたのだ。
「なるほど、つまりそういうフリなのだな。おのれ武田!」
「なんでそこで武田君の名前が出るの!?」
「なんだ武田じゃなかったのか。妙に椎名みたいな声を出すなと思ったが」
「解ってるでしょ。絶対解ってるでしょイシイ君」
「くくく、さぁてな」
ちょっとだけワルっぽく、ニヒルに笑ってみる。
眼元は隠れてるから口だけだし、多分後ろにいるであろう椎名には見えていないだろうが。
「はー、もう、イシイ君ったら、折角驚かせていちゃいちゃしようとしたのにぃ」
ぱ、と手を離されてしまう。
もうちょっと隠していてくれても良かったのだが、俺の反応はお気に召さなかったらしい。
明るくなる視線、当然ながら目の前には誰もいない。
「誰もいないだと……?」
「いや、後ろだよ、うーしーろー!」
こっち見てよ、と、耳を引っ張られてしまう。
強制的に後ろを振り向かされ、見てみれば当たり前のように椎名。
ベレー帽なんて被ってて、ミニスカートとキュロットというちょっと時代的な服装だった。
さりげなくミニバックを背負ってるのもポイントが高い。
「うぉっ、まさかお前、椎名か!?」
「どこからどうみても私だよ!? まさかも何もないよ!?」
「いやー、罠の可能性もあると思ったんだが」
「何の罠だよぅ……もう、イシイ君ってば」
困った人だなあ、と、眉を下げながらも俺の隣に腰かける。
ちょこん、と、スカートを手で押さえながら座るその仕草。
これだけでもうご飯何杯だろうとイケてしまいそうですごくかわい普通。
「たまにはこういうのもアリかと思ってな」
「かなり意味解んないノリだったよ」
「マンネリ解消のために頑張ったつもりだったんだが」
「流石にそれは気が早すぎると思う……そういうのはその……も、もっと先のお話でいいの」
「そうか?」
「そうだよ」
今気にする事じゃないよ? とちょっと照れながらにはにかむ。
さっきまではふてくされたような顔をしていたが、一応機嫌を直してくれているらしい。
というか、こいつの不機嫌ってあんまり長続きしない気がする。
大体すぐに笑顔に戻ってくれるので、今みたいにちょっと選択ミスったような時でもすぐにリカバリーできるという。
まあ、だからこそ安易に変な思い付きを実行に移せてしまうのだが。そして怒られるのだが。
「――それで、どうする?」
機嫌よく笑いかけてくれる。
今日これからの予定。それが気になって仕方ないらしい。
まあ、場所が公園だし、そんな大したことはやらないのだが。
「普通に座ってのんびりしてようかと思ったんだが」
「うん、いいよー」
俺にとって幸いなことに、椎名はそんなに遊びに金を使いたがる奴じゃなかった。
勿論映画とかショッピングとかで使う事だってあるが、こうやって遊ぶ場所のないようなスポットでも、ただのお喋りだけでも笑顔で付き合ってくれる。
本当は、休日に折角会うのだから、もうちょっと色気のある場所を選べればいいのだが、学生の身には金の無さが厳しすぎた。
少し早めの時間ではあったが、陽射しはぽかぽかとしていて、のんびりするには最適。
ただベンチに座っているだけでも、ほう、とため息が漏れてしまうほどに気持ちがいい。
「じゃ、今日は一日のんびりおしゃべりしてますか」
「ああ、そうしたいな」
する事が決まったのだから後は話題を出したり椎名の話に相槌を打つだけである。
だが、決して楽なものだとは思うまい。
何気なく会話を流したりしている事もあるにはあるが、椎名とのこういう機会を無為に過ごすのはもったいない。
全力で。全力で楽しむくらいの気概で行かなくてはいけない。
最近はそう思うようになった。
「何がいいかなー……あ、そうだ、イシイ君ってさ、嫌いな食べ物ってある?」
「んー、紅ショウガとかにんにくだな」
「おー、渋いところ突くねえ」
「好き嫌いに渋いも何もないと思うが。どうもあのなんとも言えない味が苦手なんだよな。どっちも独特の風味と匂いがあるというか」
「そだねー。私もにんにくは苦手かなあ。紅ショウガは焼きそばにはアリだと思うけど」
「あいつは丼物にたまに乗ってるのがなんとも腹立たしいんだ」
「おー、あのご飯が赤っぽくなっちゃうやつ?」
「うむ。あのご飯が赤っぽくなっちゃう奴だな」
以前クラスの野郎どもとそういう話題になった時、あの酸っぱくなったご飯が美味いという奴もいくらかはいたので、案外ありだと思う奴も多いのかもしれない。
だが、俺はあれが嫌いだ。折角の丼物のご飯の味が酸っぱくなる。
酷いとカツ丼の味が変わってしまう。これは許されざる暴挙だと思う。
「しかも細かく切ってあると箸でどけるにも一苦労なのだ」
「我慢して食べちゃえばいいのに」
「食べられなくもないんだがな。できれば食べたくないんだ」
折角のカツ丼の味を楽しもうとしているのに、口の中が酸っぱくなって台無しになる。
カツ丼を食べる時は、こう、口の中はニュートラルになっていないといけない気がするのだ。
酸性に偏らせてはいけない。中性こそが正義だ。
「カツ丼の事考えてるイシイ君はいつ見ても微妙だなあ」
「えっ、紅ショウガの事ばかり考えてたぜ?」
「最近顔を見るだけでイシイ君が何を考えてるのか大体想像つくようになった椎名さんです」
「マジかよエスパーに目覚めたのか」
「イシイ君相手専用のエスパーかも?」
「つまり俺の心に秘めた椎名への想いも駄々洩れか」
「っ……そ、そういう事は、解らないようになってるのです」
超適当設定のエスパーだった。
まあ、確かにカツ丼愛が強すぎて若干そちらに舵を切りそうになっていたので、椎名が歯止めを利かせてくれたと思っておこう。
照れたようにほっぺたを抑えながら視線をそらす椎名めちゃかわ普通普通普通普通。
「……思ったんだけど、カツ丼じゃなくちゃダメなの?」
「うん?」
「だからその、例えばカツカレーとか」
「カツカレーとカツ丼は全然違うだろ」
「カツ煮とか」
「あれはカツ丼になれなかった哀れな料理なんだ」
「ソースカツ丼とか……」
「絶対認めねぇぞ!? カツ丼は卵とじしてあるからこそ美味いんだからな!? ソースとかめっちゃ甘酸っぱくなるだろうが!! キャベツの所為で飯が水っぽくなるし!」
「……そんな必死になって語ってくれなくてもいいんだけどなあ。でもそっか、卵でとじてあるカツ丼じゃないとダメなんだね」
「まあ、俺に関してはそうだな」
別に他の奴がどんな形のカツ丼を食おうが俺は否定もしないし馬鹿にもしないが、俺が食うカツ丼は常に一種類だ。
それ以外のものはカツ丼とは認めないし、カツ丼として食べたくはない。
誰にだって一つくらい絶対に譲れない拘りというものがあるだろう。
俺の場合、それがカツ丼だったというだけの話だ。
「じゃあ、今回のお弁当はなしで」
「うん?」
「なしで」
ちょっと残念そうに眉を下げながら、それでいてちょっと拗ねたように唇を尖らせてもいる。
どういうことなのか。弁当? なんでそれが無しになった?
謎が謎を呼ぶ。だが、弁当、食えないのは辛い気がする。
「今日はね、ていうか最近ずっとだけど、お昼に食べる用にお弁当持ってきてたの」
「ああ、そうだな」
最近の椎名は一緒に遊びに行くときに弁当を持ってくるようになっていた。
それも手作り。俺の分まで作ってくれるのだから家庭的な奴である。
以前は「腕には自信がないけど」と言っていた気がしたが全然そんな事はなく、味もちゃんと頑張りが伝わる俺好みの味で有り難いと思っていたものだ。
「イシイ君、あんまりカツ丼カツ丼言ってるし、『それならたまには作ってあげるかー』って作ってあげようと思って」
「ほう、ようやく椎名も俺の好物に着手した訳か」
「うん。着手したんだけど。お弁当にするなら、卵とじの方だとべちゃってなっちゃってあんまり向かないでしょ?」
「まあな。あれは出来たてだからこそ美味いもので、冷めてしまうと微妙に……うん?」
「そうなんだよね。だから、冷めても美味しいソースカツ丼の方が良いかなあって、私、カツ丼ならどっちでも好きなのかなあって思ってたんだけど、そういうこだわりがあったなんて知らなくって」
残念だけど仕方ないね、と、眉を下げたまま無理に笑顔になる。
ズキリと胸が痛くなる。何気ない会話ではあるが、椎名は俺の好みを探ろうとしていたのだろう。
それで普通に俺がソースカツ丼が食えるのだと答えていれば、椎名はそれを好機と受け取って「実は」なんてはにかみながら弁当を出したのではないか。
最初のアレもそうだが、椎名としては普通にイチャイチャしたくて始めた事が俺の受け答えによって台無しになる、というパターンが連続して続いてしまったことになる。
これではテンションも下がる事だろう。駄々下がりだろう。
それはちょっと困る。かなり困る。
「……いや」
「むむ?」
「実はソースカツ丼もめっちゃ好きなんだ」
「認めないんじゃないの?」
「俺は天邪鬼らしいからな。思ってもいない事を口走る事もあるはずなんだ。ツンデレって奴だ」
「カツ丼にツンデレ?」
「今この瞬間デレが表に出た。ツンはしまったので当分出てこない」
「なるほど。つまりソースカツ丼も認めますか?」
「認める認める」
「ソースカツ丼も愛せる?」
「愛せる愛せる」
「椎名さんが作ったから愛せる?」
「愛せる愛せ……うん?」
何かちょっとずつ誘導されていたような気がしたが、まあ、よしとしよう。
こんな事で椎名が機嫌を直してくれるなら安いものである。
俺の譲れない何かなんて、隣に座ってるこいつの手作り弁当に比べれば軽石のようなもの。
俺は簡単に拘りを捨てられるような軽い男なのかもしれないが、何が一番大事なのかは自分では解っているつもりだ。
そしてそれはカツ丼ではない。
「じゃあ、お昼にしよっか♪」
満面の笑みに戻ったこの椎名にやられてしまえば、食い物の好みの差異なんてたかが知れてるものであった。
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