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姉の居ぬ間に
歓談
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けっきょく姉たちが帰還したのは予定より一日遅れであった。なんでも帰路の途中、温泉に立ち寄ろうと地方交通線に乗り換えたのだという。夏休み中のシギたちはもちろん、アツミさんともども休暇には余裕があったこともあり、姉の提案にみな賛同したらしい。
そうして姉たちが海水浴から帰ってきて二日後、シギたちが遊びにきた。
姉やアツミさんと同じく、入念な日焼け止めの効果か、みんな目立った日焼けのあとは見られなかった。
ロクは予定より早く夏休みを切り上げて仕事に復帰した姉の不在を一大事のようにを嘆いていたけれど、しばらくするとたっぷりと目に焼きつけたという姉の肢体の素晴らしさを熱心に語っていた。
シギに誘われたのか、今日は三苫さんもやって来た。キャミソールにデニムのちょっと食い込み具合がするどいホットパンツという挑発的な格好。一方のシギはミニスカートに半袖のブラウスを合わせていた。フロントにひだの連なるたギャザー仕様のそれは白さやパフスリーブというデザインも手伝ってすごく新鮮に見えた。まるでむかしの学校の先生のようで、活動的な服装のイメージが強いシギもこういう格好をするようになったんだなと不思議な心持ちになってくる。
「さっそくお手本にしたかー」
リビングの三人掛けソファーに身を沈めたロクは三苫さんの格好を盗み見しながら、したり顔でいう。
「お手本ってなに」
「ナナミさんから見せられなかったのか、海水浴の写真」
*
「そうそう、海水浴の写真があるわよ」
帰宅して間もなく、姉が持ってきたのはピンクベースの風呂敷であった。こんな大層な渡し方は姉の専属カメラマンを自認する五十棲君以外考えられない。
「きれいな柄でしょう。市松寄せ裂っていうのよ」
確かに風呂敷にしては垢抜けた印象がある。解くと出てきたのは桐箱。ご丁寧に赤い房紐まで巻かれている。開けると、さらに淡いピンクの袱紗が出てきた。写真に一つに値打ちものの骨董でも包むかのような扱いは五十棲君らしいといえばらしい。
最初に出てきたのはピンクのビキニ姿の姉の写真だった。サイドが紐のシンプルな水着は姉のお気に入りらしく、色違いを何枚も持っていたはずだ。いろんな角度から姉の肢体を納めた写真には誰も写り込んでおらず、絶妙なアングル加減はさすが五十棲君といったところ。ただ、正直にいって実姉の水着姿は見ていて楽しいものでもない。もちろん、そんなことは口にできるはずもなく、二十センチ以上は余裕でありそうな桐箱いっぱいに詰まった写真をめくるひとときは軽い拷問ですらあった。
「……………あ」
途方もない量の姉の写真が続くのかと絶望に打ちひしがれていると、白いビキニ姿の羽二生さんの写真が出てきた。姉とお揃いのシンプルないわゆる三角ビキニを着た羽二生さんは照れくさいのか若干、頬が紅潮していた。
「せっかくだから五十棲君に撮って貰ったの」
なるほど、姉以外の対象には興味のない五十棲君でも、姉の意向ならば喜んでシャッターを切るであろうことは想像に難くない。手を後ろ手に組んではにかむ羽二生さんや後ろ姿で振り返っている羽二生さん。さり気なく食い込んだフルバックのヒップがすごく……すごくセクシーだった。
「きれいでしょ、カヤノちゃん」
声に驚いて顔を上げると、姉が目の前にいた。思わぬ展開にときめいていたせいで弛緩しまくった顔を見られたんじゃないかと嫌な汗が噴き出しかける。
「カヤノちゃんにはあなたに見せることはちゃんと断ってあるから、気兼ねせずに堪能していいのよ」
意味あり気ないい回しで僕の頬を撫でると、姉はバスルームに向かった。久しぶりの家での入浴がうれしいらしくかなりご機嫌だ。
姉以外の写真は羽二生さんのショットをきっかけにぞくぞく出てきた。
黒地に白の水玉のタンキニ姿のシギや腰布を巻きつけたクラシカルな黒のワンピースといういかにもらしい水着の左衛門三郎のお嬢様、フリル付きのオレンジのビキニは三苫さんだ。サファリルックというのか探検家みたいなこれまたらしい格好は三次。
アツミさんはエスニック調の紐ビキニだった。これ以上はないっていうくらいすごく恥ずかしそうにレンズを見つめている。なかなかポーズを決めようとしない親友にじれた姉だろうか、後ろを向かせるような腕が伸びていた。まるで食い込みを見られまいとするように手のひらでヒップを隠している写真もあった。もっとも次の写真では姉によってささやかなガードも解除されて豊満なヒップが露わになっていたけれど。
翌日の写真なのか、次に出てきた羽二生さんのビキニは黄色だった。シンプルな紐タイプ。やっぱりすごく似合っていた。驚いたことに続いて黒のビキニ姿で納まっていたのは三次。それもスポーティなものじゃなくて、羽二生さんのと似たようなセクシーな紐タイプ。本人には余計なお世話だと睨まれそうだけれど、彼女も年頃の女子なんだなとちょっと安心する。
地元の人だろうか、へそ出しのぴっちりとしたTシャツとハイレグのホットパンツ姿の女性の写真もあった。お皿を手にしているところから見て、海の家の店員さんかもしれない。さらにこの人の関係者なのか、似たような格好をした僕ぐらいか少し下と思われる見るからに元気のよさそうな子や白いブラウスに薄い生地のミニスカートを合わせた清楚な感じの少女の写真もあった。このふたりは親友同士なのか仲がよく納まっている写真が何枚もある。そのあとは羽二生さんと同じく翌日なのか赤いビキニの姉の写真がごっそりと続いた。
と、意味ありげに薄い和紙を挟んで室内と思しき場所の写真が出てきた。まるでここからは特別な写真とでもいいたげな演出である。対象の姉のビキニがピンクということからして前日らしい。背後にロープを張り巡らせた舞台のようなものが写り込んでいる。
…………これって。
嫌な予感はあっさりと的中し、どういう流れなのか姉はリングシューズを履きバンテージを巻いていた。そしてうれしそうにピンクのグローグを抱えた姉はおそらく羽二生さんと思われる手によって武装を完了していた。
姉がボクシングに長けているのは僕以外はきっと知らない、いわば秘中の秘だ。他にここに誰がいたのか分からないけれど、写真を撮っている五十棲君はともかく、羽二生さんにはかなりの衝撃的な事実だったんじゃないだろうか。
拳をつき合わせる姉、リングに上がる姉、対戦相手だろうか話をしている姉。おそらくは無茶な行動にパニックになっているのか羽二生さんを宥めている姉は一方で興奮しながらシャッターを切っているであろう五十棲君に向かって笑顔で手を振りウインクまでしていた。挙句、対戦相手にお辞儀まで見せるところは姉らしいけれど緊張感はまるで皆無でこれは何かのお遊びイベントなのかイマイチ判然としない。
対戦相手は年上だろうか、赤いグローブを装着したその男性は精悍な顔つきで締まった身体はまさにボクサーといった感じで、冗談抜きで強そうである。
姉はどういう意図か一向にパンチを放つ素振りは見せず、コーナーに追い詰められクリンチで回避した以外は悠然と攻撃をかわしているだけのようである。時折り見切れている男性の顔がどんどん険しくなっていくのが分かる。姉の実力というのもは子供の頃からつき合わされているスパーリング以外でしか量れないけれど、経験者と思しき相手に被弾しないところをみると、やはり一ナナミという女性のボクシングの腕前は尋常じゃないんだなとあらためて恐ろしくなってくる。
しかし煽り気味にブレることなくしっかりと連写されているのは五十棲君の腕前がなせる技なのか、彼の嬉々たる絶叫が聞こえてきそうだった。
残りの枚数がまだまだあるのでまさか全部がボクシングをしている姉の写真なのかと呆れていると、ダッキングでフックをかわした姉に相手が打ち下ろしを放っているシークエンスになった。おそらく相手はボディを犠牲に姉を粉砕するつもりだったのだろう。しかし姉はそれには食いつかずに、打ち下ろしをぎりぎりでやり過ごして、代わりに自分の右を相手の顔面に食い込ませていた。対戦相手の吹き飛ぶ身体と悠然とコーナーに戻る姉の対比は嫌になるくらい残酷な現実を突きつけている。
写真はすべてが終わり、半べその羽二生さんを慰めている姉がふたたび誰かと話している場面になった。まさかなと危惧していると、果たしてふたたび対戦するようであった。
姉がどれくらいの力を出していたのか知る由もないけれど、あのインパクトの瞬間や殴り飛ばされている様子からさっきの人が第二ラウンドに突入する余力は残ってはいないであろうことは想像に難くない。
見切れている相手はやはりさっきの人とは別人である。青いグローブをはめたその人は赤いグローブの人よりも髪が長くて、同性の目から見てもかなりかっこいい人だった。
違うのは相手だけではない。姉は最初から本気のようで、相手の連携をかわしてショートを打ち込んでいる。ヒットしたものの、ダウンは奪えずに相手の人もすかさず反撃に転じていた。静止画なのに、すごく濃密な打ち合い、本気の殴り合いだということが分かる。まさに手に汗を握る感覚であった。どんどん表情が硬くなっていった赤いグローブの人とは対象的にこの人はすごく楽しそうだった。五十棲君も乗ってシャッターを切っていたことであろう。
姉の右が青いグローブの人の顔めがけて打ち込まれていた。またKOなのかとドキドキしながら見ていくと、姉のピンクの拳は寸前で止まっていた。その場にいない以上、何が起きたのかは分からない。ラウンドの終了かとも思ったけれど、ふたたび羽二生さんを慰めている写真を最後に姉が男性相手に拳を揮っているシーンはもうなかった。
*
ロクはその中に海の家で撮ったのがあっただろと含み笑いを浮かべた。桃海さんとかいうけっこう過激な格好の店員さんが写っていた写真のことらしい。
「あの人のことすごく気にしていたからな、三苫ちゃん。参考にしたんだろうさ」
「何のために」
「そりゃあ………」
そこまでいうと、チラッと僕を見、シギとお茶の準備に勤しんでいる三苫さんをやはり見てロクが意味あり気にため息をついた。
「三苫ちゃんの水着姿、見ただろ」
オレンジのフリルのついた、生地の面積の少ないビキニだった。
「生で見たら、もっとすごいんだぜ」
なんとも下種ないい回しをする。
「三次のビキニもあったろ。驚天動地を地で行くってのはああいうののことだろうな」
確かに彼女がああいう水着に着替えたのには驚いた。前日のサファリルックが本来の三次であろう。
「あいつも恋するオトメってことだな」
ロクにいわせると、彼女は五百旗頭君に惚れているということになっていたが。
「本当なのか、あれ」
「本人が認めたわけじゃないし、仮に問い質したとして答えないだろ。ただ、あの五百旗頭が近くに居るとあいつの挙動がおかしくなるのは事実だ。常時強固なSPモードに乱れが生じるんだよ」
シンプルな無地のTシャツに程よいシワ加工のドレープTシャツを重ねたロクは口調に幾分かのシリアスを乗せてそう断言した。
シギと三苫さんのそつのない動きでお茶の準備が整った。
「ナギも来りゃよかったのにな、何で来なかったんだよ」
揚げせんべいを噛み砕きながら、不思議そうな顔をする。確かにアツミさんの提案で姉から話が広がり、シギ経由で古くからの友人たちが参加する中、僕の不参加は不自然極まりないないかもしれない。
「海に行ってる間、何していたんだ?」
ざくざくっと甘じょっぱいせんべいを美味しそうに消化していく。ロクは甘いものが苦手なわけではないけれど、選択肢がある場合、せんべいやポテトチップスみたいなものに手を出す傾向がある。シギと三苫さんはバター風味豊かな四角や丸いビスケットを頬張っていた。女子がこういうものを食べている様はすごく絵になる。
「まさか、デートでもしていたのか?」
ずずっと麦茶を啜ったロクが口を歪めた。
えっと顔を上げたのは三苫さん。シギは満月みたいなビスケットをさくさくいわせながら、話を聞いていた。
初日は十鳥さんと上四元クシナの、本人たちいうところの殴り合いの喧嘩を見届けたあとに食事をし、二日目はシーナさんとティナさん、上四元クシナとプールに行って十五夜さんや彼女の家族に会った。三日目は雰囲気のいい喫茶店を見つけて、そこであのアオイさんという人とふたたび出会ったんだった。最終日はやはり感じのいい喫茶店に入ったら、思いがけず十鳥さんと遭遇した。顔見知りだけではない。プールではトナベさんとツイヒジさんという女子ふたり、あの喫茶店ではイロツキさんと何かいいたげだったもう一人のウエイトレスさんコンビとも出会った。ずいぶんと濃密な四日間だった。
「………なんだ、本当にデートだったのかよ」
ロクの声に我に返る。何枚目か、揚げせんべいを手にじっとこちらをうかがっている。
シギは不思議そうにこちらをみていた。三苫さんはどういう着地をすればいいのか計りかねているといった風に複雑な表情を見せている。
「そういう形式ばったものじゃないよ」
生地の片面にチョコレートをコーティングした矩形のパイをひと口で放り込んだ。口内にしみわたるチョコの恩恵を受けていない片面の生地に施されたシロップの甘さがちょっと今の僕には余計なオプションであった。
「十鳥さんとでも一緒だったか」
何気ない言い方ながら、そのするどさには恐れ入る。わざわざ話すことではないけれど、かといって隠すようなことでもない。ここは補足しておこう。
「あと上四元さんもいたよ」
「……ほう!」
ほんのりと小バカにした風に顔をほころばせつつ、感心したように声を上げるロクにちょっぴり後悔に苛まれた。
「三人で何をしたんだ、ん?」
「特別なことはこれといって」
「じゃあ、特別じゃないその内容とやらを聞かせてくれよ」
あの日、喧嘩にかこつけたボクシング、いや、ボクシング名目の喧嘩を見届けるために件のビルまで出かけていったことをいえば、いろいろと新たに説明しなくてはいけなくなる。煩雑だから、というよりもあれは秘匿しておきたい事情だ。
「……食事に行ったんだ」
嘘はついていない。紛れもない事実だ。ありもしない事柄を付け加えるのはつまりは嘘なのだけれど、これは事実から贅肉を削ぎ落としただけである。
「何食べたの?」
食いついたのはシギ。幼なじみの食い意地に感謝しつつ、あの日のメニューを想起する。とはいえなんだか利用しているみたいでちょっと自己嫌悪。
「上四元さんはアボガトと海老のサラダにオニオングラタンスープ、十鳥さんはメカジキのグリル膳、だったかな。僕はクラブハウスサンドをセットで」
シギはふむふむと鼻を鳴らしながら興味深げに聞いていた。どうせなら、ここは幼なじみの食欲に応えるべきであろう。
「今度、行ってみる?」
シギはうれしそうに頷くと、さっきからずっと手にしていた風船を手放して途方に暮れる女の子みたいな表情をしている三苫さんに一緒に行こうと微笑みかけた。
「……い、いいんですか?」
「もちろん、かまわないよ」
シギと僕を交互に見やる三苫さんに首肯してみせる。新たな風船を手にした少女のような笑みでふたたびビスケットに取りかかった。停滞していた時間が動き出す心地よさに浸っていると、ふて腐れたような声が聞こえてきた。
「……なんだ、俺だけ除け者かよ」
「ロクちゃんも来たかったら来ていいよ」
「………………」
シギの天然フォローにロクは押し黙ったまま、揚げせんべいの消化に専念していた。
「イズミちゃんも誘っていい?」
八百板さんは以前、電器量販店で久しぶりに見かけて以来だ。シギのいちばんの友人といっていい八百板さんとは小中高と学校が違うにも関わらず今でもよく遊んでいるようだ。拒否する理由はもちろんない。
「でも、イズミちゃん、最近は学校の先輩と一緒のことが多いからなあ」
どこかさみしそうにつぶやくシギを見つめながら、八百板さんはずいぶんと長いこと剣道をしていたけれど、高校進学と同時にやめたと聞いたことを思い出した。
「先輩って学校の? 部活はしてないんだよね」
「うん。せっかく続けていたのに、もっと学生生活を楽しみたいからって何の部にも入らなかったの。ナギちゃんと一緒だね」
胸がチクッとする。シギに他意はもちろんないだろう。
「よく瓊紅保に遊びに行ってるんだよ。同い年くらいの女の子が集まるイベントみたいなのにお呼ばれしてるんだって」
瓊紅保とイベントという単語に引っかかりを覚える。気にし過ぎだと思うし、実際そうであって欲しい。
「先輩ってどんな人? シギも会ったことあるの」
平常を装うべく言動に焦りを乗せないよう、極力自然に切り出す。願わくば、知っている名前が出ないことを祈りたいところ。
「うん。トサグシさんってカチューチャでね、こうやって髪の毛を留めて後ろに流している人だよ。ちょっと怖そうだけど、実際に話してみると、すごくいい人」
ジェスチャーを交えて話す幼なじみに安堵しながらも、全面的に不安が払拭できる状況じゃないことも感じていた。瓊紅保のマンションやプールで出会った人たちのことを思うと、人脈はそれなりにあるような気がする。トサグシさんという人がそうじゃないとはいい切れないけれど、もちろんまったくの無関係なことだってあり得はする。
瓊紅保=女子の集まりというだけで過敏になり過ぎている嫌いはある。そもそも懸念材料であるナスコンというものが具体的に何をしているかなんて今のところ、僕にははっきりと分からないのだ。
「どうしたの?」
我に返ると、シギが顔を覗きこんでいた。
「なんだか深刻な顔してたぞ」
ロクまでこちらを見ていた。三苫さんは微妙な空気に飲まれたのか、ふたたびどう対処していいのか量りかねる表情を浮かべている。
「なんだ、ナギもその集まりに交じりたいのか」
ロクのなんていうことのない言葉に心の中に発生して揺らめき続けている憂慮を察知されたのではないのだろうかという焦りが無意味に僕を急き立てた。
「それはないよ。絶対、ない。こうしてみんなといる方が楽しいし」
意識するつもりはなかったけれど、まくし立てるような大声だったために、若干、場の空気が冷え込んだ気がした。
「………お、おう。そんなに強調しなくてもいいぞ。なんつーか、悪かった」
ドン引きしながら揚げせんべいに取りかかるロクを見ながら、後悔に襲われる。
「大きな声出しちゃって、ごめん」
「ナギちゃん、五十棲君の撮ってくれた写真、全部見てくれた?」
気まずさに消え入りそうになる空気を払拭するように笑いかけてきたのはシギ。あどけなさと芽生えはじめている大人っぽさがせめぎ合っている幼なじみの笑みは周囲の温度を上げるのに貢献していた。
「うん。シギの水玉の水着とか三苫さんのビキニとかすごく似合ってた」
そう口にした途端、三苫さんは真っ赤になり、シギはうれしそうに微笑んでいた。
「アイさんとアカネさんの写真もよかったでしょう? アカネさんってすごいんだよ。ボクシング習ってるんだって」
アカネさんというのは例の清楚な感じのする女の子のことらしい。
「びっくりだよなー。文系のお嬢様っぽい雰囲気なのによ」
感嘆するロクの気持ちはすごくよく分かる。ところでボクシングといえば、例のイベントシーンと思われるあの写真だ。
「ロクちゃんね、担架で運ばれたんだよ」
「………えっ?」
甘いビスケット群を立て続けに食べた反動か、じゃがいもの小さなリングスナックを放りながら、シギがいう。当のロクは渋面を作って口を曲げている。
なんでもボクシング経験のある赤湖さんという男性――おそらく姉と対戦した人――をノックアウトすれば賞品が貰えるというイベントにロクが参加、いいところ――当人はここを非常に強く強調していた――までいったけれど、そこは所詮、素人の限界、けっきょくノックアウトされてしまったのだという。ちなみにアカネさんはその赤湖さんの妹さんだそうだ。まさか兄妹でボクシングをやっているとは。海の家の店員さんの関係者かと思ったもうひとりの少女、アイさんは赤湖さんの友人である青川さんの妹で、兄たち同様仲良しらしい。青川さんもやはりボクシング経験者だそうだ。ひょっとすると、姉が対戦したもうひとりが青川さんなのかもしれない。
「ロクも参加していたんだ」
僕のつぶやきにロクが顔を上げた。
「……も、ってなんだ? あのイベントは俺しか参加してないぞ」
「いや、だって姉さんが」
そこまでいうと、ロクはああ、あれかと苦笑してみせた。
「ナナミさんが貰ったっていうボクシングのグローブ、見たんだろ? あれは俺に対するお詫びだな」
いまいち話が見えない。だって姉は写真を見た限りしっかりとイベントに参加、赤湖という人と一戦を交えた挙句、もうひとりの男性と続けて拳を合わせていたようなのだけれど……。
「ロクがノックアウトされたあと、どうなったんだ?」
「しばらくおねんねしてたんだよ」
親友はシギの解説に情けない顔を見せた。
「イベントの人たちに『おくざしきはひばんです』っていう海の家まで運ばれて、夕方くらいにやっと目が覚めたの」
「……奥座敷は、非番です?」
「七ツ役さん、おくしす・ひまんてす、です」
珍妙な店名に戸惑っていると、三苫さんがすかさず訂正した。女子ふたりのコントみたいなやり取りを見つめながら、姉がボクシングにチャレンジしたという事実を知っているのはひょっとして限られたメンバーだったのではないかと思い至る。
「全員でイベントに行ったんじゃないんだ」
シギによると、着替えたあとはすぐに別行動になったとかで、シギはひとしきり海で漂ったあと三苫さんと屋台巡り、左衛門三郎のお嬢様や五百旗頭君たちは定番のスイカ割りなどを楽しみ、アツミさんはパラソルの下でお留守番、残りのメンツは姉と一緒に行動、食事に訪れた海の家でイベントを知らされて参加となったらしい。つまりメンバー中、あの衝撃的な事実を知ったのはシギがいうところのしばらくおねんねしてたロクを除いて羽二生さんと五十棲君だけということだ。いや、五十棲君のことだ、姉のすることはなんでも受け入れるだろうから衝撃に値しなかったかもしれない。
「いいところまでいったたんだけどな」
ロクは心底、口惜しそうに天井を仰ぎ見た。
「相手がボクシング経験者ならハンデとかなかったの」
「ハンデもなにも、元から向こうは攻撃しないって前提だ。向こうが出来るのは防御だけで、手は一切出さないんだよ」
しかし、ロクはノックアウトされた。手を出さざるを得ない何かがあったのだろうけれど、結果的に未必の故意といえばいいのだろうか、悲劇が起きた。
「ナナミさんが着ていたビキニに合わせてピンクのグローブまでつけて頑張ったんだぜ? この夏最大の山場っつても過言じゃなかったのによ」
なるほど。姉がつけていたグローブはピンクだった。本来はされないはずの理不尽な結末に姉は静かに怒ったのだろう。ロクと同じグローブをつけて、おそらくはイベント用のルールを撤廃して本来のルールで挑み、相手を一発で沈めた。あの写真はそういうことだったのだ。そのことを知ればロクは感激するかもしれない。いや、憧れの女性の前でいいところをみせるつもりが、無様にキャンバスに沈んだ挙句、その憧れの女性に無念を晴らされるということは屈辱かもしれない。そうでなくともロクは年の割りに前時代的なところがある。最近はさしてめずらしくもないとはいえ、ボクシングをするような強い女性などはたとえ姉とはいえ、容認しないだろう。
大げさな物言いだけれど、期せずして解禁することになった姉の本来の姿。この尋常ならざる姉の側面は結果的に羽二生さんと五十棲君だけが知ることになったわけだけれど、むしろ好都合だったのかもしれない。
このあと海水浴の話や都合のいい日に遊びに行く予定を立てるなどして過ごし、みんなが帰る頃にはシギから聞いた八百板さんの先輩の話はもう忘れていた。
そうして姉たちが海水浴から帰ってきて二日後、シギたちが遊びにきた。
姉やアツミさんと同じく、入念な日焼け止めの効果か、みんな目立った日焼けのあとは見られなかった。
ロクは予定より早く夏休みを切り上げて仕事に復帰した姉の不在を一大事のようにを嘆いていたけれど、しばらくするとたっぷりと目に焼きつけたという姉の肢体の素晴らしさを熱心に語っていた。
シギに誘われたのか、今日は三苫さんもやって来た。キャミソールにデニムのちょっと食い込み具合がするどいホットパンツという挑発的な格好。一方のシギはミニスカートに半袖のブラウスを合わせていた。フロントにひだの連なるたギャザー仕様のそれは白さやパフスリーブというデザインも手伝ってすごく新鮮に見えた。まるでむかしの学校の先生のようで、活動的な服装のイメージが強いシギもこういう格好をするようになったんだなと不思議な心持ちになってくる。
「さっそくお手本にしたかー」
リビングの三人掛けソファーに身を沈めたロクは三苫さんの格好を盗み見しながら、したり顔でいう。
「お手本ってなに」
「ナナミさんから見せられなかったのか、海水浴の写真」
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「そうそう、海水浴の写真があるわよ」
帰宅して間もなく、姉が持ってきたのはピンクベースの風呂敷であった。こんな大層な渡し方は姉の専属カメラマンを自認する五十棲君以外考えられない。
「きれいな柄でしょう。市松寄せ裂っていうのよ」
確かに風呂敷にしては垢抜けた印象がある。解くと出てきたのは桐箱。ご丁寧に赤い房紐まで巻かれている。開けると、さらに淡いピンクの袱紗が出てきた。写真に一つに値打ちものの骨董でも包むかのような扱いは五十棲君らしいといえばらしい。
最初に出てきたのはピンクのビキニ姿の姉の写真だった。サイドが紐のシンプルな水着は姉のお気に入りらしく、色違いを何枚も持っていたはずだ。いろんな角度から姉の肢体を納めた写真には誰も写り込んでおらず、絶妙なアングル加減はさすが五十棲君といったところ。ただ、正直にいって実姉の水着姿は見ていて楽しいものでもない。もちろん、そんなことは口にできるはずもなく、二十センチ以上は余裕でありそうな桐箱いっぱいに詰まった写真をめくるひとときは軽い拷問ですらあった。
「……………あ」
途方もない量の姉の写真が続くのかと絶望に打ちひしがれていると、白いビキニ姿の羽二生さんの写真が出てきた。姉とお揃いのシンプルないわゆる三角ビキニを着た羽二生さんは照れくさいのか若干、頬が紅潮していた。
「せっかくだから五十棲君に撮って貰ったの」
なるほど、姉以外の対象には興味のない五十棲君でも、姉の意向ならば喜んでシャッターを切るであろうことは想像に難くない。手を後ろ手に組んではにかむ羽二生さんや後ろ姿で振り返っている羽二生さん。さり気なく食い込んだフルバックのヒップがすごく……すごくセクシーだった。
「きれいでしょ、カヤノちゃん」
声に驚いて顔を上げると、姉が目の前にいた。思わぬ展開にときめいていたせいで弛緩しまくった顔を見られたんじゃないかと嫌な汗が噴き出しかける。
「カヤノちゃんにはあなたに見せることはちゃんと断ってあるから、気兼ねせずに堪能していいのよ」
意味あり気ないい回しで僕の頬を撫でると、姉はバスルームに向かった。久しぶりの家での入浴がうれしいらしくかなりご機嫌だ。
姉以外の写真は羽二生さんのショットをきっかけにぞくぞく出てきた。
黒地に白の水玉のタンキニ姿のシギや腰布を巻きつけたクラシカルな黒のワンピースといういかにもらしい水着の左衛門三郎のお嬢様、フリル付きのオレンジのビキニは三苫さんだ。サファリルックというのか探検家みたいなこれまたらしい格好は三次。
アツミさんはエスニック調の紐ビキニだった。これ以上はないっていうくらいすごく恥ずかしそうにレンズを見つめている。なかなかポーズを決めようとしない親友にじれた姉だろうか、後ろを向かせるような腕が伸びていた。まるで食い込みを見られまいとするように手のひらでヒップを隠している写真もあった。もっとも次の写真では姉によってささやかなガードも解除されて豊満なヒップが露わになっていたけれど。
翌日の写真なのか、次に出てきた羽二生さんのビキニは黄色だった。シンプルな紐タイプ。やっぱりすごく似合っていた。驚いたことに続いて黒のビキニ姿で納まっていたのは三次。それもスポーティなものじゃなくて、羽二生さんのと似たようなセクシーな紐タイプ。本人には余計なお世話だと睨まれそうだけれど、彼女も年頃の女子なんだなとちょっと安心する。
地元の人だろうか、へそ出しのぴっちりとしたTシャツとハイレグのホットパンツ姿の女性の写真もあった。お皿を手にしているところから見て、海の家の店員さんかもしれない。さらにこの人の関係者なのか、似たような格好をした僕ぐらいか少し下と思われる見るからに元気のよさそうな子や白いブラウスに薄い生地のミニスカートを合わせた清楚な感じの少女の写真もあった。このふたりは親友同士なのか仲がよく納まっている写真が何枚もある。そのあとは羽二生さんと同じく翌日なのか赤いビキニの姉の写真がごっそりと続いた。
と、意味ありげに薄い和紙を挟んで室内と思しき場所の写真が出てきた。まるでここからは特別な写真とでもいいたげな演出である。対象の姉のビキニがピンクということからして前日らしい。背後にロープを張り巡らせた舞台のようなものが写り込んでいる。
…………これって。
嫌な予感はあっさりと的中し、どういう流れなのか姉はリングシューズを履きバンテージを巻いていた。そしてうれしそうにピンクのグローグを抱えた姉はおそらく羽二生さんと思われる手によって武装を完了していた。
姉がボクシングに長けているのは僕以外はきっと知らない、いわば秘中の秘だ。他にここに誰がいたのか分からないけれど、写真を撮っている五十棲君はともかく、羽二生さんにはかなりの衝撃的な事実だったんじゃないだろうか。
拳をつき合わせる姉、リングに上がる姉、対戦相手だろうか話をしている姉。おそらくは無茶な行動にパニックになっているのか羽二生さんを宥めている姉は一方で興奮しながらシャッターを切っているであろう五十棲君に向かって笑顔で手を振りウインクまでしていた。挙句、対戦相手にお辞儀まで見せるところは姉らしいけれど緊張感はまるで皆無でこれは何かのお遊びイベントなのかイマイチ判然としない。
対戦相手は年上だろうか、赤いグローブを装着したその男性は精悍な顔つきで締まった身体はまさにボクサーといった感じで、冗談抜きで強そうである。
姉はどういう意図か一向にパンチを放つ素振りは見せず、コーナーに追い詰められクリンチで回避した以外は悠然と攻撃をかわしているだけのようである。時折り見切れている男性の顔がどんどん険しくなっていくのが分かる。姉の実力というのもは子供の頃からつき合わされているスパーリング以外でしか量れないけれど、経験者と思しき相手に被弾しないところをみると、やはり一ナナミという女性のボクシングの腕前は尋常じゃないんだなとあらためて恐ろしくなってくる。
しかし煽り気味にブレることなくしっかりと連写されているのは五十棲君の腕前がなせる技なのか、彼の嬉々たる絶叫が聞こえてきそうだった。
残りの枚数がまだまだあるのでまさか全部がボクシングをしている姉の写真なのかと呆れていると、ダッキングでフックをかわした姉に相手が打ち下ろしを放っているシークエンスになった。おそらく相手はボディを犠牲に姉を粉砕するつもりだったのだろう。しかし姉はそれには食いつかずに、打ち下ろしをぎりぎりでやり過ごして、代わりに自分の右を相手の顔面に食い込ませていた。対戦相手の吹き飛ぶ身体と悠然とコーナーに戻る姉の対比は嫌になるくらい残酷な現実を突きつけている。
写真はすべてが終わり、半べその羽二生さんを慰めている姉がふたたび誰かと話している場面になった。まさかなと危惧していると、果たしてふたたび対戦するようであった。
姉がどれくらいの力を出していたのか知る由もないけれど、あのインパクトの瞬間や殴り飛ばされている様子からさっきの人が第二ラウンドに突入する余力は残ってはいないであろうことは想像に難くない。
見切れている相手はやはりさっきの人とは別人である。青いグローブをはめたその人は赤いグローブの人よりも髪が長くて、同性の目から見てもかなりかっこいい人だった。
違うのは相手だけではない。姉は最初から本気のようで、相手の連携をかわしてショートを打ち込んでいる。ヒットしたものの、ダウンは奪えずに相手の人もすかさず反撃に転じていた。静止画なのに、すごく濃密な打ち合い、本気の殴り合いだということが分かる。まさに手に汗を握る感覚であった。どんどん表情が硬くなっていった赤いグローブの人とは対象的にこの人はすごく楽しそうだった。五十棲君も乗ってシャッターを切っていたことであろう。
姉の右が青いグローブの人の顔めがけて打ち込まれていた。またKOなのかとドキドキしながら見ていくと、姉のピンクの拳は寸前で止まっていた。その場にいない以上、何が起きたのかは分からない。ラウンドの終了かとも思ったけれど、ふたたび羽二生さんを慰めている写真を最後に姉が男性相手に拳を揮っているシーンはもうなかった。
*
ロクはその中に海の家で撮ったのがあっただろと含み笑いを浮かべた。桃海さんとかいうけっこう過激な格好の店員さんが写っていた写真のことらしい。
「あの人のことすごく気にしていたからな、三苫ちゃん。参考にしたんだろうさ」
「何のために」
「そりゃあ………」
そこまでいうと、チラッと僕を見、シギとお茶の準備に勤しんでいる三苫さんをやはり見てロクが意味あり気にため息をついた。
「三苫ちゃんの水着姿、見ただろ」
オレンジのフリルのついた、生地の面積の少ないビキニだった。
「生で見たら、もっとすごいんだぜ」
なんとも下種ないい回しをする。
「三次のビキニもあったろ。驚天動地を地で行くってのはああいうののことだろうな」
確かに彼女がああいう水着に着替えたのには驚いた。前日のサファリルックが本来の三次であろう。
「あいつも恋するオトメってことだな」
ロクにいわせると、彼女は五百旗頭君に惚れているということになっていたが。
「本当なのか、あれ」
「本人が認めたわけじゃないし、仮に問い質したとして答えないだろ。ただ、あの五百旗頭が近くに居るとあいつの挙動がおかしくなるのは事実だ。常時強固なSPモードに乱れが生じるんだよ」
シンプルな無地のTシャツに程よいシワ加工のドレープTシャツを重ねたロクは口調に幾分かのシリアスを乗せてそう断言した。
シギと三苫さんのそつのない動きでお茶の準備が整った。
「ナギも来りゃよかったのにな、何で来なかったんだよ」
揚げせんべいを噛み砕きながら、不思議そうな顔をする。確かにアツミさんの提案で姉から話が広がり、シギ経由で古くからの友人たちが参加する中、僕の不参加は不自然極まりないないかもしれない。
「海に行ってる間、何していたんだ?」
ざくざくっと甘じょっぱいせんべいを美味しそうに消化していく。ロクは甘いものが苦手なわけではないけれど、選択肢がある場合、せんべいやポテトチップスみたいなものに手を出す傾向がある。シギと三苫さんはバター風味豊かな四角や丸いビスケットを頬張っていた。女子がこういうものを食べている様はすごく絵になる。
「まさか、デートでもしていたのか?」
ずずっと麦茶を啜ったロクが口を歪めた。
えっと顔を上げたのは三苫さん。シギは満月みたいなビスケットをさくさくいわせながら、話を聞いていた。
初日は十鳥さんと上四元クシナの、本人たちいうところの殴り合いの喧嘩を見届けたあとに食事をし、二日目はシーナさんとティナさん、上四元クシナとプールに行って十五夜さんや彼女の家族に会った。三日目は雰囲気のいい喫茶店を見つけて、そこであのアオイさんという人とふたたび出会ったんだった。最終日はやはり感じのいい喫茶店に入ったら、思いがけず十鳥さんと遭遇した。顔見知りだけではない。プールではトナベさんとツイヒジさんという女子ふたり、あの喫茶店ではイロツキさんと何かいいたげだったもう一人のウエイトレスさんコンビとも出会った。ずいぶんと濃密な四日間だった。
「………なんだ、本当にデートだったのかよ」
ロクの声に我に返る。何枚目か、揚げせんべいを手にじっとこちらをうかがっている。
シギは不思議そうにこちらをみていた。三苫さんはどういう着地をすればいいのか計りかねているといった風に複雑な表情を見せている。
「そういう形式ばったものじゃないよ」
生地の片面にチョコレートをコーティングした矩形のパイをひと口で放り込んだ。口内にしみわたるチョコの恩恵を受けていない片面の生地に施されたシロップの甘さがちょっと今の僕には余計なオプションであった。
「十鳥さんとでも一緒だったか」
何気ない言い方ながら、そのするどさには恐れ入る。わざわざ話すことではないけれど、かといって隠すようなことでもない。ここは補足しておこう。
「あと上四元さんもいたよ」
「……ほう!」
ほんのりと小バカにした風に顔をほころばせつつ、感心したように声を上げるロクにちょっぴり後悔に苛まれた。
「三人で何をしたんだ、ん?」
「特別なことはこれといって」
「じゃあ、特別じゃないその内容とやらを聞かせてくれよ」
あの日、喧嘩にかこつけたボクシング、いや、ボクシング名目の喧嘩を見届けるために件のビルまで出かけていったことをいえば、いろいろと新たに説明しなくてはいけなくなる。煩雑だから、というよりもあれは秘匿しておきたい事情だ。
「……食事に行ったんだ」
嘘はついていない。紛れもない事実だ。ありもしない事柄を付け加えるのはつまりは嘘なのだけれど、これは事実から贅肉を削ぎ落としただけである。
「何食べたの?」
食いついたのはシギ。幼なじみの食い意地に感謝しつつ、あの日のメニューを想起する。とはいえなんだか利用しているみたいでちょっと自己嫌悪。
「上四元さんはアボガトと海老のサラダにオニオングラタンスープ、十鳥さんはメカジキのグリル膳、だったかな。僕はクラブハウスサンドをセットで」
シギはふむふむと鼻を鳴らしながら興味深げに聞いていた。どうせなら、ここは幼なじみの食欲に応えるべきであろう。
「今度、行ってみる?」
シギはうれしそうに頷くと、さっきからずっと手にしていた風船を手放して途方に暮れる女の子みたいな表情をしている三苫さんに一緒に行こうと微笑みかけた。
「……い、いいんですか?」
「もちろん、かまわないよ」
シギと僕を交互に見やる三苫さんに首肯してみせる。新たな風船を手にした少女のような笑みでふたたびビスケットに取りかかった。停滞していた時間が動き出す心地よさに浸っていると、ふて腐れたような声が聞こえてきた。
「……なんだ、俺だけ除け者かよ」
「ロクちゃんも来たかったら来ていいよ」
「………………」
シギの天然フォローにロクは押し黙ったまま、揚げせんべいの消化に専念していた。
「イズミちゃんも誘っていい?」
八百板さんは以前、電器量販店で久しぶりに見かけて以来だ。シギのいちばんの友人といっていい八百板さんとは小中高と学校が違うにも関わらず今でもよく遊んでいるようだ。拒否する理由はもちろんない。
「でも、イズミちゃん、最近は学校の先輩と一緒のことが多いからなあ」
どこかさみしそうにつぶやくシギを見つめながら、八百板さんはずいぶんと長いこと剣道をしていたけれど、高校進学と同時にやめたと聞いたことを思い出した。
「先輩って学校の? 部活はしてないんだよね」
「うん。せっかく続けていたのに、もっと学生生活を楽しみたいからって何の部にも入らなかったの。ナギちゃんと一緒だね」
胸がチクッとする。シギに他意はもちろんないだろう。
「よく瓊紅保に遊びに行ってるんだよ。同い年くらいの女の子が集まるイベントみたいなのにお呼ばれしてるんだって」
瓊紅保とイベントという単語に引っかかりを覚える。気にし過ぎだと思うし、実際そうであって欲しい。
「先輩ってどんな人? シギも会ったことあるの」
平常を装うべく言動に焦りを乗せないよう、極力自然に切り出す。願わくば、知っている名前が出ないことを祈りたいところ。
「うん。トサグシさんってカチューチャでね、こうやって髪の毛を留めて後ろに流している人だよ。ちょっと怖そうだけど、実際に話してみると、すごくいい人」
ジェスチャーを交えて話す幼なじみに安堵しながらも、全面的に不安が払拭できる状況じゃないことも感じていた。瓊紅保のマンションやプールで出会った人たちのことを思うと、人脈はそれなりにあるような気がする。トサグシさんという人がそうじゃないとはいい切れないけれど、もちろんまったくの無関係なことだってあり得はする。
瓊紅保=女子の集まりというだけで過敏になり過ぎている嫌いはある。そもそも懸念材料であるナスコンというものが具体的に何をしているかなんて今のところ、僕にははっきりと分からないのだ。
「どうしたの?」
我に返ると、シギが顔を覗きこんでいた。
「なんだか深刻な顔してたぞ」
ロクまでこちらを見ていた。三苫さんは微妙な空気に飲まれたのか、ふたたびどう対処していいのか量りかねる表情を浮かべている。
「なんだ、ナギもその集まりに交じりたいのか」
ロクのなんていうことのない言葉に心の中に発生して揺らめき続けている憂慮を察知されたのではないのだろうかという焦りが無意味に僕を急き立てた。
「それはないよ。絶対、ない。こうしてみんなといる方が楽しいし」
意識するつもりはなかったけれど、まくし立てるような大声だったために、若干、場の空気が冷え込んだ気がした。
「………お、おう。そんなに強調しなくてもいいぞ。なんつーか、悪かった」
ドン引きしながら揚げせんべいに取りかかるロクを見ながら、後悔に襲われる。
「大きな声出しちゃって、ごめん」
「ナギちゃん、五十棲君の撮ってくれた写真、全部見てくれた?」
気まずさに消え入りそうになる空気を払拭するように笑いかけてきたのはシギ。あどけなさと芽生えはじめている大人っぽさがせめぎ合っている幼なじみの笑みは周囲の温度を上げるのに貢献していた。
「うん。シギの水玉の水着とか三苫さんのビキニとかすごく似合ってた」
そう口にした途端、三苫さんは真っ赤になり、シギはうれしそうに微笑んでいた。
「アイさんとアカネさんの写真もよかったでしょう? アカネさんってすごいんだよ。ボクシング習ってるんだって」
アカネさんというのは例の清楚な感じのする女の子のことらしい。
「びっくりだよなー。文系のお嬢様っぽい雰囲気なのによ」
感嘆するロクの気持ちはすごくよく分かる。ところでボクシングといえば、例のイベントシーンと思われるあの写真だ。
「ロクちゃんね、担架で運ばれたんだよ」
「………えっ?」
甘いビスケット群を立て続けに食べた反動か、じゃがいもの小さなリングスナックを放りながら、シギがいう。当のロクは渋面を作って口を曲げている。
なんでもボクシング経験のある赤湖さんという男性――おそらく姉と対戦した人――をノックアウトすれば賞品が貰えるというイベントにロクが参加、いいところ――当人はここを非常に強く強調していた――までいったけれど、そこは所詮、素人の限界、けっきょくノックアウトされてしまったのだという。ちなみにアカネさんはその赤湖さんの妹さんだそうだ。まさか兄妹でボクシングをやっているとは。海の家の店員さんの関係者かと思ったもうひとりの少女、アイさんは赤湖さんの友人である青川さんの妹で、兄たち同様仲良しらしい。青川さんもやはりボクシング経験者だそうだ。ひょっとすると、姉が対戦したもうひとりが青川さんなのかもしれない。
「ロクも参加していたんだ」
僕のつぶやきにロクが顔を上げた。
「……も、ってなんだ? あのイベントは俺しか参加してないぞ」
「いや、だって姉さんが」
そこまでいうと、ロクはああ、あれかと苦笑してみせた。
「ナナミさんが貰ったっていうボクシングのグローブ、見たんだろ? あれは俺に対するお詫びだな」
いまいち話が見えない。だって姉は写真を見た限りしっかりとイベントに参加、赤湖という人と一戦を交えた挙句、もうひとりの男性と続けて拳を合わせていたようなのだけれど……。
「ロクがノックアウトされたあと、どうなったんだ?」
「しばらくおねんねしてたんだよ」
親友はシギの解説に情けない顔を見せた。
「イベントの人たちに『おくざしきはひばんです』っていう海の家まで運ばれて、夕方くらいにやっと目が覚めたの」
「……奥座敷は、非番です?」
「七ツ役さん、おくしす・ひまんてす、です」
珍妙な店名に戸惑っていると、三苫さんがすかさず訂正した。女子ふたりのコントみたいなやり取りを見つめながら、姉がボクシングにチャレンジしたという事実を知っているのはひょっとして限られたメンバーだったのではないかと思い至る。
「全員でイベントに行ったんじゃないんだ」
シギによると、着替えたあとはすぐに別行動になったとかで、シギはひとしきり海で漂ったあと三苫さんと屋台巡り、左衛門三郎のお嬢様や五百旗頭君たちは定番のスイカ割りなどを楽しみ、アツミさんはパラソルの下でお留守番、残りのメンツは姉と一緒に行動、食事に訪れた海の家でイベントを知らされて参加となったらしい。つまりメンバー中、あの衝撃的な事実を知ったのはシギがいうところのしばらくおねんねしてたロクを除いて羽二生さんと五十棲君だけということだ。いや、五十棲君のことだ、姉のすることはなんでも受け入れるだろうから衝撃に値しなかったかもしれない。
「いいところまでいったたんだけどな」
ロクは心底、口惜しそうに天井を仰ぎ見た。
「相手がボクシング経験者ならハンデとかなかったの」
「ハンデもなにも、元から向こうは攻撃しないって前提だ。向こうが出来るのは防御だけで、手は一切出さないんだよ」
しかし、ロクはノックアウトされた。手を出さざるを得ない何かがあったのだろうけれど、結果的に未必の故意といえばいいのだろうか、悲劇が起きた。
「ナナミさんが着ていたビキニに合わせてピンクのグローブまでつけて頑張ったんだぜ? この夏最大の山場っつても過言じゃなかったのによ」
なるほど。姉がつけていたグローブはピンクだった。本来はされないはずの理不尽な結末に姉は静かに怒ったのだろう。ロクと同じグローブをつけて、おそらくはイベント用のルールを撤廃して本来のルールで挑み、相手を一発で沈めた。あの写真はそういうことだったのだ。そのことを知ればロクは感激するかもしれない。いや、憧れの女性の前でいいところをみせるつもりが、無様にキャンバスに沈んだ挙句、その憧れの女性に無念を晴らされるということは屈辱かもしれない。そうでなくともロクは年の割りに前時代的なところがある。最近はさしてめずらしくもないとはいえ、ボクシングをするような強い女性などはたとえ姉とはいえ、容認しないだろう。
大げさな物言いだけれど、期せずして解禁することになった姉の本来の姿。この尋常ならざる姉の側面は結果的に羽二生さんと五十棲君だけが知ることになったわけだけれど、むしろ好都合だったのかもしれない。
このあと海水浴の話や都合のいい日に遊びに行く予定を立てるなどして過ごし、みんなが帰る頃にはシギから聞いた八百板さんの先輩の話はもう忘れていた。
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