異能専科の猫妖精

風見真中

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贖罪編

奈雲と八雲

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 なぜ普通の姉妹として生を受けなかったのだろうか。そんな益体も無いことをつい考えてしまう。
「七号、八号の面倒を見ておきなさい」
「はい」
 出生が特殊だったせいか、産まれて間もない頃の記憶が朧気ながらある。
 薬液の生温い感触の海に揺られる自分を眺めるその人は、いつも優しい顔をしていた。
 赤茶色と黒の縞模様の髪に、宝石のように赤い瞳。
「八雲……あなたは八雲よ」
「や……くも?」
 薬液のゆりかごから出されても、体が出来上がるのが遅かった私はしばらくの間自分で歩くこともできなかった。
 そんな私を世話してくれていたのは、いつもその人だった。
 初めて食事を与えられたのも、衣服を着せてもらったのも。
 初めて、名前というもので呼んでくれたのも。
「八号なんて、そんなの名前じゃないわ。あなたの名前は八雲。私はそう呼ぶからね」
「やくも……」
 不思議な感覚だった。
 私の母親であるあの人は、自分のことをそう呼んだりはしない。
 あの人が私を呼ぶときは、必ず八号と呼ぶ。
「あなたは?」
「私? 私は、そうね……。奈雲でどうかな? 蜘蛛七号だから、奈雲」
 ただの数字のようなそんな名前でも、『名前』と『番号』は違う。そういってその人は奈雲と名乗り、私に八雲という名前をくれた。
「なぐも……お姉ちゃん?」
 私が姉と呼ぶと、その人は花が咲くように笑った。

 ・・・

「八雲」
 母が私の名前を呼ぶ。
 私が生まれて、六年。この頃になると母も私のことを八号と呼ぶことが少なくなり、姉がつけた八雲という名前を呼ぶようになっていた。
「はい」
「あなたはもうすぐ学校に通うわ。異能専科の初等科に。そこで普通の異能者と同じように生活を送りなさい」
「は、はい……‼」
 学校というものは、母に見せられた資料で知った。
 同じ歳の人間と生活を共にし、教養と異能を学ぶ。
 自分が生み出された理由はこの頃には何となく理解していたが、私は学校に行くのが楽しみだった。
 資料ではなく、初めて直に見る外の世界と、母と姉以外の人間。
「あの……」
「何?」
「あの、お姉ちゃんは?」
 学校というのは、同じ歳の人間同士で席を並べるもの。
 私が学校に行くなら、姉は二年早く学校に行っていなければならない。
 しかし、姉は今日も同じように私の隣にいる。
 それが私には不思議だった。
 学校に行くなら姉と一緒がいいと思ったのだ。
「奈雲には必要無いわ。学校でもあなたは一人っ子ということにしておきなさい」
 母はそう言って、興味無さげに私の隣にいる姉を見た。

 ・・・

「うぅ……ぐす……」
「八雲、いつまでも泣いてちゃだめよ?」
 薬品臭い寝室のベッドの上で、私はいつまでもぐずっていた。
 明日はついに、私が学校に行く日。
 ずっと一緒だった姉と、離れ離れになる日。
「だって……だって……‼」
「大丈夫だよ」
 姉はそっと頭を撫でて私を慰めてくれるが、この胸に込み上げる寂しさだけはどうにも消え失せてくれない。
 生まれてからずっとそばにいてくれた姉と離れて、学校に行く。
 楽しみだったはずの学校なのに、そこに姉がいないと思うとたまらなく怖かった。
「ずっと会えないわけじゃないんだし、それに学校に行くっていうのは凄いことなんだよ?」
「ぐす……そうなの?」
「うん。学校に行けば、お母さんの役に立てるの。それは八雲にしかできないことなんだよ?」
 そう言って姉は自分の髪をつまみ、私に見せてくる。
「ほら、お姉ちゃんは混ざりすぎちゃったから、失敗なの」
 失敗、それは事あるごとに母や姉が口にする言葉だ。
 母の実験は非常に難しいもので、成功例は今のところ自分だけ。
 奈雲を除き、自分には更に六人の兄や姉がいたらしいのだが、その全てが奈雲以上の失敗だった。
 六人は母が管理する部屋の中で今でも薬液の中に浸かっているが、成功例に近い奈雲だけはこうして私と一緒にいる。
「学校でいっぱい勉強して、お母さんの役に立ってね。八雲」
「お姉ちゃん……うん‼」
 姉の言葉を疑わず、私は力強く頷いた。
 この頃の私は、母の思想を疑うようなことはなかった。
 母の計画は崇高で偉大で、多くの人を幸せにすると信じていたからだ。
 人を幸せにするために、私たちは生まれた。
 悪い人たちと戦う正義の味方として、生を受けた。
 そして私は、唯一の成功例として母からも姉からも期待されていた。
 その期待に応えるために、私は頑張ろうと思っていた。
 そしてその夜が、正気の姉と最後の会話をした夜になった。

 ・・・

 不慣れな寮住まいや集団生活を何とか乗り越え、私は初めての長期休暇を迎えた。
 久し振りに姉に会えることに心を踊らせ、学校からほど近い鬼無里の山中に作られた研究施設、私の家に帰ってきた。
「ただいま……。お姉ちゃん?」
 明かりのついていない施設内に呼び掛けるが、帰ってくる声はない。
 どうしたのだろう、と首を傾げながら中に入ると、母が私を出迎えた。
「お帰りなさい、八雲。早速だけど研究室に来てちょうだい」
 母は私を見て早口にそう言うと、さっさと扉の奥に消えてしまった。
 私は姉に会えないまま研究室に入り、服を脱いで薬液の満たされたゆりかごに横になって入る。
「あの、お姉ちゃんは?」
「ああ、投薬が終わったら会わせてあげるわ」
 母はそう言っていくつもの注射器を用意し、私の体に反応をモニタリングするための電極を取り付ける。
「はい……」
 その言葉を信じ、私は母の研究に身を委ねた。
 首筋に注射器の針を刺され、鋭い痛みとともに薬品が体の中に入ってくる。
 何度も何度もそれを繰り返し、だんだんと意識が朦朧としてきた。
「バイタルの乱れは……想定内ね。安心しなさい、ちゃんと試した薬だけだから、今は辛くてもすぐに慣れるわ」
 耳鳴りの向こうで聞こえる母の言葉を最後に、私は意識を手放した。

 ・・・

 目を覚ました私は、母に案内されて施設内のとある部屋に連れて来られた。
 ここは、保管室。
 私や奈雲よりも前の実験体が薬液漬けの生命維持装置に繋げられて保管されている、展示施設のような部屋だ。
「ほら、奈雲よ」
「え?」
 母は先刻の約束通り、私を姉に会わせてくれた。
 姉は、奈雲は他の実験体と同じように、薄緑色の薬液の中で瓶詰めにされていた。
「お、お姉ちゃん……?」
 分厚いガラスの向こうで薬液の中を漂う姉は、私の声に応えてくれることも、目を開けることもない。
「何で……お母さん⁉」
 私は隣にいる母にそう問いかけた。
 母は目を伏せて首を振り、「仕方なかったのよ……」と呟いた。
「奈雲はあなたより不完全なの。いつどんな不具合が起こるか分からないし、一度不具合が起こればあなたのように人間の医療では治らない。だから、治せるようになるまでこうして眠ってもらっているの」
 母が言うには、私が学校に行っているうちに姉の体に不具合が起こったらしい。
 今の母の技術では姉を治すことができないらしく、研究が進むまでこうしているしかないということだ。
「…………」
 嘘だ。直感的にそう思った。
 母は、一度だって姉に興味のある視線を向けたことはない。
 姉のことを思って何かをしたことなんかない。
 首筋に手を伸ばし、そこに貼られたガーゼの下、注射器の跡をそっと撫でる。
 私に使った薬は、きっと姉で試したのだろう。
 もっと多くの薬を姉に使い、副作用の少なかった物だけを私に使った。
 薬の強い副作用で、姉は目を覚まさなくなった。
「八雲、私の研究が進めば、奈雲を治すことだってきっと出来るわ。だから、お姉ちゃんのためにも、私に協力してくれるわよね?」
「……はい、お母さん」
 この一件が契機となり、私の中には母への不信感が募っていった。
 でも、仕方ない。私には頷くしかできない。
 たった一人、この世界で唯一私を思ってくれる存在。
 最愛の姉ともう一度会うためなら、私は何でもするだろう。

 ・・・

 それからはある意味で安定した日々が続いた。
 学校に行き、長期休暇には施設に戻って投薬と実験を受ける。
 薬液の中で眠る姉に学校であったことを少しだけ話し、また学校に戻る。
 学校での生活にも慣れていった。
 クラスのお調子者、ムードメーカーという地位を築いて、無害な女生徒を演じてきた。
 初等科の終わり頃に編入してきた女の子とは、自分でも驚くほど仲良くなれた。
 私の醜い異能とは似ても似つかない、真っ白で綺麗な異能を持った女の子。
 その子と一緒に過ごした中等科の三年間は、失った姉の温もりを埋めるほど掛け替えのないものになった。
 そして高等科に進学し、彼と出会った。
 粗暴で、口が悪く、でも優しい人。
 失うはずだった大切な子を守ってくれた。
 壊れるはずだったあの子との関係を守り、鎖のように私を縛る母との関係を壊してくれた。
 母の野望を、打ち砕いてくれた。
 私はそれで満足した。
 もう誰も傷つけることはないのだと、安心した。
 残ったのは、傷つけてしまった人達への罪悪感だけ。
 この罪悪感は、私が消えれば一緒に無くなってくれる。
 なのに彼は、あろうことか私を再びあの子の元へ、光の当たる場所へ連れ出してしまった。
 満足したはずなのに、安心したはずなのに、私は与えられるがまま、それ以上を求めてしまった。
 いつまでもこの場所に居たい。あの子と彼の元に居たいと、身の程を弁えない望みを持ってしまった。
 罪の意識と、度を越した願い。
 二つの感情で、私の頭はぐちゃぐちゃになった。
 だからきっと、これは相応しい罰なんだと、そう思った。
「八雲……大きくなったわね」
 十年振りに私の前に現れた姉は、壊れていた。
 昔より遥かに強い異能をその身に宿し、私を闇の中へ誘った。
「昔みたいに、また一緒にお母さんの役に立ちましょう?」
 姉はそう言って私に手を伸ばす。
 暗く淀んだ赤い瞳には、かつての宝石のような輝きは面影もなく、着ていたパーカーのジッパーを下ろすと、その体はもう人間のものではなくなっていた。
「ほら、私にはもう時間が無いの。私の代わりに、お母さんを助けてあげて」
「お、お姉ちゃん……」
 それでも私は、その手を取ってしまった。
 振り払うことも、姉の手を取って逃げ出すこともできたはずなのに、私はそれをしなかった。
 姉を連れて逃げても、アイツはきっと追ってくる。
 壊された今の姉には、私の言葉は届かない。
 助けを求めても、私を助けてくれる人なんているはずない。
 結局私は、信じることができなかったのだ。
 信じて救いを求めていれば、あの人達なら助けてくれたはずなのに。
 私を思ってくれていた人達を、他の誰でもない、私が勝手に見限っていた。
 見限って、裏切った。
 私は汚い。
 私は醜い。
 私は裏切り者。
 私は愚かしい。
 私は恩知らず。
 私は罪深い。
 私は、私が許せない。
 だからこの罰は正当なものなのだ。
 この胸の痛みも、当然の報いなのだ。
 どうせ壊されるなら、殺されるなら彼がいい。
 そう思っていたはずなのに、何を考えているのか、彼は再び私を救おうとした。
 見限った私を、裏切った私を、救おうとした。
 抱きしめられた。
 大好きだと言われた。
 私自身が見失っていた私を、教えてくれた。
 だから私は、今改めて縋ろうと思う。
 自分勝手に、図々しく、恥知らずにも、彼に助けを求めよう。
 薄汚い虫である私を、友達だと言ってくれた彼に。
 好きだと言ってくれた彼の、あの真っ直ぐな目を信じよう。
 彼の瞳に託そう。

「お願い、大地くん……。お姉ちゃんを、助けて……‼」

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