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十鳥オガミと上四元クシナ

雷雨

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「380円だったわね」
 十鳥オガミはがま口――彼女らしい――から硬貨を取り出すとこちらに差し出した。
 手のひらほどの黒い皮革と金口で構成されたいかにもな感じのシンプルな財布の中はさらに小さながま口が仕込まれており、それ自体が仕切りの役目を果たしているおかげで都合、三室構造になっていた。
「使い勝手がよさそうね」
「ええ」
 会計は割り勘にするのも面倒なので、私が払っていた。別に奢りでもいいんだけど。
「そういうわけにはいかないもの」
 アクションを起こさない私の右手のひらを掴んで硬貨を乗せる。ついさっき人を、名前も知らない男を殴り飛ばした右の手。
 スロゥフを出てしばらく当て所もなく歩いてたどり着いたのは公園だった。よく音楽系イベントの開催とかでニュースでも取り上げられる会多戸を代表する大きな都市公園で辺りには県庁だの会多戸市役所だのしゃちほこばった建物も乱立している。
 オフィス街ということで平日の今時分だとホワイトカラーな人たちであふれ返るのだろうけど、休日の今日はビル群とは縁のなさげな若人や家族連れがちらほら見える程度。
「あの三人、ってさ」
 手の中の硬貨を見つめながらさも自然な流れで会話をしてますよといった風に切り出すと、十鳥オガミはしずかに口を開いた。
「小学校のときのクラスメイト。女子の方はちょっと分からなかったけれど、あなたが暴力に訴えた男子は面影が残っていたからすぐに分かったわ」
 女は変わるからなあ。
「もう一人の子は仲良しというほどではないけれど、私が糾弾されたとき、かばってくれた女子の中のひとりだったわね」
 ウルフやつけまつげと比べてちょっと浮いてると思いはしたけど、なるほど女は変わる。人は変わる。
 ……いや、あの無理してます感全開――超ミニのタンクワンピース――の格好は変わろうと努力している最中、というべきか。
ユダ・・ってあの男のことでしょ」
 十鳥オガミは黙っていた。向こうに見える壁泉のようにどこまでも透明でどこまでも涼しげな目元。
 過去の話は当人から聞いてはいたけれど、あらためて関係者から嘲り雑じりに語られるとなんとも生々しく、そして腹立たしかった。
 十鳥オガミには暴力に訴えたと皮肉られはしたけれど、あのノックアウト劇に後悔は一切していない。
 小学校と顔ぶれがほとんど変わらなかったという中学校を卒業するまでの五年間、ああいう同級生たちから浴びせられたであろう不愉快な眼差しや発言を日々浴び続けた十鳥オガミの背中を想う。
 孤立無援はむしろ望むところのような雰囲気も漂わせてはいるものの、でもやはり愉快な学生生活ではなかっただろう。
 もう一度、右の手を確認するみたいに握り込む。
 あのときの苛立ちはどこから来たものなのか。
 不愉快な話を楽しげに交わす三人組。
 それらを黙って聞いていた十鳥オガミ。
 天気予報を無視して晴れ続けている空。
 どれということではなく、それら全てなのかもしれない。

 ――――いや。
 目的地を会多戸ここにしたのは誰だ。
 そのせいで十鳥オガミはしなくていい、ちょっとした同窓会をするはめになった。
 すべての原因は――――、

「ここは以前、私が住んでいたところから見ても身近な都会だし、遊びに来ていてもおかしくはないわね」
 まだ新品に近いサンダルによる擦れを気にするように足の指を動かしていると、引け目を感じているように見えたのだろうか、十鳥オガミが見透かすような口調でいった。
「あなたがどういう意図で私を連れ出したのか、さっきのことをどう考えているのか知る由もないし、感傷に浸るのも自由だけれど、それをわざわざ表面に出すのはやめてもらえないかしら」
 強引に誘ったことを怒っている。それが目なのか口なのか、どこかに態度として表れたのかもしれない。
 十鳥オガミはおこごと発動前の母親のように一息つくと、そっと継いだ。
「あなたの誘いに乗った時点でなにが起きても責任は自分自身にあるし、そもそも何に対して怒る必要があるのかしら」
 いつも以上に厳しさを湛えた物言いに最後に叱られたのっていつだったかと記憶を辿ってみるけれど、あいにく行きつけなかった。褒められはすれ、怒られることは皆無だったからなあとひとりごちてると、やにわに空が曇ってきた。
 なんだ、当たるじゃない。天気予報。
「あなたが呼んだみたいね」
 人指し指を上に向けると、十鳥オガミはにこりともせずにそうね、と息を吐く。
「せっかく持ってきた傘が無駄にならなくてよかったけれど、そのことに関してあなたから何か感謝の言葉でも頂けるのかしら」
 何も欲しているようには思えない口振りでそんなことをおっしゃる彼女のその目には涙が光っているように見えた。
 強がって見せてもやっぱりさっきのことを気にしているんだな。ぶつけようのない焦燥と後悔に苛まれていると、十鳥オガミの口から意外なセリフが飛び出した。
「したたかなようでいてけっこう繊細なのね」
 突然なにをいい出すんだか。思わぬ言葉を訝っていると、追い打ちが入った。
「何か落ち込んでいるように見えたのだけれど」
「私が?」
「違ったのかしら」
 自分の弱さをごまかすためとはいえ、ずいぶんといいたいことをいってくれる。
「そっくりそのままあなたに返すわ」
「返される謂れなどないのだけれど」
 その強情っぷりにちょっと腹が立った。
「よくいうわね。涙まで、」
 と、額にぽつっと水滴が当たる。
「涙が何かしら」
 どうやら厚い雲から落ちてきた待ちに待った慈雨が十鳥オガミの目の下に当たっただけのようだった。
「涙が何かしら」
 ……………。
「涙が何かしら」
 いじめっ子のように執拗に繰り返す。ようやく出番が来た折りたたみをバッグから出しながら反撃開始。
「しつこいと傘に入れてあげないわよ」
「あなたが口にした涙の理由を訊いただけでしょう。しつこいなんて心外の極みだわ」
「思う存分、雨に濡れるといい」
 捨て台詞と共に折りたたみを十鳥オガミとは反対の方向に差すと、いきなり私の腕を掴み、休日に私を引っ張り出した責任は取ってもらうわよ、などとのたまいながら、青空のデザインがまぶしい5145円の折りたたみの恩恵に与ろうと強引に入ってくる。ニューヨークの美術館が売り出しているアイテムの一つでナナミさんに教えられて購入した一品だ。
「図々しいのね、あなた」
「ええ。図々しいの、私」
 一ナナギの家にステイしていた週末を思い出す。
「見習いたくなるでしょう」
 フッと薄いくちびるを品よく曲げる十鳥オガミは心の底から楽しそうだった。
 雨は次第に勢いを増し、足の指から足首をまんべんなく濡らし始める。
 肩と肩がぶつかった。お互い女子にしては大きい方なので若干、身を縮こませるようにしないと身体まで濡れそうだ。
 いよいよ強まる雨足に対し、不思議と雨宿りをしようとは思わなかった。このまま歩いていたい気分だったし、左隣りで澄ましている十鳥オガミもきっと同じな気がした。
 地面に叩きつけるように振り続ける雨はやがて通りを川に変えた。波打つ海面にも似た灰色のそれからは白い煙がもうもうと立ち上っているようにも見え、まるでちょっとしたアトラクションに身を委ねている気さえしていた。
 いったいどれくらい経った頃だろう。
 何も喋らずただひたすら駅に向かう道すがら、互いの関係を知りたいならしばらく黙ったまま沈黙に耐えられるかどうか様子をみればいいと誰かがいっていたことを思い出した。
「ねえ」
 あっさり根負け。
「あなたのこと、オガミ・・・って呼んでいい?」
 願わくば了承の証、沈黙を期待したいところ。
「あなたが私をどう呼ぶかはあなたの自由だし、その呼びかけに私が答えないのも私の自由」
 停滞した空気を打破する意味で発した発言だったけれど、あわよくばという目論見も込みだったのも事実。でも、十鳥オガミは容易く流されることはなかった。
「じゃあ、オガミちゃん・・・
 十鳥オガミが答える代わりに大地を揺るがすような凄まじい雷鳴が会多戸の上空に轟いた。久しぶり、いや初めて聞く大きな音に思わず足が止まる。追いかけるように稲妻も鋭い閃光を伴って雲の切れ間から落ちてくる。
 彼女は雨雲のみならず雷まで呼べるらしい。
「古くは突風によって引き起こされるといわれていたらしいわ」
 何のことかと訝っていると、彼女はすまし顔で続けた。
「厚い雲に閉じ込められて風は爆発するかの如く前方に噴出し、その煽りを受けた雲は引き千切られて轟音を発する。つまり雷鳴。そして裂け目は雲の黒さと対比によって閃光のごとき現象を呈する。つまり稲妻。科学が発達していない時代の人の発想は柔軟でユニークよね」
 先ほど人知れず想像していたクラスで孤立していたであろう十鳥オガミの背中からは表情は読み取れなかった。
 係わりの一切を拒絶したかのような無表情さでただ日々を送っていたのかもしれない。
 披瀝しなかっただけで意外と理解者を得て笑顔を見せることがあったのかもしれない。
 私には分かりようもないし、そもそも分かる必要のないことだとは思う。

 ただ、今はっきりしているのは、本格的な夏を前に荒れる一方の初夏の空をまるで楽しむように十鳥オガミの表情は憎たらしいくらいに穏やかで、やさしかった。
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