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アイスコーヒー
しおりを挟む「あなたは26歳で死にます」
渋谷の占い師はそう言った。あれは夫が23歳の時。
占いなんて曖昧で誰にでも起こりそうなことを言うものだと思っていたのに、ハッキリと断定されたことで彼はそれを信じた。
「どうせ俺は死ぬから」
線が細く胃腸が弱く、デートで食事をしたら帰りに必ず公衆トイレに駆け込む人だった。30分もトイレに篭りきりの彼を待ちながら夜の雑踏を眺めていたあの頃。
彼が無事26歳の誕生日を迎えた翌年、私たちは結婚した。相変わらず胃腸は弱く、何かあるとすぐに病院に駆け込んで検査を受けたがる夫は大きな病気をすることも無く、結婚生活30年が過ぎようとしていた。
その間に息子が生まれ、そして成人して家を出て行った。定年も眼前に迫った今、二人きりで穏やかに暮らす私たち。
「どうせ俺が先に逝くから」
残った私に不自由がないようにと夫は自分に死亡保険を多く掛けている。
「俺が死んだら優雅に暮らせるぞ」
「そんなこと言わないで、長生きしましょう」
いつも私はそう答えるけれど、本音を言えば早くそうなればいいなと思っている。この30年、私にだって恨み節はたくさんあるのだ。
「家に入って俺を支えて欲しい」
そう言われたから専業主婦になったのに、舌の根も乾かぬうちに「主婦は気楽でいいよな」と嫌味を言うようになったこと。
私が熱を出しているのに、一歳半の息子と私を置いて徹夜麻雀に行ったこと。
スーパーで買った千円の手袋を繕いながら何年も使っていた私に気がつきもせず、職場の女の子に一万五千円もする手袋をプレゼントしたこと。
さすがに高過ぎると文句を言った時の夫の台詞を私は忘れない。
「俺の仕事を支えてくれてる子なんだ。自分に役に立つ人間には良くしてやりたいだろう」
それを聞いて、スッと冷めた。家であなたの子供をワンオペで育てている私は、あなたの役に立つ人間ではないということなんですね、と。
もちろん言いはしなかったが。
世の男性には言っておきたいが、子育て中に妻を放っておいたくせに年を取ってから取り返そうとしても無駄である。既に妻の愛はゼロ、もしくはマイナスに振り切れているのだから。
私も最近まで夫が先に病気になるだろうと考えていた。私は夫と違い酒もタバコもやらない。食事も健康を考え薄味にしている。(夫は味見もしないで大量に塩を振りかけて食べる人だ)
病気になるなら夫だろうし、実際、彼は血圧もコレステロールも高いので薬で調整している。
夫が先立ったらオーストラリアに住んでいる友人のところに遊びに行こう。観劇や映画も行きたい時に気兼ねなく行こう。好きな服を来て街を歩こう。そんな楽しい余生を思い描いていた。
「ステージ4の肺癌です」
医者にそう告げられるまでは。
夫はあれから元気がない。私のほうが泣きたい気持ちなのに。私が気をつかわなきゃいけないってどういうこと。
自分勝手な性格が祟って、夫には友達がいない。趣味もない。休日は私にべったりだ。どこへ行くにもついてくるし、元々話し好きなので一日中喋りかけてくる。そんな人なのに、定年後、私がいないと話す相手が一人もいない。見たくない現実に今さら気がついたのだろう。
「俺が先に逝きたい」
暗い顔でそう呟く。
あーあ、私も後から逝きたかったよ。人生の最後くらい好きなことをして過ごしたかった。このまま暗い顔の夫を慰め続けなきゃいけないなんて。
家のことも何も出来ない、お金の在処も知らない、子供とも上手くコミュニケーションが取れない、そんなあなたを置いて逝くことになるとは思わなかった。
私を大事にしなかった罰が今当たっているんだよ。
そう思うと後ろ暗い喜びが私を包む。手付かずのアイスコーヒーのグラスについた結露が音もなく滑り降りていくのを、夫はただ眺めていた。
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