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編入編
大地対叶
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日本人の生涯賃金は平均で約二億円らしい。
プロ野球選手なんかは年俸で十億とか、低所得層は年収二百万円とか、何だかんだ格差は激しいのだろうが、ともかく平均で約二億円。
物価は上がる一方で、円の価値はここ数年でもかなり下がっているのだろうが、ともかく二億円あれば人並みの生活を一生していられるということだ。
そう考えると実に平均生涯賃金の四割を占める八千万円という金は、途方も無い大金である。
改めて手の中にある請求書を見る。
宛名は大神大地、間違いなく俺だ。請求主は諏訪彩芽、俺の失った手足を作り、治してくれた恩人だ。
問題はそこに記された『\80,000,000』という数字である。
「先輩……何の、冗談です?」
ヒクッと、頰を痙攣させながら辛うじて言葉を紡ぐ。うまく口が回らず上ずった声になってしまった。
「冗談な訳ないでしょ? 腕と足首、合わせて八千万よ」
冗談好きな諏訪先輩の軽いおふざけであるという可能性はなくなった。
俺は本気で、八千万円という大金を請求されているらしい。
「ふっざけんなぁ‼」
激昂し、ソファーから立ち上がる。
冷や汗まみれの顔を引きつらせ、精一杯の虚勢を張りつつ諏訪先輩に向き直る。
「こんな金、払える訳ねぇだろ⁉」
俺が中学を卒業してからバイトで稼いだ金は、ほんの二十万円にも満たない。そしてそのほとんどは原付の免許とタダ同然で譲ってもらったスクーター代に消えており、貯金などほぼゼロだ。
当然、八千万円なんて金が払える訳ない。
「ふーん、払えないんだ?」
スッと諏訪先輩の目が細まる。俺がこういう反応をすると分かっていたのだろう、とても愉しげだ。
「そ、そもそも俺は腕も足も、治してくれとも作ってくれとも頼んでない! 勝手にあんたが付けたんじゃないか⁉」
「え、じゃあクーリングオフでもする?」
諏訪先輩は「それならそれでいいわよ」とわざとらしい演技を挟み、烏丸先輩に命じた。
「切り落として、叶」
「はい、お嬢様」
シンプルなその命令に烏丸先輩はアッサリ頷き、腰の刀を抜いた。
「ネコメ、八雲、危ないからどきなさい」
諏訪先輩がそう言うと、猫柳も東雲もサッと左右に引いてしまう。
烏丸先輩はゆっくりと刀を振り上げ、俺の左腕に視線を固定する。
「ちょ、待った! タンマタンマ‼」
慌てて両手を張り、烏丸先輩を制止しようとする。
まさか問答無用で切り落としにかかるとは思わなかった。
「あら、払う気になった?」
「あ、いや、それは……」
当然のことだが切り落とされるのは困る。すごく困る。
しかし、だからといって八千万円なんて払うアテはない。
俺が言い淀んでいると、諏訪先輩は車椅子の肘置きに頬杖をついてニヤリと笑った。
「まさか、腕はそのままがいいけどお金は払えない、なんてムシのいいこと言わないわよね?」
(こ、この女ァ……!)
追い詰められた俺は、いっそ罵詈雑言を浴びせた上で脱兎の如く逃げ出したいという衝動に駆られる。しかしグッと堪え、冷静に考えを巡らす。
後ろのドアも、下は降りるためのエレベーターも霊官でないと動かせない。この階には窓もない。
そもそも学校内で逃げる場所などありはしないし、その場しのぎにしかならない。
「……どうすりゃいいんだよ?」
苦虫を噛み潰したような表情になりながら、俺はその言葉を捻り出す。
コイツもまさか俺が「はいどうぞ」と八千万円出せるとは思っていないはずだ。
きっと他に何か、金の代わりに俺にやらせたいことでもあるのだろう。
そう思った俺に諏訪先輩はゆっくりと告げた。
「チャンスをあげる」
「チャンス?」
「そう、チャンスよ。さっき言ったのとは別のね」
そう言って諏訪先輩はゆっくりと、緩慢とも思える動きで、納刀する烏丸先輩を手で示す。
「叶と戦いなさい。貴方が勝ったらこの八千万円はチャラにしてあげる」
その言葉に、俺は息を飲む。
俺だけでなく、猫柳と東雲も動揺しているのが横目に見て取れた。
固まる一同を尻目に、諏訪彩芽は再び口を開く。
「負ければ貴方は、私の犬よ」
・・・
諏訪先輩が提示した条件は三つ。
一つ、相手に骨折以上の怪我を負わせない。
二つ、武器の使用は不可。
そして三つ、異能の使用も不可。
この条件で烏丸先輩に勝てば、俺の左腕と右足首の代金はチャラにしてくれるらしい。
そして負ければ、諏訪先輩の犬。
「犬って、具体的にどうすればいいだよ?」
生徒会室で暴れ回る訳にもいかないので、俺たちは廊下に出て戦闘訓練施設なるものに向かっている。
「何でもするのよ。私の命令を忠実にこなすの。その働きが八千万円に釣り合えば、貴方を解放してあげる」
烏丸先輩に車椅子を押されて廊下を進む諏訪先輩は、愉快そうにそう答えた。膝の上にはリルを乗せ、心地よさそうにお腹の毛をもふもふしている。
リルはビスケットのようなもので満腹になったらしく、先輩の膝の上でスヤスヤ眠っている。俺の気も知らないで、暢気なやつだ。
「大神、悪いことは言わないから烏丸の相手なんてしない方がいいわよ」
そう言う藤宮先生はいかにも他人事といった様子だ。
「烏丸は三年生の中でも有名な実力派なの。怪我して私の仕事増やさないでくれる?」
「俺が負けるって前提で話さないでもらえますかね?」
一応は俺の怪我を心配してくれているようだが、怪我をしたら仕事が増える、なんて保険の先生の言い分としてどうかと思う。
「大神くん、あたしも反対」
「私もです。戦っても意味がありません」
猫柳も東雲も反対派だ。どうやら二人とも俺が負けると、信じて疑わないらしい。
「……やるだけやってみるさ」
諏訪先輩の真意は分からないが、烏丸先輩を倒すというのは八千万円用意するよりはよっぽど現実的な話だ。
諏訪先輩が提示した条件はどう考えても俺を誘っている。武器無しなら烏丸先輩の刀に怯えなくて済むし、異能の使用不可という条件は霊官である先輩の能力を制限し、未だ上手く異能を扱えていない俺には何の制限にもなっていない。
俺に有利すぎるこの条件は、明らかに俺を誘っている。
(でも、それでもいい……)
誘われているなら乗ってやる。
それにはっきり言って、勝算はある。
烏丸先輩は俺より十センチ以上背が低いし、体格では俺に分がある。烏丸先輩が霊官としてどのくらい強いのか知らないが、異能無しのケンカなら俺もそれなりに自信がある。
(勝てない相手じゃないはずだ)
一同はエレベーターの中に入り、各々が例の手帳をかざして烏丸先輩が『B1』のボタンを押す。
「地下に行くのか?」
「霊官専用の訓練施設があるのよ。防音も完璧で、何をしても外には聞こえないわ」
どんな悲鳴を上げてもね、と諏訪先輩は口角を上げた。
俺をどうしようと思っているんでしょうね、この先輩。
「私は遠慮しとくわ。大神、あとで腕と足の調子診るから、保健室に来なさい」
そういって藤宮先生は一階で降りて行った。
「あ、はい」
手足を付け替えてくれたのは諏訪先輩らしいが、やはりこの先生も医者らしいことをしてくれるらしい。
エレベーターは俺たち六人と一匹を乗せ、地下でその扉を開いた。
地下一階は四階の廊下よりもさらに無機質で殺風景だった。
エレベーターのドアが開くとだだっ広い空間が広がっており、床も壁もコンクリートがむき出しになっている。
部屋の隅にはトイレらしき扉や掃除道具でも入っていそうなロッカーがいくつか設置されており、空調や室温を調整する機材も一通りそろっている。
「生徒会室とはずいぶん違うな。すげえ地味だ」
「あの部屋は私の趣味よ。去年生徒会長に就任した時に改装したの」
役員は部屋を自由に使えるとか言っていたが、リフォームまで自由なのかよ。
さらりと言っているが、あの部屋に一体幾ら使ってるんだよ、この会長。
「ましろ、リング作って」
諏訪先輩は一同の一番後ろをゆっくりとついてきていた雪村先輩にそう声をかけ、烏丸先輩にはなぜか加湿器のスイッチを入れるよう指示した。
「え、やだ、疲れる……」
雪村先輩は嫌そうに首を振ったが、諏訪先輩が「おーねーがーいー。リングあった方が盛り上がるでしょ!」と駄々をこねると不承不承頷いた。
「それじゃあ叶、それに大地君、準備はいい?」
諏訪先輩の言葉に頷こうとすると、そっと猫柳が耳打ちしてきた。
「大神君、烏丸先輩は本当に強いです。まずは距離をとって……!」
と、そこで俺と猫柳の間に刀の鞘がずいっと割り込んでくる。
「持っていてくれるかネコメ」
差し出された刀を猫柳は返事もそこそこにおずおずと受け取る。
「無意味なことをするな、多少の助言でどうこうなるものじゃないことはお前にも分かるだろ」
そう言い残してだだっ広い部屋の中央に向かう烏丸先輩を見て、東雲が不服そうな声を上げる。
「烏丸先輩ってとっつき辛くてあたし苦手なんだよね~。やっつけちゃってよ、大神くん」
ぶすっと憎まれ口をたたく東雲に、俺は笑みで応える。
「安心しな。ただのケンカなら、俺も自信がある」
グイっと肩の筋を伸ばしながら烏丸先輩の後に続く。諏訪先輩の膝の上で眠るリルとの距離は二メートルちょい。立ち回るならこれくらいの距離は余らせておいた方がいい。
「それじゃあ、リング、作りますね」
先ほど諏訪先輩にリングを作れと言われた雪村先輩がゆっくりと前に出る。そしてロープやポールを取り出すでもなく、ゆっくりと両手を広げた。
「いき、ますよ」
そういって雪村先輩が眠そうにしていた赤い瞳をカッと見開いたと思うと、広げた両手からパキパキと音を立て、真っ白い冷気が放出されていく。
「な、さ、寒っ⁉」
部屋中の気温が一気に下がり、吐く息まで白くなってしまう。
加湿器から溢れていた水分が凝縮され、俺と烏丸先輩を中心にして氷の柱が四本形成される。約四メートルの間隔を空けて立つ氷柱同士は細い氷で繋がっており、まさに氷で出来た『リング』を作り上げた。
「すっげえな、雪村先輩! 氷の魔法か?」
異能といえば妖蟲や猫柳と鎌倉のような変身しか見たことのない俺は思わずテンションが上がる。こんないかにも魔法っぽい魔法があるとは思わなかった。
「この国では魔法とは呼ばん、『異能術』と呼ぶ」
テンションの上がった俺に烏丸先輩が冷静にそういう。
「異能術?」
読んで字のごとく異能の術なのだろうが、何だか『魔法』より味気なく感じてしまうな。
「それに、私は、異能使いでは、ないので、異能術は、使えない」
雪村先輩はフルフルと首を振り、「疲れた」と言ってコンクリートの床に座り込んでしまう。
「私は、半異能、お母さんが、雪女」
眠そうに赤い目を擦りながらそう言う雪村先輩に俺は瞠目する。
半異能、確かそれは異能生物とのハーフのことだ。しかも雪女とは、日本でも有名な雪の妖怪だ。
「雪女って、あの雪女? あの有名な……」
「ましろのことはいいから、早く始めなさい!」
雪村先輩のことが気になった俺だが、いろいろ聞く前に諏訪先輩の言葉に遮られてしまう。正直雪村先輩のことが気になってしょうがないのだが、眼前の烏丸先輩はすでに臨戦態勢だ。
「雪村のことは後で本人に聞け。構えろ、大神」
両手を開いて腰を落とした烏丸先輩はそう言い放った。雪村先輩のことは気になるが、それは後だ。
「ルールはさっき言ったとおり、異能と武器の使用禁止。相手に骨折以上の怪我を負わせるのも禁止」
諏訪先輩の宣言を聞きながら、俺は烏丸先輩に応じるように腰を落とし、一考する。
烏丸先輩との距離は約一メートル、一息に詰められる距離だ。
「勝敗は気絶するか、降参すること。そしてリングから出ても負けとします」
猫柳はさっき距離を取るよう俺に助言してきた。烏丸先輩もそれを聞いていたはずだ。
(つまり、狙うのは……)
諏訪先輩が右手を挙げ、勢いよく振り下ろす。
「用意……スタート!」
俺はその宣誓と共に、一気に駆け出す。
(先手必勝‼)
烏丸先輩は猫柳が俺にした助言を聞いていた。つまり俺が助言の通り距離を空けると思っているはずだ。
だからその裏をかいて、一気にカタを付ける。
距離を詰めながら体を沈め、回し蹴りの要領で足払いを掛ける。
「ッ⁉」
しかし俺の回し蹴りが足に触れる寸前、烏丸先輩の両足が宙に躍った。
(読まれた⁉)
烏丸先輩は後方の床にバク転の要領で手をつき、手首を捻って独楽のように回転しながら俺の顎に蹴りを入れる。
「がっ⁉」
アクロバティックな、曲芸のような動きに完全に意表を突かれた。
蹴り自体は軽かったが、顎に入れられたのがキツイ。頭が揺れるような眩暈に襲われ、身体が硬直する。
痛烈な一撃、奇襲が失敗したことで完全に隙を作ってしまった。
すぐに次の攻撃が来ると思ったが、眩暈が収まるまで守りの態勢を取ることもままならない。
やられる、と思ったが、なぜか追撃は来ない。
「悪いが、すぐには終わらせないぞ」
烏丸先輩は立ち上がり、頭を振って眩暈から立ち直る俺を悠然と見下ろす。
「な、んで……?」
「お嬢様に言われているんだ、すぐには終わらせるなとな」
烏丸先輩はそう言ってゆっくり構える。
仕切り直しだ、と言わんばかりのその態度に俺は眼を細める。
(あの女、どういうつもりだ?)
俺を従わせたいだけならそんな命令をする必要はないし、そもそも俺を従わせたいだけならこんな戦いなんてお膳立てせず、借金を突き付けるだけでも事足りるはずだ。
(何が目的なんだ?)
チラリと視線を諏訪先輩に向けると、諏訪先輩は頬杖をついたままつまらなそうに俺たちを見ている。
「どこを見ている?」
「⁉」
烏丸先輩は言葉と同時に手刀を振るってくる。
俺の首元を狙って振るわれた手刀は皮膚を掠め、チリっと肌を焼く。
反撃のために顎を狙って右手で掌底を放つが、烏丸先輩は当たり前のように躱し、逆に腕を取られてしまう。
「⁉」
取られた腕を振りほどこうと力を籠めるが、ピクリとも動かない。
「な、んだ、こっの……‼」
渾身の力を右腕に込めても、烏丸先輩を一歩も後退させることが出来ない。
身長は俺の方が高い、つまり体重だって俺の方が重いはずだ。体重に差があれば俺の方に分があるというのに、何かに縛り付けられたように俺の身体はその場に縫い付けられた。
烏丸先輩が俺の手を拘束しているのは、左手の親指と中指の二本だけ。その二本を俺の右手首に回しているだけだ。
「い、異能か……⁉」
不可思議な力に、俺は烏丸先輩が異能を使っていると確信した。しかし、先輩はゆっくりと首を振る。
「ただの体術、柔術だ。お前のケンカとは違う、武術だよ」
そういって烏丸先輩は一歩、距離を詰める。
「っがあ⁉」
込められた力から逃れようとすると、ガクン、と自然に床に膝をついてしまう。
右腕から伝わる力に全身を拘束され、俺は左腕以外を一切動けなくされてしまう。
膝は床から離れず、右腕はピクリとも動かない。
唯一自由に動く左腕を振るが、烏丸先輩はひらりと俺の腕を躱してそのまま関節を決めにくる。
「……まだこの程度か」
ボソッと、諏訪先輩がそう呟くのが聞こえた。
烏丸先輩はギリギリと腕に力を込め、俺の右腕は悲鳴を上げる。
「異能じゃ、ないってのかよ、これが……⁉」
指二本で完全に拘束され、俺は床に抑えつけられた。
ケンカの経験は豊富な方だが、こんな不可思議な技は受けたことがない。
「……俺たちの一族はこの鬼無里の近隣の里に根付いていた」
俺を床に縫い付けたまま、烏丸先輩はそう言った。
俺は耳だけを烏丸先輩の言葉に傾け、床に付いた左手に力を込める。
「異能術を身に着け、城の君主に仕え、術を振るっていた」
込めた力は俺の身体を持ち上げることはなく、烏丸先輩が体重を傾けるとその方向に流れていく。
「あまりにも活躍し過ぎたせいもあり、本来あってはならない歴史にまで名を残してしまったがな」
(歴史に、名を遺した?)
この鬼無里の近辺にあり、歴史に名を遺した異能の一族。
不可思議な体術を駆使し、魔法のような術を扱う異能集団。
この辺りでは有名な伝説だ。あまりにも有名すぎてテーマパークまで作られるほどに。
「へえ、驚い、たな。実在したのかよ……」
関節を決められ、脂汗を滲ませながらも俺は精一杯の虚勢を張る。
首を捻って顔を見上げると、烏丸先輩は実につまらなそうに俺を見下ろしていた。
その顔に苛立たなかったといえば嘘になるが、驚きと興奮の方が勝ってしまう。
男子たるもの、皆一度くらい憧れたことがあるからな。
「あんた、忍者かよ?」
・・・
忍者。超人的な身のこなしと忍術を用いて日本の歴史に名を遺した、世界的に有名な隠密集団だ。
忍者が異能者で、忍術が異能術だとしても今更驚きはない。
鬼無里と同様にすでに合併されて同じ市内になっているが、近隣の戸隠という土地には忍者のテーマパークがあるほどだ。
「叶、もういいわ」
組み伏せられたまま動けない俺を見て、諏訪先輩はつまらなそうに烏丸先輩に指示を出した。
「はい、お嬢様」
烏丸先輩はそう言うと組み伏せたままの俺をズルズル引きずり、氷のリングから放り出そうとする。
「……さ、せるかよ!」
俺を引きずるために拘束が緩んだ瞬間を見逃さず、烏丸先輩にしがみつく。
抱き着くように足を烏丸先輩の胴体に回し、左手を首に回す。
「往生際が悪いな」
捕まれていたままの右腕を操られ、俺の拘束はあっさり解かれる。
そのまま腕を振り回され、背中からコンクリートの床に叩きつけられる。
「……っが⁉」
肺から空気を押し出され、衝撃に呼吸が止まる。
そのままのしかかるように腕で首を抑えられ、体重を掛けられる。
「面倒だ、このまま落とすか」
右腕は抑えられ、左手は先輩の背中を叩くがうまく力が入っていない。
「……ッ⁉」
気道を潰され、呼吸困難に視界が狭まる。
四肢からもどんどん力が抜けていき、指先が小刻みに震える。
「もう寝ろ。お嬢様の戯れに本気になるな」
失望したような物言いに、薄れていた意識が覚醒する。
「……めんな」
「何?」
ままならない呼吸で、それでも言葉を紡ぐ。
精一杯の呼吸で先輩に暴言を吐いてやる。
「舐めんな、女顔……」
「貴っ様……!」
つまらなそうにしていた先輩の顔に、動揺の色が走る。
先輩には何の恨みもないが、バカにされたまま、見下されたままあっさり負けを認められるほど俺は大人ではない。
せめて一矢報いてやろうと抑えつけられた右腕に力を込める。
「二度と言うなと、言ったはずだ」
手首に万力のような力が込められ、関節が悲鳴を上げる。
今にも折れそうな右腕に、それでも力を込める。
「こ、のまま、手ぇ折れたら、あんたの負けだぜ?」
「な⁉」
俺が骨折したら烏丸先輩の負け、そういうルールだった。
この際それでもいいとニヤリと笑ってやると、烏丸先輩は一瞬たじろいだ。
「おっらあああああ‼」
ドクン。
腕の筋が切れそうなほど力を込めてやると、不思議と痛みが薄れていった。
ドクン。
頭の奥からじわりと何かが滲んでくるような、不思議な感覚。
ドクン。
四肢には不思議と力が満ちていく。
「お、おい、貴様⁉」
動揺する烏丸先輩に、拘束を振りほどいた右腕を振るう。
しかし右の平手が烏丸先輩の頬に触れる寸前、俺の腕は動かなくなった。
「な、なんだ⁉」
見ると、腕には何か糸のようなものが巻き付いている。直径一ミリにも満たない細い糸だが、何重にもぐるぐると巻き付いており、俺の腕をギリギリと締め上げている。
「そこまでだよ、大神くん」
俺を呼ぶ声は、東雲のものだ。
声のした方に顔を向けると、東雲が普段のふざけた雰囲気を消し、凛とした表情で俺を見ていた。その服の袖からは糸が伸びており、俺の右腕を拘束している。
(糸? 東雲の異能か?)
訳の分からないことを言いながら邪魔をする東雲の拘束を解こうと力いっぱいに引っ張るが、糸は伸縮性に優れているようでゴムのように伸びる。
「邪、魔すんな、東雲ぇ‼」
叫ぶ俺をよそに東雲がきゅっと手首を捻ると、俺は東雲の方に引っ張られていく。
そのまま細い氷を砕いて、リングの外の床に仰向けに転がった。
(場外……?)
天井を仰ぎながら呆然と頭の中で呟く。
「ふざけんな! 何で邪魔しやがった、東雲⁉」
立ち上がり、勝負の邪魔をした東雲を怒鳴りつける。
今俺は腕に力が戻り、あと少しで起死回生の一撃を見舞えるところだった。東雲の邪魔が入らなければ勝てる勝負だったのだ。
「大地君、あなたの負けよ」
車椅子のタイヤを回して俺の目の前にやってきた諏訪先輩はスカートのポケットからケータイを取り出し、カメラを起動して俺に向け写真を撮る。
「何のつもり……⁉」
撮ったばかりの写真を見せてくる先輩のケータイを覗き込むと、そこには当然俺が映っていた。
写真の中の俺は動揺しているうえ、頭には見慣れないものが乗っていた。
「な、なんだこれ⁉」
慌てて頭の上に手をやると、そこにはモフっとした感触があった。
リルのような、獣の耳が。
「異能の使用、あなたの反則負け」
ニヤリと笑う諏訪先輩に、俺は体中の力が抜けていくのが分かる。
こうして俺は、高校生活一日目にして、生徒会長の犬に成り下がった。
プロ野球選手なんかは年俸で十億とか、低所得層は年収二百万円とか、何だかんだ格差は激しいのだろうが、ともかく平均で約二億円。
物価は上がる一方で、円の価値はここ数年でもかなり下がっているのだろうが、ともかく二億円あれば人並みの生活を一生していられるということだ。
そう考えると実に平均生涯賃金の四割を占める八千万円という金は、途方も無い大金である。
改めて手の中にある請求書を見る。
宛名は大神大地、間違いなく俺だ。請求主は諏訪彩芽、俺の失った手足を作り、治してくれた恩人だ。
問題はそこに記された『\80,000,000』という数字である。
「先輩……何の、冗談です?」
ヒクッと、頰を痙攣させながら辛うじて言葉を紡ぐ。うまく口が回らず上ずった声になってしまった。
「冗談な訳ないでしょ? 腕と足首、合わせて八千万よ」
冗談好きな諏訪先輩の軽いおふざけであるという可能性はなくなった。
俺は本気で、八千万円という大金を請求されているらしい。
「ふっざけんなぁ‼」
激昂し、ソファーから立ち上がる。
冷や汗まみれの顔を引きつらせ、精一杯の虚勢を張りつつ諏訪先輩に向き直る。
「こんな金、払える訳ねぇだろ⁉」
俺が中学を卒業してからバイトで稼いだ金は、ほんの二十万円にも満たない。そしてそのほとんどは原付の免許とタダ同然で譲ってもらったスクーター代に消えており、貯金などほぼゼロだ。
当然、八千万円なんて金が払える訳ない。
「ふーん、払えないんだ?」
スッと諏訪先輩の目が細まる。俺がこういう反応をすると分かっていたのだろう、とても愉しげだ。
「そ、そもそも俺は腕も足も、治してくれとも作ってくれとも頼んでない! 勝手にあんたが付けたんじゃないか⁉」
「え、じゃあクーリングオフでもする?」
諏訪先輩は「それならそれでいいわよ」とわざとらしい演技を挟み、烏丸先輩に命じた。
「切り落として、叶」
「はい、お嬢様」
シンプルなその命令に烏丸先輩はアッサリ頷き、腰の刀を抜いた。
「ネコメ、八雲、危ないからどきなさい」
諏訪先輩がそう言うと、猫柳も東雲もサッと左右に引いてしまう。
烏丸先輩はゆっくりと刀を振り上げ、俺の左腕に視線を固定する。
「ちょ、待った! タンマタンマ‼」
慌てて両手を張り、烏丸先輩を制止しようとする。
まさか問答無用で切り落としにかかるとは思わなかった。
「あら、払う気になった?」
「あ、いや、それは……」
当然のことだが切り落とされるのは困る。すごく困る。
しかし、だからといって八千万円なんて払うアテはない。
俺が言い淀んでいると、諏訪先輩は車椅子の肘置きに頬杖をついてニヤリと笑った。
「まさか、腕はそのままがいいけどお金は払えない、なんてムシのいいこと言わないわよね?」
(こ、この女ァ……!)
追い詰められた俺は、いっそ罵詈雑言を浴びせた上で脱兎の如く逃げ出したいという衝動に駆られる。しかしグッと堪え、冷静に考えを巡らす。
後ろのドアも、下は降りるためのエレベーターも霊官でないと動かせない。この階には窓もない。
そもそも学校内で逃げる場所などありはしないし、その場しのぎにしかならない。
「……どうすりゃいいんだよ?」
苦虫を噛み潰したような表情になりながら、俺はその言葉を捻り出す。
コイツもまさか俺が「はいどうぞ」と八千万円出せるとは思っていないはずだ。
きっと他に何か、金の代わりに俺にやらせたいことでもあるのだろう。
そう思った俺に諏訪先輩はゆっくりと告げた。
「チャンスをあげる」
「チャンス?」
「そう、チャンスよ。さっき言ったのとは別のね」
そう言って諏訪先輩はゆっくりと、緩慢とも思える動きで、納刀する烏丸先輩を手で示す。
「叶と戦いなさい。貴方が勝ったらこの八千万円はチャラにしてあげる」
その言葉に、俺は息を飲む。
俺だけでなく、猫柳と東雲も動揺しているのが横目に見て取れた。
固まる一同を尻目に、諏訪彩芽は再び口を開く。
「負ければ貴方は、私の犬よ」
・・・
諏訪先輩が提示した条件は三つ。
一つ、相手に骨折以上の怪我を負わせない。
二つ、武器の使用は不可。
そして三つ、異能の使用も不可。
この条件で烏丸先輩に勝てば、俺の左腕と右足首の代金はチャラにしてくれるらしい。
そして負ければ、諏訪先輩の犬。
「犬って、具体的にどうすればいいだよ?」
生徒会室で暴れ回る訳にもいかないので、俺たちは廊下に出て戦闘訓練施設なるものに向かっている。
「何でもするのよ。私の命令を忠実にこなすの。その働きが八千万円に釣り合えば、貴方を解放してあげる」
烏丸先輩に車椅子を押されて廊下を進む諏訪先輩は、愉快そうにそう答えた。膝の上にはリルを乗せ、心地よさそうにお腹の毛をもふもふしている。
リルはビスケットのようなもので満腹になったらしく、先輩の膝の上でスヤスヤ眠っている。俺の気も知らないで、暢気なやつだ。
「大神、悪いことは言わないから烏丸の相手なんてしない方がいいわよ」
そう言う藤宮先生はいかにも他人事といった様子だ。
「烏丸は三年生の中でも有名な実力派なの。怪我して私の仕事増やさないでくれる?」
「俺が負けるって前提で話さないでもらえますかね?」
一応は俺の怪我を心配してくれているようだが、怪我をしたら仕事が増える、なんて保険の先生の言い分としてどうかと思う。
「大神くん、あたしも反対」
「私もです。戦っても意味がありません」
猫柳も東雲も反対派だ。どうやら二人とも俺が負けると、信じて疑わないらしい。
「……やるだけやってみるさ」
諏訪先輩の真意は分からないが、烏丸先輩を倒すというのは八千万円用意するよりはよっぽど現実的な話だ。
諏訪先輩が提示した条件はどう考えても俺を誘っている。武器無しなら烏丸先輩の刀に怯えなくて済むし、異能の使用不可という条件は霊官である先輩の能力を制限し、未だ上手く異能を扱えていない俺には何の制限にもなっていない。
俺に有利すぎるこの条件は、明らかに俺を誘っている。
(でも、それでもいい……)
誘われているなら乗ってやる。
それにはっきり言って、勝算はある。
烏丸先輩は俺より十センチ以上背が低いし、体格では俺に分がある。烏丸先輩が霊官としてどのくらい強いのか知らないが、異能無しのケンカなら俺もそれなりに自信がある。
(勝てない相手じゃないはずだ)
一同はエレベーターの中に入り、各々が例の手帳をかざして烏丸先輩が『B1』のボタンを押す。
「地下に行くのか?」
「霊官専用の訓練施設があるのよ。防音も完璧で、何をしても外には聞こえないわ」
どんな悲鳴を上げてもね、と諏訪先輩は口角を上げた。
俺をどうしようと思っているんでしょうね、この先輩。
「私は遠慮しとくわ。大神、あとで腕と足の調子診るから、保健室に来なさい」
そういって藤宮先生は一階で降りて行った。
「あ、はい」
手足を付け替えてくれたのは諏訪先輩らしいが、やはりこの先生も医者らしいことをしてくれるらしい。
エレベーターは俺たち六人と一匹を乗せ、地下でその扉を開いた。
地下一階は四階の廊下よりもさらに無機質で殺風景だった。
エレベーターのドアが開くとだだっ広い空間が広がっており、床も壁もコンクリートがむき出しになっている。
部屋の隅にはトイレらしき扉や掃除道具でも入っていそうなロッカーがいくつか設置されており、空調や室温を調整する機材も一通りそろっている。
「生徒会室とはずいぶん違うな。すげえ地味だ」
「あの部屋は私の趣味よ。去年生徒会長に就任した時に改装したの」
役員は部屋を自由に使えるとか言っていたが、リフォームまで自由なのかよ。
さらりと言っているが、あの部屋に一体幾ら使ってるんだよ、この会長。
「ましろ、リング作って」
諏訪先輩は一同の一番後ろをゆっくりとついてきていた雪村先輩にそう声をかけ、烏丸先輩にはなぜか加湿器のスイッチを入れるよう指示した。
「え、やだ、疲れる……」
雪村先輩は嫌そうに首を振ったが、諏訪先輩が「おーねーがーいー。リングあった方が盛り上がるでしょ!」と駄々をこねると不承不承頷いた。
「それじゃあ叶、それに大地君、準備はいい?」
諏訪先輩の言葉に頷こうとすると、そっと猫柳が耳打ちしてきた。
「大神君、烏丸先輩は本当に強いです。まずは距離をとって……!」
と、そこで俺と猫柳の間に刀の鞘がずいっと割り込んでくる。
「持っていてくれるかネコメ」
差し出された刀を猫柳は返事もそこそこにおずおずと受け取る。
「無意味なことをするな、多少の助言でどうこうなるものじゃないことはお前にも分かるだろ」
そう言い残してだだっ広い部屋の中央に向かう烏丸先輩を見て、東雲が不服そうな声を上げる。
「烏丸先輩ってとっつき辛くてあたし苦手なんだよね~。やっつけちゃってよ、大神くん」
ぶすっと憎まれ口をたたく東雲に、俺は笑みで応える。
「安心しな。ただのケンカなら、俺も自信がある」
グイっと肩の筋を伸ばしながら烏丸先輩の後に続く。諏訪先輩の膝の上で眠るリルとの距離は二メートルちょい。立ち回るならこれくらいの距離は余らせておいた方がいい。
「それじゃあ、リング、作りますね」
先ほど諏訪先輩にリングを作れと言われた雪村先輩がゆっくりと前に出る。そしてロープやポールを取り出すでもなく、ゆっくりと両手を広げた。
「いき、ますよ」
そういって雪村先輩が眠そうにしていた赤い瞳をカッと見開いたと思うと、広げた両手からパキパキと音を立て、真っ白い冷気が放出されていく。
「な、さ、寒っ⁉」
部屋中の気温が一気に下がり、吐く息まで白くなってしまう。
加湿器から溢れていた水分が凝縮され、俺と烏丸先輩を中心にして氷の柱が四本形成される。約四メートルの間隔を空けて立つ氷柱同士は細い氷で繋がっており、まさに氷で出来た『リング』を作り上げた。
「すっげえな、雪村先輩! 氷の魔法か?」
異能といえば妖蟲や猫柳と鎌倉のような変身しか見たことのない俺は思わずテンションが上がる。こんないかにも魔法っぽい魔法があるとは思わなかった。
「この国では魔法とは呼ばん、『異能術』と呼ぶ」
テンションの上がった俺に烏丸先輩が冷静にそういう。
「異能術?」
読んで字のごとく異能の術なのだろうが、何だか『魔法』より味気なく感じてしまうな。
「それに、私は、異能使いでは、ないので、異能術は、使えない」
雪村先輩はフルフルと首を振り、「疲れた」と言ってコンクリートの床に座り込んでしまう。
「私は、半異能、お母さんが、雪女」
眠そうに赤い目を擦りながらそう言う雪村先輩に俺は瞠目する。
半異能、確かそれは異能生物とのハーフのことだ。しかも雪女とは、日本でも有名な雪の妖怪だ。
「雪女って、あの雪女? あの有名な……」
「ましろのことはいいから、早く始めなさい!」
雪村先輩のことが気になった俺だが、いろいろ聞く前に諏訪先輩の言葉に遮られてしまう。正直雪村先輩のことが気になってしょうがないのだが、眼前の烏丸先輩はすでに臨戦態勢だ。
「雪村のことは後で本人に聞け。構えろ、大神」
両手を開いて腰を落とした烏丸先輩はそう言い放った。雪村先輩のことは気になるが、それは後だ。
「ルールはさっき言ったとおり、異能と武器の使用禁止。相手に骨折以上の怪我を負わせるのも禁止」
諏訪先輩の宣言を聞きながら、俺は烏丸先輩に応じるように腰を落とし、一考する。
烏丸先輩との距離は約一メートル、一息に詰められる距離だ。
「勝敗は気絶するか、降参すること。そしてリングから出ても負けとします」
猫柳はさっき距離を取るよう俺に助言してきた。烏丸先輩もそれを聞いていたはずだ。
(つまり、狙うのは……)
諏訪先輩が右手を挙げ、勢いよく振り下ろす。
「用意……スタート!」
俺はその宣誓と共に、一気に駆け出す。
(先手必勝‼)
烏丸先輩は猫柳が俺にした助言を聞いていた。つまり俺が助言の通り距離を空けると思っているはずだ。
だからその裏をかいて、一気にカタを付ける。
距離を詰めながら体を沈め、回し蹴りの要領で足払いを掛ける。
「ッ⁉」
しかし俺の回し蹴りが足に触れる寸前、烏丸先輩の両足が宙に躍った。
(読まれた⁉)
烏丸先輩は後方の床にバク転の要領で手をつき、手首を捻って独楽のように回転しながら俺の顎に蹴りを入れる。
「がっ⁉」
アクロバティックな、曲芸のような動きに完全に意表を突かれた。
蹴り自体は軽かったが、顎に入れられたのがキツイ。頭が揺れるような眩暈に襲われ、身体が硬直する。
痛烈な一撃、奇襲が失敗したことで完全に隙を作ってしまった。
すぐに次の攻撃が来ると思ったが、眩暈が収まるまで守りの態勢を取ることもままならない。
やられる、と思ったが、なぜか追撃は来ない。
「悪いが、すぐには終わらせないぞ」
烏丸先輩は立ち上がり、頭を振って眩暈から立ち直る俺を悠然と見下ろす。
「な、んで……?」
「お嬢様に言われているんだ、すぐには終わらせるなとな」
烏丸先輩はそう言ってゆっくり構える。
仕切り直しだ、と言わんばかりのその態度に俺は眼を細める。
(あの女、どういうつもりだ?)
俺を従わせたいだけならそんな命令をする必要はないし、そもそも俺を従わせたいだけならこんな戦いなんてお膳立てせず、借金を突き付けるだけでも事足りるはずだ。
(何が目的なんだ?)
チラリと視線を諏訪先輩に向けると、諏訪先輩は頬杖をついたままつまらなそうに俺たちを見ている。
「どこを見ている?」
「⁉」
烏丸先輩は言葉と同時に手刀を振るってくる。
俺の首元を狙って振るわれた手刀は皮膚を掠め、チリっと肌を焼く。
反撃のために顎を狙って右手で掌底を放つが、烏丸先輩は当たり前のように躱し、逆に腕を取られてしまう。
「⁉」
取られた腕を振りほどこうと力を籠めるが、ピクリとも動かない。
「な、んだ、こっの……‼」
渾身の力を右腕に込めても、烏丸先輩を一歩も後退させることが出来ない。
身長は俺の方が高い、つまり体重だって俺の方が重いはずだ。体重に差があれば俺の方に分があるというのに、何かに縛り付けられたように俺の身体はその場に縫い付けられた。
烏丸先輩が俺の手を拘束しているのは、左手の親指と中指の二本だけ。その二本を俺の右手首に回しているだけだ。
「い、異能か……⁉」
不可思議な力に、俺は烏丸先輩が異能を使っていると確信した。しかし、先輩はゆっくりと首を振る。
「ただの体術、柔術だ。お前のケンカとは違う、武術だよ」
そういって烏丸先輩は一歩、距離を詰める。
「っがあ⁉」
込められた力から逃れようとすると、ガクン、と自然に床に膝をついてしまう。
右腕から伝わる力に全身を拘束され、俺は左腕以外を一切動けなくされてしまう。
膝は床から離れず、右腕はピクリとも動かない。
唯一自由に動く左腕を振るが、烏丸先輩はひらりと俺の腕を躱してそのまま関節を決めにくる。
「……まだこの程度か」
ボソッと、諏訪先輩がそう呟くのが聞こえた。
烏丸先輩はギリギリと腕に力を込め、俺の右腕は悲鳴を上げる。
「異能じゃ、ないってのかよ、これが……⁉」
指二本で完全に拘束され、俺は床に抑えつけられた。
ケンカの経験は豊富な方だが、こんな不可思議な技は受けたことがない。
「……俺たちの一族はこの鬼無里の近隣の里に根付いていた」
俺を床に縫い付けたまま、烏丸先輩はそう言った。
俺は耳だけを烏丸先輩の言葉に傾け、床に付いた左手に力を込める。
「異能術を身に着け、城の君主に仕え、術を振るっていた」
込めた力は俺の身体を持ち上げることはなく、烏丸先輩が体重を傾けるとその方向に流れていく。
「あまりにも活躍し過ぎたせいもあり、本来あってはならない歴史にまで名を残してしまったがな」
(歴史に、名を遺した?)
この鬼無里の近辺にあり、歴史に名を遺した異能の一族。
不可思議な体術を駆使し、魔法のような術を扱う異能集団。
この辺りでは有名な伝説だ。あまりにも有名すぎてテーマパークまで作られるほどに。
「へえ、驚い、たな。実在したのかよ……」
関節を決められ、脂汗を滲ませながらも俺は精一杯の虚勢を張る。
首を捻って顔を見上げると、烏丸先輩は実につまらなそうに俺を見下ろしていた。
その顔に苛立たなかったといえば嘘になるが、驚きと興奮の方が勝ってしまう。
男子たるもの、皆一度くらい憧れたことがあるからな。
「あんた、忍者かよ?」
・・・
忍者。超人的な身のこなしと忍術を用いて日本の歴史に名を遺した、世界的に有名な隠密集団だ。
忍者が異能者で、忍術が異能術だとしても今更驚きはない。
鬼無里と同様にすでに合併されて同じ市内になっているが、近隣の戸隠という土地には忍者のテーマパークがあるほどだ。
「叶、もういいわ」
組み伏せられたまま動けない俺を見て、諏訪先輩はつまらなそうに烏丸先輩に指示を出した。
「はい、お嬢様」
烏丸先輩はそう言うと組み伏せたままの俺をズルズル引きずり、氷のリングから放り出そうとする。
「……さ、せるかよ!」
俺を引きずるために拘束が緩んだ瞬間を見逃さず、烏丸先輩にしがみつく。
抱き着くように足を烏丸先輩の胴体に回し、左手を首に回す。
「往生際が悪いな」
捕まれていたままの右腕を操られ、俺の拘束はあっさり解かれる。
そのまま腕を振り回され、背中からコンクリートの床に叩きつけられる。
「……っが⁉」
肺から空気を押し出され、衝撃に呼吸が止まる。
そのままのしかかるように腕で首を抑えられ、体重を掛けられる。
「面倒だ、このまま落とすか」
右腕は抑えられ、左手は先輩の背中を叩くがうまく力が入っていない。
「……ッ⁉」
気道を潰され、呼吸困難に視界が狭まる。
四肢からもどんどん力が抜けていき、指先が小刻みに震える。
「もう寝ろ。お嬢様の戯れに本気になるな」
失望したような物言いに、薄れていた意識が覚醒する。
「……めんな」
「何?」
ままならない呼吸で、それでも言葉を紡ぐ。
精一杯の呼吸で先輩に暴言を吐いてやる。
「舐めんな、女顔……」
「貴っ様……!」
つまらなそうにしていた先輩の顔に、動揺の色が走る。
先輩には何の恨みもないが、バカにされたまま、見下されたままあっさり負けを認められるほど俺は大人ではない。
せめて一矢報いてやろうと抑えつけられた右腕に力を込める。
「二度と言うなと、言ったはずだ」
手首に万力のような力が込められ、関節が悲鳴を上げる。
今にも折れそうな右腕に、それでも力を込める。
「こ、のまま、手ぇ折れたら、あんたの負けだぜ?」
「な⁉」
俺が骨折したら烏丸先輩の負け、そういうルールだった。
この際それでもいいとニヤリと笑ってやると、烏丸先輩は一瞬たじろいだ。
「おっらあああああ‼」
ドクン。
腕の筋が切れそうなほど力を込めてやると、不思議と痛みが薄れていった。
ドクン。
頭の奥からじわりと何かが滲んでくるような、不思議な感覚。
ドクン。
四肢には不思議と力が満ちていく。
「お、おい、貴様⁉」
動揺する烏丸先輩に、拘束を振りほどいた右腕を振るう。
しかし右の平手が烏丸先輩の頬に触れる寸前、俺の腕は動かなくなった。
「な、なんだ⁉」
見ると、腕には何か糸のようなものが巻き付いている。直径一ミリにも満たない細い糸だが、何重にもぐるぐると巻き付いており、俺の腕をギリギリと締め上げている。
「そこまでだよ、大神くん」
俺を呼ぶ声は、東雲のものだ。
声のした方に顔を向けると、東雲が普段のふざけた雰囲気を消し、凛とした表情で俺を見ていた。その服の袖からは糸が伸びており、俺の右腕を拘束している。
(糸? 東雲の異能か?)
訳の分からないことを言いながら邪魔をする東雲の拘束を解こうと力いっぱいに引っ張るが、糸は伸縮性に優れているようでゴムのように伸びる。
「邪、魔すんな、東雲ぇ‼」
叫ぶ俺をよそに東雲がきゅっと手首を捻ると、俺は東雲の方に引っ張られていく。
そのまま細い氷を砕いて、リングの外の床に仰向けに転がった。
(場外……?)
天井を仰ぎながら呆然と頭の中で呟く。
「ふざけんな! 何で邪魔しやがった、東雲⁉」
立ち上がり、勝負の邪魔をした東雲を怒鳴りつける。
今俺は腕に力が戻り、あと少しで起死回生の一撃を見舞えるところだった。東雲の邪魔が入らなければ勝てる勝負だったのだ。
「大地君、あなたの負けよ」
車椅子のタイヤを回して俺の目の前にやってきた諏訪先輩はスカートのポケットからケータイを取り出し、カメラを起動して俺に向け写真を撮る。
「何のつもり……⁉」
撮ったばかりの写真を見せてくる先輩のケータイを覗き込むと、そこには当然俺が映っていた。
写真の中の俺は動揺しているうえ、頭には見慣れないものが乗っていた。
「な、なんだこれ⁉」
慌てて頭の上に手をやると、そこにはモフっとした感触があった。
リルのような、獣の耳が。
「異能の使用、あなたの反則負け」
ニヤリと笑う諏訪先輩に、俺は体中の力が抜けていくのが分かる。
こうして俺は、高校生活一日目にして、生徒会長の犬に成り下がった。
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